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暗躍する外交官と「金貸し」の支配戦略

日本金融史9〜イギリスがプロデュースした明治維新〜 [1]に登場したアーネスト・サトウは、1863年薩英戦争が起こった年に通訳として来日した若者(当時19歳)です。好奇心にあふれるサトウは訪れた各地で主要な人物と交流を深め、民衆の生活を知り、日本社会をもっとも理解する外国人となりました。
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アーネスト・サトウ
画像は「ウィキペディア」 [3]から拝借しました。
イギリスが対日交渉の主導権を握った影に、サトウやシーボルトら外交員の日本人に関する情報が役立ったものと考えられます。
同時期に日本に進出した国はフランス。情報収集の幅の広さや通訳制度の充実の点において、フランスはイギリスの敵ではありませんでした。フランスの駐日公使レオン・ロッシュによる本国政府への報告はイギリスのそれに比べて質量共にはるかに劣ります。フランスの対日政策は、条約を履行する限り幕府を支持する楽観論で、薩摩・長州藩に対する視点が欠落している等、一面的な理解にとどまっていました。
またアメリカでは南北戦争が始まり、アジア進出にブレーキが掛っていました。
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アーネスト・サトウの仕事
1866年3月、日本駐在3年目のアーネスト・サトウ(22才)は英字新聞ジャパン・タイムズに無署名の論文を寄稿します。
三稿に分けて掲載された長い論文ですが、論旨は「将軍を国家元首とするのは不適当であって、天皇を元首とする諸大名の連合体が政権の座につくべきである」というもので一外国人の個人的見解として打ち出しました。
このとき公使パークスはまだ幕府に期待を残しておりましたが、実際に多数の日本人と接してきたサトウは完全に幕府を見限っています。そして、結びの文章でパークスや本国首脳の認識転換を期待しています。

「しかし、いくつかの最近の事件によって、われわれがこの強大な大名(将軍)に元首という地位をふりあてたのはあやまりであったことが証明された」
「われわれは、厳粛且つ真剣に根本的な変革を提唱する。われわれがのぞんでいるのは、ただひとりの有力者との契約ではなくて、この国のすべてのひとにたいして拘束力を持ち、且つ利益をもたらす条約である。われわれは、将軍を日本の唯一の支配者なりとする陳腐な虚偽をすてて、他の同等な権力者の存在を考慮に入れなければならない。いいかえれば、われわれは、現行の条約を、日本の連合諸大名との条約によって補足するか、あるいは前者と後者と取り替えるかしなければならないのである。」

「われわれは、遠からぬ日に現行の条約が廃棄され、いっそう包括的で満足の行く条約すなわち、天皇および連合諸大名−彼らが日本の真の支配者である−との公正な協約がそれにかわることを切望して、このことを解決させる力を持っているひとびとの手に、この問題をゆだねるものである。」
(1866年3月 ジャパンタイムス掲載論文の一部・・・遠い崖−アーネスト・サトウ日記抄3『英国策論』 より転記)

この論文はまもなく和訳されて『英国策論』というタイトルで出版され、大名たちの手に渡って幕府は大慌てしました。そして2ヵ月後の5月に「改税約書」に調印し、各藩の自由外国貿易が実現します。
論文はサトウのあずかり知らぬところで和訳され、流布してしまったとされていますが、見事な訳文はサトウ自身によるものという疑いが濃厚です。それが事実なら、薩長に勢いをつけ幕府を窮地に追い込んだ、実に効果的な工作で弱冠22歳の若者によるスゴイ仕事です。
アーネスト・サトウは1863年から1883年まで20年間日本に駐留し、のちに駐日公使として1895年から5年間滞在しました。延25年にわたる日本人との交流を通して「日本研究」の第一人者として名を馳せるとともに、幅広い国際感覚を日本人に植えつけました。
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アーネスト・サトウ書「敬和」
画像はウィキペディア [5]から拝借しました。
「金貸し」の思惑
また、イギリスは幕府不信任の本音を表面にあらわそうとしませんでした。外務次官サー・エドモンド・ハモンドから公使パークスへの書簡にも見られるように「(倒幕といった積極的行動は)すべて大名にやらせよ」というのがイギリスの対日政策の基本でした。武力侵攻による支配はその後の利益を考えれば得策ではないと考えていたのです。

「日本において、体制の変化が起きているとすれば、それは日本人だけから端を発しているように見えなければならない」
「事実、その変化はわれわれの考え方と異なる仕方でおきるかもしれないがそれが真に恒久的なものであり、且つ有益なものであるためには、徹頭徹尾、日本的性格という特徴を帯びていなければならない。」
(1866年4月26日、ハモンド外務次官からパークス在日公使館宛文書・・・遠い崖−アーネスト・サトウ日記抄3『英国策論』 より転記)

外国による支配を知らしめることなく、日本という新市場を掌中に納める巧妙な策略。侵略戦争を繰り広げた上で勝利するか、納得ずくで支配するか、緻密な情報収集の上に日本人の意識構造を理解したうえでの選択だったと思われます。
薩摩・長州に政権をとらせて表面上は一国内の政変と見せかけ、市場を支配しました。結果、日本人は支配されたとは夢にも思わず、新時代のお手本としてイギリスを見てきました。
このような支配を誰が考えたのでしょうか?それまでの国VS国の侵略戦では見られなかった戦略でしょう。また、外交員や商人を深く潜入させて相手国の内情を把握、分析を企てるというのも新しい。
おそらくは背後にいて新市場をコントロールする「金貸し」(=ロスチャイルド)の意を汲んだ政府と商人が見事な連携を見せ、日本の政変を演出したのではないでしょうか。
このあたり、追求ポイント③明治初期、日本の諸制度は、欧米の誰から学んだの? 日本の諸制度導入のために動いた欧米人は誰?でさらに追求してみましょう。後稿にご期待ください。
参考資料:
萩原延壽 「遠い崖−アーネスト・サトウ日記抄」
富山国際大学 国際教養学部 サテライト市民講座
「イギリスと日本——明治維新、日英同盟、そして戦後」

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