2008-09-15

日本金融史9〜イギリスがプロデュースした明治維新〜

『日本金融史7〜日本の政治家が財閥に操られるようになったのは、何で?〜』であげた追求ポイント
②薩長と金融資本(ロスチャイルド?)は、(いつから、どのように)関係しているの?についてです。
植民地拡大→世界の覇権争いを繰り広げる列強諸国にとって、日本は極東に残された最後の標的でした。地理的には他国を牽制する要所、すでに近世の成熟した都市が形成され、商工業がある程度発達している日本を開国に導き通商関係を結び、実質支配することが各国共通の狙いだったでしょう。ただ、そこは西洋人が容易に理解できない不思議な国・・・日本でした。
1854年アメリカのペリー提督は江戸湾で大砲の威嚇発砲を行って開国を迫り、日米和親条約を強引に締結させました。一方、イギリスの東インド艦隊司令官ジェイムズ・スターリングは異国船の窓口であった長崎に静かに入港し、日英和親条約締結にこぎつけるなど日本進出を競います。1858年には米、英、仏、蘭、露の5カ国と修好通商条約 が締結されますが、条約の履行を巡って諸外国と日本の間で(いかにも日本らしいが諸外国にとっては甚だわかりにくい)交渉が展開します。ここでアドバンテージを取ったのがイギリスです。
イギリス駐日公使ハリー・パークスは幕府と交渉を続ける一方で、薩摩・長州藩と友好関係を結び、日本人の手による倒幕・天皇政府樹立を陰で支援しました。パークスは第14代将軍徳川家茂が病死すると、大名の家臣や幕府の下級役人から後継者に関する情報を収集させ、政変の舵取りにかかります。イギリスはアレグザンダー・シーボルト(フィリップ・シーボルトの子)、アーネスト・サトウ等の優れた通訳者をかかえており、彼らは有能な諜報員でもあったのです。
彼らの得る情報の緻密さは他国のそれをはるかに上回っていました。
結果的に、明治天皇政府を最初に承認した外国人はパークスです。

ハリー・パークス
画像は「ウィキペディア」から拝借しました。
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薩長とイギリス
イギリスが江戸幕府に疑問を持つようになったきっかけは、1862年の生麦事件です。幕府は賠償金を全額支払ったが、薩摩藩に対して犯人の引渡しを命ずることができませんでした。そこでイギリスは直接、薩摩藩に犯人の引渡しを要求、薩摩側がこれに従わなかったため、1863年薩英戦争を開戦。戦闘はわずか3時間半でイギリスは一方的に勝利宣言を出しましたが死傷者は薩摩側よりイギリス側の方が多かったのです。
イギリスは薩摩藩という雄藩の存在を認め、政権というには貧弱な権力しか持たない幕府に見切りをつけ、倒幕の担い手として薩摩を利用する政策に転換しました。また最新兵器の威力を目の当たりにした薩摩藩もイギリスと手を結んだ方が得策と考えました。

同じ1863年、長州藩が無謀にも下関海峡を通行するアメリカ商船、フランス軍艦、オランダ軍艦を砲撃しました。これに対してイギリス(この時、直接被害を被ってはいないが何故か連合のリーダー)を含む四国連合による報復攻撃を受け、長州藩は惨敗します。翌年講和条約が結ばれ、長州藩は自らの暴走を深く反省してイギリスへ接近、藩の近代化・軍の合理化・産業革命に乗り出します。

1865年、イギリスは徳川幕府に対して兵庫開港、江戸・大阪開市を盛り込んだ『ロンドン覚書』の実施を迫ります。しかし、諸大名の合意も取り付けられず、また天皇の勅許なしには覚書を実施できない幕府は、これに回答することができませんでした。幕府よりも打てば響くように反応が返ってくる薩長の方が政権を担当するのにふさわしく、イギリスの利益にもつながると判断したことが、イギリスが幕府から薩摩・長州に鞍替えした最大の理由と考えられます。
アーネスト・サトウらイギリス外交官の諜報活動が、西欧人には難解な日本人の共認風土を理解することを可能にし、思惑通り「日本人の手による政変」を実現しました。
坂本竜馬が薩摩・長州を結びつけて明治維新が実現した、と多くの日本人が信じていますが、イギリスが政変を誘導した事実を隠蔽するために操られたにすぎず、竜馬の新社会構想といわれる『船中八策』は、サトウの『英国策論』の焼き直しに他ならないのです。
この他、江戸城総攻撃を思いとどまらせる西郷隆盛と勝海舟の交渉を円滑に運ぶなど、日本史における重要な局面において、イギリス公使パークスとその部下たちが陰の力となりました。
一方で、“死の商人”グラバーによる武器供給が戊辰戦争勝利をもたらします。
政府外交官商人の暗躍によりイギリスの日本支配戦略は着々と進行したのです。
彼らが親しく接した薩長の下級武士が明治新政府の首脳となったのは当然の帰結です。
そして、
明治維新後、日本が近代国家を作り上げていくモデルは、当然イギリスでした。その国力が最盛期に達していたイギリスは、政治・経済・社会制度等、あらゆる分野における模範国であり、重要な貿易相手国となったのです。
二院制による議会政治、鉄道(新橋・横浜間を最初に走った機関車はイギリスから直輸入されたもの)、都市における地下鉄、郵便制度(特に赤いポスト)等、今日わが国において当たり前のことのように通用している社会制度や施設の多くは、イギリスに倣ったものです。
結局イギリスが幕末日本の貿易シェアの75%を、明治日本では50%を支配することとなりました。新しい日本海軍・商船団へのイギリスの援助も継続的なものとなっていきます。
参考資料:
萩原延壽 「遠い崖−アーネスト・サトウ日記抄」
富山国際大学 国際教養学部 サテライト市民講座
「イギリスと日本——明治維新、日英同盟、そして戦後」

List    投稿者 finalcut | 2008-09-15 | Posted in 02.日本の金貸したち7 Comments » 

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コメント7件

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