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『経済が破綻したらどうなる?』 第4回〜アルゼンチンの国家破産〜

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世界の金融情勢が非常に危うくなっている状況の中で、もし経済破綻したら私たちの生活はどうなる?を追求しています。これまでの記事は以下のとおりです。良かったら見てください。

プロローグ [1]
第1回〜戦後日本のハイパーインフレ時はどうだったの?〜 [2]
第2回〜預金封鎖と新円切替〜 [3]
第3回〜メキシコ通貨危機〜 [4]


さて今回はアルゼンチン国家破産の巻です。アルゼンチンが国家破産するに到った経緯とその状況を見ていきましょう。

アルゼンチンと言えば、サッカー選手のメッシ!(サッカーに興味の無い人は寛大な心でお願いします。)メッシと言えばスペインリーグで大活躍!ということも関係するみたいで、実はアルゼンチンはかつてスペインの植民地で、1816年に独立した国だったのです。

アルゼンチンは広大で豊かな牧草地の“パンパ地域”を中心に農業が盛んで、独立後は、ヨーロッパなどに肉を輸送できるようになり、「20世紀の主役になる国」と称されるほど発展していきました。
しかし一方で社会構造はスペイン統治時代と何ら変わらず、大地主と農業労働者という厳重な階級社会でした。
これが今も続くアルゼンチン社会の基盤となっている。

そこで1946年にペロン大統領が登場し、社会構造改革を目指して工業化に着手し、1950年代まで世界的に裕福な貿易国家になりました。さらにペロン大統領は労働者保護や社会保障充実などの政策を打ち出しましたが、短期的な人気取りに終わり国外追放となりました。その後、1973年軍部が政権を奪取したのです。

ペロン大統領は農業より工業に重点を置き、農業での貿易黒字を国内産業保護に回していったことから、国内企業との癒着を強め、政権強化を果たしたのですが、政治腐敗が進むとともに農業や牧畜業は停滞しました。←旧来の統合階級である大地主と新しい統合階級である政府との確執はここから始まっている。

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さて続きです。


軍事政権時代も同様で、何をするにも賄賂が必要で、役人は賄賂を公然と要求し、政治家はビジネスの仲介で私服を肥やしていました。この軍事支配の間に政府は反対派を3万人以上抹殺したとされています。←政府と国民との溝はここから始まったと言える。

その国民の目を背けるために1982年にフォークランド紛争を起こしたが、アルゼンチン軍は英国に破れ、軍事政権は崩壊した。そのため国内情勢は益々悪化し、1989年には年率5000%というハイパーインフレになり、商店の値札が毎日値上がりする状況になった。食糧暴動が起こり15人が殺された。

1989年メネム政権は関税を引き下げ貿易自由化し、国営企業の民営化や投資制限を解除して海外からの資金流入を増やしました。つまり全てを市場原則に委ねるいうアメリカお勧めの「グローバル・スタンダード」をいち早く行い、90年代前半には年率8%近い高度経済成長を果たしたのです。そして1991年に通貨ペソの為替変動を抑えるために、ペソの為替相場を1ペソ=1米ドルで固定する政策をとったことで、ハイパーインフレは沈静化し、海外の投資家、特にアメリカの投資家が為替変動リスクを気にせずに、安心して投資できるようになりました。←グローバルスタンダードが生み出したバブルです。

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アルゼンチン政府は手持ちの米ドル資産の総額を越えない範囲でペソを発行し、対応しきれなくなった場合は、国際金融機関であるIMFが融資し支える体制だった。

しかし1997年に発生した、アジア通貨危機が、その後ロシアから南米を襲いました。ブラジルもアルゼンチンと同様、1ドル=1レアル前後の為替を維持していたが、為替を固定する方法がペッグ方式だったので、投機筋の売り攻撃を受け、ブラジル中央銀行は手持ちの外貨を使い果たし、固定されていたレアルは大幅な切り下げに追い込まれた。
*「ペッグ制度」とは厳密に相場を固定しなくても為替が変動し始めたら中央銀行が変動を止めるために自国通貨を売買することによって為替変動を最小限にとどめるやり方。

アルゼンチンのペソは無傷で、危機に強いことが証明されましたが、問題はその後に起こりました。ブラジルもアルゼンチンも、輸出を増やして経済発展することを目指しているが、ブラジルのレアルが大幅に切り下げられたため、ドルで換算したブラジル製品価格が下落し、その分アルゼンチン製品が割高になった。結果、ブラジル経済は立ち直り始め、アルゼンチンは逆に不況になったのです。←バブルということに気付き始めました。

これはアメリカにとても困ったことでした。ウォール街を中心とするアメリカの投資家にとっては、アルゼンチンのように対ドル為替が固定している国の方が、ブラジルやメキシコのように通貨の対ドルの価値が下がってしまう国よりも投資先として好ましいからです。
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しかしアルゼンチンの不況は次第にひどくなり、2001年には経済成長率は▼11%と落ち込んだ。

アルゼンチンのペソがドルと等価というのはペソが高く評価されすぎているという市場の懸念を和らげるため、政府はペソ建ての国債の金利を上げ、ペソの価値を高めようとしました。しかし金利の高止まりは国内企業の資金調達コストを上げてしまい、景気への悪影響が増えることになったのです。

結果、失業率も20%に達し、政府は税収の落ち込みから、公務員の給与や年金を支払えなくなり、4000万人近い国民の4割にあたる1400万人が貧困層になり、今日明日の食べ物にも困る人々が国民の1割以上、500万人もいる状態になった。1950年代まで豊かな先進国の一つに数えられていたアルゼンチンの姿は、50年後にはもはや見る影もなくなったのです。

それでも、アメリカで金融界とのつながりが深かったクリントンの政権が続いている間は、IMFはアルゼンチン政府が固定相場を維持できるよう融資を増やしていました。

ところがクリントンの任期が終わる2000年末には、アメリカ本体の経済も不況突入が確実になっていたため、次のブッシュ政権は、国際金融を操作して成果をあげることを放棄し、代わりに軍事やエネルギーの分野から世界を動かす戦略に変えたのです。こうした政策転換の中で、行き詰まる2001年のアルゼンチンはアメリカから見放されたのです。

IMFは予定されていた27 億ドルの融資の条件として、政府予算の収入と支出を均衡させることを求めました。アルゼンチンは不況で税収が減っており、2002年度は支出を前年度より20%減らさないと均衡予算になりません。公務員給与や公的年金の支払いが滞っている中で、そんな歳出削減は無謀でした。

それでもアルゼンチンはブッシュ政権に好意を持ってもらおうと「テロ戦争」が始まると、600人の兵士をアフガニスタンへ平和維持軍として送り出しましたが、そんないじましい努力も、アメリカとIMFの態度を変えるには至りませんでした。

そして2001年夏、議会で検討されていた国家予算が、IMFが融資の条件として求めていた予算の均衡を達成するために、政府の支出を大幅に削ろうとすると、政府に反対して、7月に労働組合や各種団体がゼネラルストライキを敢行した。
これによってアルゼンチンに対する外国投資家の目が厳しくなり、国債の格付けが下がった結果、アルゼンチン政府は国債を買ってもらうのに金利を上げねばならなくなり、これがさらに経済に悪い影響を与えることになった。

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アルゼンチン経済を悪化させた元凶の一つである固定相場をやめることは、政治的には無理でした。
住宅ローンや自動車ローンなど、国民が借りているお金の80%はドル建てで、1ドル=1ペソなら人々が稼いだペソでそのまま返済できるが、ペソが切り下がって1ドル=1.5ペソにでもなったら、国民の借金はその日から5割増しになってしまうのです。

ローン会社はドルの方が潜在的な為替リスクが少なく、ドル建てローンの方が低金利だった。ウォール街の投資家たちは1ドル=1ペソが続くことを前提にアルゼンチンに投資していたから、固定相場の撤廃には、アメリカやIMFからの反対も強かった。

経済の落ち込みと財政危機の顕在化によって国内外のアルゼンチン政府の信認が低下したことにより政府の資金調達コストが上昇し、債務危機が懸念されるようになりました。このため海外への預金流出が始まり、国内銀行の業況が悪化し、外貨準備金も減少するという悪循環に陥ったため、アルゼンチン政府は、2001年12月1日国民が銀行から引き出せる額の上限を1カ月に250ドルに制限した。
その一方で、いよいよ資金難に陥ったアルゼンチン政府は外国から借りた金の利払いが難しくなり、IMFからの緊急支援を必要としたが、融資の条件となっていた緊縮予算案は議会を通らないままだったので、IMFは融資を断ったのです。

国民が250ドルしか下ろせなくなっている間に、外国系金融機関は大口取引が規制されていないため、12月から1月にかけて150億ドルもの資金をアルゼンチン市場から引き出してしまっていた。政府が国民から「欧米金融機関の手先」と思われるのは当然で、怒った国民は、12月13日に再びゼネストを敢行したのです。

国内と外国の両方からの圧力が高まる中、国民の反政府デモが暴動と化し、12月19日には暴動が悪化し、全国で20人ほどの死者が出る事態となった。
そしてついに政府は12月23日に1320億ドルに上る対外債務の支払い停止(デフォルト)宣言 をしたのです。

その後2002年に変動相場制に切り替えたことで、為替は急落し消費者物価上昇率は40%に急騰したが、その後は落ち着きを取り戻し、5〜10%を推移しています。


【当時の国民の生活はどうなったか?】

アルゼンチンの穀物自給率は2003年で約250%と世界2位の高さです。ところが農業労働人口は、1994年では全産業人口の11.3%、2007年では7.9%であり、意外なほど少ない。これは従来からの大地主制度が綿々と続いていて、人口の2%の地主が農地の55%を所有しているのです。そして移民も含めて人口は都市部に集中しています(実際、大ブエノスアイレス都市圏に約1240万人居住)。数値的には国内の食糧事情は十分過ぎるほど賄えているはずなのだが・・・・・・。

①ハイパーインフレ
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通貨安による輸入品の高騰によりインフレが進行しました。
経済の混乱で多くの労働者の給料は下がり、物価は上がっていったのできわめて苦しい生活を強いられたそうです。2002年にはなんと失業率が21.5%に達しました。
食料品や物資が不足し、特に医薬品の不足のため、手術にも影響が出たそうです。
貧困層は、馬やカエル、ネズミを食べて飢えをしのいだり、物乞いをする人が多かったそうです。おそらく貧富の格差は相当なもので、作物の豊かな農村と病気や貧困、犯罪の多発する都市という構図でしょう。

②国民の海外流出
早朝から移民許可証を求めて領事館前に並ぶアルゼンチン市民が多かったそうです。
特にスペイン、イタリア、イスラエルに出国する人が増えました。*サッカー選手になってスペインに行ったメッシもその一人です。

③治安悪化
社会秩序が崩壊し、略奪、デモ、暴動が起きる事態となりました。
ロシアと同様、強盗事件や殺人事件が増え、特に郊外の家は強盗に遭うリスクが高かったそうです。政府は治安の混乱を収拾できず、短命政権が続きました。

④通 貨
2001年の夏頃から本来の通貨であるペソに似た独自の債券が流通したそうです。子供銀行の紙幣のような小さく印刷された債券で、瞬く間にアルゼンチン国内に広まりました。
また、物々交換のマーケットが開かれたり、クレジットと呼ばれる物の価値を図る単位が使われたりしました。

どうやらアルゼンチンのデフォルトは政府破綻という感じで、国家危機⇒国家統合強化というベクトルにないようです。貧民層はもちろん、主に大地主である富裕層も政府を信用しておらず、国家体制そのものが脆弱と言えそうです。
したがって、自給率が高くても食糧が国民に行き渡らない、という矛盾がアルゼンチンの特徴なのです。

さて、次回は、ソ連です。
2003年、イギリスのサッカープレミアリーグ(日本でのJリーグ)の名門クラブであるチェルシーは、ロシアの石油王アブラモヴィッチ氏に買収されました。今でこそエネルギー資源国として経済大国の一つになったロシアですが、その前はどうだったのでしょうか?お楽しみに

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