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GDP信仰からの脱却5〜GDP信仰と「共同体の解体」

GDPの一つの意味は「国内を流れたお金の総量」 [1]であり、別の見方をすると「“市場化”された活動の総量」 [2]でもある。だから、今までに無かった商品が開発・販売されればお金の流れが増え、GDPは上がる。また、今まで市場化されていなかった活動が市場化された場合も、お金の流れが増え、GDPは上がる、ということをこれまでの記事で書いた。
“今まで市場化されていなかった活動が市場化される”とは、従来は無償で行われていたものが有償で購入するサービスに変わったということだ。実際そのような形で日本の第三次産業は発展し、GDPの拡大に寄与してきた。しかし、「社会集団の在り方」という視点で見ると、このことは即ち「共同体が解体されていく」ことを意味する。

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昨今、子育てや教育、介護、治安の荒廃の問題から「共同体の再構築が必要」ということが言われるようになった。これ自体は首肯できるが、重要なのは、共同体とGDPは相反関係にあるということだ。
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以下、引用部分は内田樹のブログ〜そんなことを訊かれても〜 [3]より。
■互助的・互恵的な共同体が機能すると、消費活動は抑制される

資本主義は口が裂けても「共同体の再構築」ということは提言できない。
もちろん、消費者たちに最低限の消費活動を担保することと、人口の再生産のために「核家族」くらいまでは許容範囲だが、それ以上のスケールの共同体ができてしまうと(親族であれ、地域共同体であれ、「疑似家族的」集団であれ)、消費行動はたちまち鈍化してしまう。

考えれば、当たり前のことである。
共同体に帰属していれば、耐久消費財のほとんどは「買わずに済む」からである。
誰かが持ってれば「貸して」で済む。
お金もうそうだ。
誰かが持っていれば「貸して」で済む。銀行もサラ金も要らない。
金融商品もさっぱり売れない。
だって、それは「博打」だからだ。
「みんなの財布」を持ち出して鉄火場で博打をしようと思うんですけど・・・という提案が共同体内部で合意を獲得することはきわめて困難である。
(中略)
だから、後期資本主義は久しく全力を尽くして「共同体形成」に反対してきたのである。

資本主義の発達過程とは「私権獲得主体」の細分化の過程であり、それは即ち共同体の解体と個々人の孤立化の過程であった。孤立化によって、人々は何をするにもお金がかかる空間に放り出された。GDPという指標も、この資本主義の性質を完全に踏襲している。人々を孤立させればさせるほど、村落共同体や家庭など集団内の期待・応合関係(≒互助・互恵関係)の中で営まれていた諸活動はアウトソーシングされ、GDPは上がる。GDPとは集団の解体度を表す指標 [4]なのだ。
■資本主義批判が“弱者の連帯”の形で現れる理由

資本主義に対するもっともラディカルな批判はマルクスによるものだが、マルクスの主張は一言に尽くせば「万国のプロレタリア、団結せよ」という『共産党宣言』の言葉に要約される。
資本主義に対する根底的批判の言葉が「資本主義打倒」ではなく「貧しいもの弱いものは団結しなければならない」という遂行的なテーゼであったことを見落としてはならない。

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(中略)
問題は、資本主義の活動性がある閾値を超えると、人々を分断し、孤立化させる点にある。
資本主義の邪悪さはその構造そのもののうちにではなく、「人類学的水準」において顕在化する。
だから、資本主義に対する抑制的行動は「人類学的」水準において、つまり「弱者の連帯」というかたちでのみ効果的に果たされる。

集団が解体され人々が孤立化していくと、それまでの共同体の互助・互恵システムの中で相対的に助・恵を受け取る割合の高かった一部の人々、あるいは、数量的に測り難い価値を提供していた人々の一部が「弱者」(あるいは敗者)として顕在化する。だから、資本主義批判は「弱者の連帯」という形を取って現れる。その歴史上、最も典型的な例が共産主義だった。
■共同体の再生と景気拡大は両立しない

そんなマルクス主義の最期の「彗星の尻尾」も1970年代の初めに宇宙の彼方に消え去り、それ以後覇権を握った資本主義は共同体の解体と消費主体の「孤立」を国策的に推進してきた。
自己決定・自己責任論も、「自分探し」も消費主体を家族や地域や同業集団から切り離し、「誰とも財産を共有できないので、要るものは全部自分の財布から出したお金で買うしかない(金がないときはサラ金から借りる)生活」をデフォルトにすることをめざしてきたのである。(中略)
「共同体の再生」という大義名分には反対する人はいないだろう。けれども、それが「消費活動の冷え込み」を伴うという見通しについては、「それは困る」と言い出すだろう。
申し訳ないけれど、これはどちらかを選んでもらうしかない。

さらに言えば、この解体・孤立の過程は二段階ある。まず、生産過程と消費過程、闘争過程と生殖過程が一体であった本源的な共同体集団を、生産・闘争の場である企業と、消費・生殖の場である核家族とに分断し、次いでそれらの成員を個々人バラバラに分断し、市場を拡大してきたのが資本主義であり、その数値的な指標がGDPだったと言える。
今や私権欠乏は衰弱し、バラバラにされた個々人の活力衰弱が社会全体に閉塞を引き起こしている。必要なのは、今以上の景気の拡大ではなく、明らかに共同体の再構築の方である。だとすると今後、これまでにアウトソーシングされてきた諸活動が共同体に再吸収され、その分のGDPが縮小していくのは必然と考えなければならないのではないだろうか。

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