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【需要発から供給発へ】 7.市場社会を突き抜ける

【需要発から供給発へ】シリーズバックナンバー
1.働かない人に支援金を払って、活力が上がるわけがない [1]
2.「役に立つ答えを探す事」が、社会活力の基礎構造 [2]
3.活力再生需要に対しては、『供給者不足』 [3]
4.「需要発から供給発へ」 [4]
5.新概念を使いこなせて、はじめて供給者になれる [5]
6.供給発のカギは、ゼロから新しい供給者を育成してゆく仕組み [6]

前回・前々回お送りした
5.新概念を使いこなせて、はじめて供給者になれる [5]
6.供給発のカギは、ゼロから新しい供給者を育成してゆく仕組み [6]
では、本シリーズの中核内容である、4.「需要発から供給発へ」 [4] のエントリーから「供給発」で考えるための新概念の必要性と、具体的にこの社会の中で供給者を育成してゆく仕組み(認識が塗り替えられていくプロセス)について述べました
今回ご紹介する、るいネット [7] の投稿は、同様に4.「需要発から供給発へ」 の認識内容を起点とし、“市場社会を突き抜ける”という認識(着眼点)が持つ普遍性と構造について、同じくるいネットよりいくつかの注目投稿群を参照しながら、お送りします(各統合群は下記のような連鎖イメージです)。
     [1]
    │
     [2]
    │
     [3]
    │
     [4]
┌─┴─┐
[5]     ※今回
│     │
[6]     ※次回

80710 市場社会を突き抜ける [8]
新しい社会統合機構が出来てしまえば、「需要と供給」という概念も不要となるかもしれない。元々、需要者としてだけの存在(傍観者)など市場社会以外にはありえないからである。
しかし、「需要発から供給発へ」という認識の転換は、市場社会が生みだすさまざまな不全に対する「じゃあ、どうすればいいの?」の基本解答となっているように思う。
>新しい可能性は、現存する同類闘争の場(=市場)の中で、現存の評価指標(=お金)に則って現実の必要が認められ、勝ち抜いてゆくことによって、はじめて既存の全てを自らの下に収束させてゆく新しい最先端機能であることを、人々に証明することが出来るからである。(35273「超国家・超市場論」)
この供給発(当事者)への転換は、国家が何をすべきか?というだけでなく、企業にとても、個人で切っても使える概念であるところが秀逸である。「国家として活力再生(の供給者)を支援していかなくてはいけない」と同時に、「個人の選択の自由の中には、やりたいことが見つからない」ことをも浮き彫りにしてくれるからである。
何よりも、上記投稿は、露店を訪れる人々に供給者(=協働者)としての期待をかける根拠となっているし、次代を創る社会活動の論拠となっている。そして、市場の真只中から市場社会を突き抜けてゆく実現可能性を鮮明にしてくれる。
>共同体や新しい婚姻制etc、どんなに素晴らしい社会でも、その社会を作る当事者になれないのなら、永遠に充たされない。逆に、当事者になれたのなら、今すぐにでも充足できる。(80692)

現代社会は『何をするにもお金がかかる社会』(超国家・超市場論10)です。当たり前すぎて、普段あまり深く考えたことがないですよね?
そこで、なぜ現代社会は何をするにもお金がかかる社会となったのか?原点に戻って考えてみます。

市場時代を通じて、市場を拡大させた主動因は、私権の強制圧力による抑圧からの解脱としての、快美幻想への可能性収束=快適さや便利さの希求である。逆に云えば、人々が私権の強制圧力からの解脱手段としての快適で便利な快美生活を手放せないことが、何をするにもお金がかかる社会が出来上がった原因である(そしてそれこそ、人々が精神を破壊し、環境を破壊して止まない原因でもある)。
このように、市場拡大の原理的なテコとなっているのが価格格差の幻想共認だとすれば、具体的なテコとなったのは交換手段とりわけ交換取引の評価指標としてのお金の共認である。
30710・超国家・超市場論10 何をするにもお金がかかる社会 [9]

原因の1つ目として挙げられるのは、「私権の強制圧力による抑圧」を起点とした快美幻想への可能性収束。その幻想共認に支えられた価格格差によって市場拡大し、資本力=私権の力が社会を支配してきたわけです。
もう1つ別の視点として、

では、社会空間では、何をするにもお金がかかるのは、なぜか?
社会空間での集団間(or個人間)の関係の原基形態は、同類闘争(縄張り闘争)という闘争関係である。それに対して悲惨な掠奪闘争が象徴している様に、人々には闘争を回避しようとする適応本能が強く働くが、根が私権闘争に基づいているが故に、それを回避する抜け道は、互いの合意に基づく取引関係しかない。
事実、私権闘争の圧力で満たされた社会空間では、相互に現実の欠乏を充たそうとすれば(つまり、欲と欲がからめば)、奪い取るか、さもなければ取引関係を結ぶ以外にはない。(その典型が私権時代の男女関係であるが、同様に私権時代にあっては親子関係にも友人関係にも、取引的な側面がつきまとっている。)
その結果、一歩集団の外に出れば、何をするにもお金がかかる取引社会=市場社会が出来てしまった。
実際、社会空間では、何をするにも電話代や電車代や飲食代が必要である以上、お金を使わない(社会空間での)活動など殆ど在り得ない。仲間の集いや地域の祭りさえ、お金がかかっている。
33179・超国家・超市場論22 お金は、現実の必要度を測るモノサシ [10]

元来、人類が包摂されてきた「集団」とその外にある「他集団」との関係と、略奪闘争(戦争)の回避、即ち私権闘争の抜け道としての共生取引関係、それが社会の市場化、つまりお金を媒介にした関係ができあがってきた要因です。
現在でも、お金は万人に認められた指標であり、必要なものにはお金を払っているわけです。ゆえに、お金は現実の必要度を測るモノサシ なのです。
一方、お金には、
  金の切れ目が縁の切れ目
  金の貸し借り不和(ふわ)の基(もと)
  29344 お金〜ことわざより〜 [11]
というように、私権的・強制圧力的な意味・側面も併せ持ちます。
社会活動・事業を行っていくにあたり、このお金を評価指標として使う意味はどこにあるのでしょうか?

いかに時代が変わり、中身が変わっても、『評価指標の共認』という収束=統合機能の絶対的な必要性は、不変である。
それ故に、時代が変わる時、新しい可能性(中身)は、必ず古い評価指標の世界の真只中に姿を現わしてその評価の洗礼を受けることが、顕在化するための絶対的な必要条件となる。
なぜなら、新しい評価指標(=投稿資格)が確立するまでは、現存する評価指標(=お金)に基づく評価を獲得してゆく以外に、評価獲得の道がないからであり、また、新しい秩序(=社会統合機構)が出来てもいないのに現存秩序をいきなり壊してしまう訳にはいかないからである。
そして又、新しい可能性は、現存する同類闘争の場(=市場)の中で、現存の評価指標(=お金)に則って現実の必要が認められ、勝ち抜いてゆくことによって、はじめて既存の全てを自らの下に収束させてゆく新しい最先端機能であることを、人々に証明することが出来るからである
35273・超国家・超市場論29 新しい『場』は、古い評価指標の洗礼を受けて、はじめて顕在化する [12]

【新しい『場』は、古い評価指標の洗礼を受けて、はじめて顕在化する】まさに、るいネットが行っていること(るいネット利用規約 [13])です。
無料が常識のネット世界(ネットの古い現実世界)で、有料化(古い機能・価値)の方針を持って、認識が塗替えられていく [14]のです。
「需要発から供給発へ」という認識を持って、「市場社会を突き抜ける」とは、市場(の枠組み)を超えていくために、新しい社会づくりの当事者になっていくことなのです。
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次週はシリーズ最終回です。お楽しみに

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