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『経済が破綻したらどうなる?』2.〜預金封鎖と新円切替:金融緊急措置の失敗〜

プロローグ [1] 
第1回〜戦後日本のハイパーインフレ時はどうだったの?〜 [2]
 
前回は、終戦時の日本におけるハイパーインフレ時の急激な価格上昇や、当事の食料難を受けて拡大した闇市という非合法マーケットなど、終戦直後の経済の混乱を見てきました。
 
このハイパーインフレを受けて日本政府と日銀は、これを阻止しようとします。今回は、このハイパーインフレ阻止を巡って政府と日銀が、どのような政策を執ってきたのかを見て行きたいと思います
 
 
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写真はこちら [3]よりお借りしました。
 
 
いつもありがとうございます。
 


それでは、政策の変遷を分かりやすく説明しているこちらのサイト [4]より引用させていただきながら、当事の状況を見ていきたいと思います。
 
 
●終戦後のハイパーインフレ

1945年8月15日の終戦によって、戦時国債の発行や物価統制によって抑えられていたインフレが爆発した。戦争が終わった後の後始末や、復興のためにお金はいくらあっても足りなかった。戦費捻出のために発行された戦時国債の償還、軍需物資に対する支払い、進駐軍による円の大量印刷、復員兵の帰還費用の捻出、戦後復興させるための資金供給、これらに対して、日銀は日本銀行券を刷って刷って刷りまくって対応した。その結果、カネにみあったモノが不足する状態となりインフレが発生してしまった。

 
 
戦後のハイパーインフレの状況は、前回でもお伝えしたとおりです。
この状況をなんとかするために政府が執った政策が、預金封鎖と新円切替の同時敢行でした。1946年2月16日、預金封鎖と新円切替を行い、日本銀行券(紙幣)の流通量を強制的に減らしたのです。この時の経験を持つ人達は「国債なんて信用できない」とか、「国は生き残るためなら何でもやる」といった不信感を抱いたのでした。
もうすこし詳しく見ていきましょう。
 
 
●1946年の金融緊急措置の失敗

 1946年(昭和21年)2月16日(土)、「金融緊急措置令」がラジオで発表され、週明けの月曜日から実施された。これは預金封鎖と新円切替を同時に行うことにより、流通している日本銀行券の量を減らして、急激なインフレにストップをかけようとした。また、GDPの3倍に達した借金を返済するために国民の財産を国に移す目的もあった。金融緊急措置の内容は、あらゆる預金を封鎖する。流通している旧円を一定金額に限り新円に切り替える。それ以外は金融機関に全て強制的に預金させ、一定金額(世帯主:1ヶ月300円、家族1人に1ヶ月100円)だけしか新円による引き出しを認めない。3月2日までに交換しないと旧円は無効となるため、金融機関に行列ができた。10万円を超える資産に対して25%から90%の財産税をかけられた。旧紙幣に証紙を貼り付けて10月まで代用させるなどの措置が取られた。

 
 
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現行の紙幣に証紙が貼られただけの新円の写真
こちら [5]よりお借りしました
 
 
預金封鎖とは、貯金などの金融資産を銀行から引き出すことを制限する行為を言います。ところが、預金封鎖はインフレ抑止のための貨幣流通量の急減だけではなく、国民の貯金を、国の借金返済に充てることが目的であった事、それが実施されたのがラジオ放送による公示からたったの2日後であったことから、当事の政府の周到ぶりと国民の混乱が目に浮かびます。
 
さらに非常に簡略化したかたちで新円を発行していることなどからも、その計画ぶりが、とてもよくわかります。この政策に振り回された当事の国民が戸惑い、政府や日銀に不信感を抱いたのは、当然のことでしょう。
 
ところで、この政策は目的を達成できたのでしょうか?
 
 

これにより、日本銀行券の発行高は1946年3月末には4割に減少したものの、財政赤字のたれながしが継続されたため、効果が長続きせず半年後の9月末には元の水準に戻ってしまった。戦後復興のために、鉄鋼と石炭をまず復興させ、その後、他の産業に広げていく傾斜生産を行うなかで、大量の資金が供給され、再びインフレが発生してしまった。大蔵省や日銀は再び預金封鎖を行うことはできなかった。

 
 
短期的にはインフレの火は小さくなったものの、実は、またまたインフレが発生したのです。産業復興のために大量の紙幣が、無計画に投入されたことが原因で紙幣の流通量が、また増えてしまったのです。
 
こうした政府と日銀の無策ぶりに業を煮やしたGHQは、自らテコ入れを始めます。
 
 
●1949年のドッジラインの失敗
 

GHQは1948年12月18日、吉田内閣に対して、経済安定9原則を発表した。これはインフレを抑えるためのデフレ政策であった。1949年3月7日、GHQの経済顧問であるジョセフ・ドッジにより、財政金融の引き締め(ドッジ・ライン)が実施された。

 
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ジョセフ・ドッジ:
1890年11月18日 – 1964年12月2日)は、元自動車販売員で、後にデトロイト銀行(現:コメリカ銀行)の頭取にまでなる。
1945年から米国で、第二次世界大戦後の西ドイツのインフレ問題に取り組む。その後、1949年2月から日本でドッジ・ラインとして知られる経済政策を行う。1953年にはドワイト・アイゼンハワー大統領政権の下、第10代行政管理予算局長官に就任、1954年までこの職務を務めた。(ウィキペディア [7]より引用)
 
ドッジ・ラインとは
・緊縮財政や復興金融公庫融資の廃止による予算の超均衡化
・日銀借入金返済などの債務償還を優先
・複数為替レートの改正による、1ドル=360円の単一為替レートの設定
・戦時統制の緩和、自由競争の促進

という4つの政策を推進しインフレを抑止するものでした。
 
これにより、ハイパーインフレは収まったのですが、強烈な金融引き締めが行き過ぎてデフレとなり、なんと失業や倒産が相次ぎ、国内の景気が後退し不況に陥ってしまったのです。この状況は「ドッジ不況」と呼ばれました。これも失政と言って良いでしょう。
 
そして、国内の経済状況が、本当の意味で回復したのは、この後に起こった朝鮮戦争による兵器生産の特需でした。(朝鮮特需)
 
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朝鮮特需による兵器の生産の様子
写真はこちら [8]よりお借りしました。
 
話は逸れますが、日本の一日も早い経済的回復は当事、反共戦略の防衛ラインに日本を置いていたアメリカの強い意図でもありました。アメリカの参戦により日本に特需が発生したことから、この戦争そのものが、日本の共産化を阻止するためのアメリカの戦略として分析されるケースもあります(参考 [9]
 
 
●国家に頼らない庶民の力が復興の基礎をつくった
  
しかし、こうしてみると、戦後の経済復興のために政府・日銀やGHQが執った政策は、悉く失敗に終わっていることがわかります。
  
その原因は、敗戦により国は国民の信用を失い、その結果、なにをやっても終戦後の混乱に対して効果的な政策を打ち出せなかったことにあると言ってよいでしょう。
 
だから国民は生きていくために必要な食糧や物資という現物に収束し、闇市のような国家に拠らない非合法マーケットが全国に普及させていったのです。ところで、日本の現在の繁華街は、かつて闇市だった場所が多く残っています(新宿、池袋、船橋、梅田、阿倍野、三ノ宮など)。これはもともと非合法だった場所が市民権を得て、現在に至っている証といえます。
 
このような混乱状態では、いくら金融政策を打ち出しても、所詮は帳簿上のやりくりにしかなりません。金融市場が幻想であるということを、如実に物語っている良い例ではないかと思います。それを庶民たちは潜在的に感じ取っていたのかも知れません。
 
さらに付け加えれば、国家という統合機関に見切りをつけ、自分たちで生き延びる手立てを必死で作り上げてきた当時の庶民の生きる力が、戦後復興の基礎になったのではないでしょうか。
 
そして上記の例は、今後の経済破綻をどうやって生き延びていくか、という私達の課題としても突きつけられています。
 
  
さて、次回からは、これまで世界の国々で起こった経済の混乱と、そのときの様子について、ひとつずつ見て行きたいと思います。まずは1994年に起こったメキシコ通貨危機です。

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