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『実現論 序』:統合階級の暴走で失われた40年

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前回は、民主主義というものが、本当は人類本来の共認原理を大きく踏み外す思想であり、それどころか自我の暴走装置になっている事実が明らかになりました。それが、民主主義を旗印にした市民運動は、これまで何も生み出すことができなかった根本的な理由だったのです。
 
『実現論 序』:市民運動という騙し、民主主義という騙し(下) [1]
 
今回は、市民運動と同様、民主主義をはじめ近代思想を信奉してきた統合階級たちが、とりわけ’70年貧困の消滅以降、いかに無能化し暴走してきたのかを見ていきます。
 
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【市場主義の暴走と市場崩壊の危機】

何も実現できなかったのは、市民運動だけではない。同じ近代思想を信奉する統合階級も同じである。
先進国は、すでに’70年頃に、私権社会から共認社会への根底的な転換点を迎えていた。私権欠乏が衰弱したことによって、市場は縮小してゆくしかなくなっていたのである。
 
実現論:序4(上) 統合階級の暴走で失われた40年 [2]より。以下同じ)

’70年に貧困が消滅し、その結果、労組の衰退や指揮系統の機能不全が起こった事実は、『実現論 序』:私権時代から共認時代への大転換(下) [3]でも扱いました。そして、三種の神器(TV・冷蔵庫・洗濯機)が各家庭に行き渡り、住宅数>世帯数が実現され(住む家の無い人が居なくなり)、「一億総中流」という言葉が生まれたこの時代は、『モノが売れない』という、市場にとって致命的な状況変化を生み出しました。
 

しかし、この社会をリードする学者や官僚やマスコミや政治家=旧勢力は、この新しい状況の本質をまったく把握できず、「市場拡大は絶対」というイデオロギーに凝り固まって暴走してゆく。
彼らは、不足する需要を補うために、大量の国債を発行して、見せかけの市場拡大に血道をあげてきた。実際、元々ゼロだった国の借金は、’70年代から急速に増大してゆき、いまや1000兆円にも達しようとしている。
この、国家による1000兆円もの投入資金をGDPから差し引けば、経済は実質マイナス成長となる。つまり、上述したとおり、’70年豊かさの実現を以って、市場は縮小するしかなくなっていたのである。
にも関わらず、「市場主義」に凝り固まった統合階級は、ひたすら借金を膨らませることで資金を作り、それを市場に注入し続けてきた。

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しかし、物的欠乏≒需要は衰弱してゆくので、いくら資金を注入してもそのお金は実体経済には回らず、投入した資金の大半はジャブジャブにダブついてしまう。このダブついた資金は、結局、土地や株式etcの投機商品にしか向かわない(∵土地や株式は、供給がほとんど増えないので価格が上昇する一方となる)。かくして、国債経済=借金経済は、必然的に実体から遊離したバブル経済を生み出す。

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国債(借金)を財源にした公共投資という人工需要は、一時的には企業や個人の懐を潤します。物的欠乏が強い時代であれば、ケインズ理論 [6]の通り、それが新たな消費需要⇒企業の設備投資⇒新たな生産を生み出し、市場は拡大していきます。しかし、既に私権が衰弱してしまった日本では、注入された資金は消費や設備投資には回り切らず、運用先の無い貯蓄として銀行に積み上がってゆくだけになります。いわゆる「金余り」の状況です。
 
 
そして、ダブついた資金は、株や土地へ集中し、企業の実力や土地の使用価値を遥かに超えて値上がりを生み出します。これが’80年代日本のバブル経済です。日本のバブルは、’85年プラザ合意後の円高不況⇒低金利政策が原因だと言われていますが、バブルが大きく膨らむための条件は、既に’70年貧困の消滅とその後の国債経済によって準備されていたのです。

しかし、バブルは必ず崩壊する。バブル経済の先頭に立たされた日本のバブルは、’90年に崩壊し、その後、ITバブル等を媒介して作り出された世界中の金融バブルは、’08年に崩壊した。
しかも、ここに至ってもなお、世界中の統合階級は「市場を拡大するために」大量の国債を発行して、資金を市場に注入し続けている。その結果、ついに発行し過ぎた国債の暴落=市場崩壊の危機が目前に迫ってきた。

国債経済は日本から世界中の先進国に拡大し、実需を持たずひたすら投機に向かう借金経済は、やがて「デリバティブ」などの金融派生商品や、日々の値動きに張って儲けをだすヘッジファンドのような存在を生み出しました。バクチ化した世界経済は’08年リーマンショックによって危機に陥りましたが、民間の投資銀行やヘッジファンドが空けた何千兆円という穴を埋めたのもまた国家の借金=国債でした。まさに「市場は、云わば国家というモチに生えたカビ [7]」です。
 
そして遂に’11年、借金経済の砦である国債にも危機が訪れました。8月には米国がすんでのところでデフォルトを回避し、ギリシャは年内デフォルト確実と言われ、今月10日には、ギリシャ国債を保有していたベルギーの大手銀行デクシアが破綻 [8]しました。リーマン・ショックを超える世界デフォルトの危機が近づいています。
 
ここまで市場を野放しにし、それどころか国債によって市場の暴走を加速させてきたのが、日本そして世界の統合階級なのです。

まさに無能の極みであるが、ここで、社会の統合を担う受験エリートたちの無能さを、大衆はしっかりと頭に刻みつけておく必要があるだろう。
同時に、大衆は、「もはや彼らには任せておけない。自分たちで統合課題を担うしかない」と、そろそろ腹をくくる必要がある。

では、’700年の貧困の消滅、市場の縮小を受けて、本来、日本や世界はどこに向かえば良かったのでしょうか?改めて、この40年を総括してみます。
 

【失われた40年】

本当は、’70年、豊かさが実現された時、「市場は拡大を停止するしかなくなった」のだという現実を直視し、素直に『ゼロ成長』戦略を打ち出していれば、現在見るような経済危機に陥ることもなく、また国際競争力を失うこともなかったのである。
 
この世には、医療だけではなく、農業や介護や新エネルギーの開発etc、市場ではペイしないが、社会的に絶対必要な仕事がいくらでもある。市場に資金を注入するなら、すでに飽和状態に達した物的消費ではなく、あるいは福祉と称して非生産者にバラ撒くのではなく、市場ではペイしないこれらの類的生産を刺激or支援する方向に資金を注入することもできた筈である。

類的生産とは、個人の物的豊かさや利潤の多寡に関わらず、人(類)が社会を営んでゆくために不可欠であり、故に誰もが求めている仕事=生産活動のことです。
 

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大起エンゼルヘルプ [9]かみなか農学舎 [10]潮力発電 [11]

このように、物的需要(の喚起)から類的供給(の喚起)へと舵を切っておれば、日本経済はバブルにも経済危機にも陥らず、次代をリードする国家市場を実現し、世界にそのモデルを提示し得た筈である。
 
問題は、統合階級が、国債投入なしには市場を維持できないという事実、つまり自由市場など絵空事であって、現実には、国家によって支えられた国家市場しか存在しないのだという事実から目を背らし、「自由競争・自由市場」という幻想を捨てようとしなかった点にある。要するに彼らは、事実に反する(彼らには都合のいい)イデオロギーに固執し続けてきたのである。

 
自由競争・自由市場幻想の背後には、「人間の物欲は無限である」という近代の誤謬(あるいはイデオロギー)があります。それが、個人の利益追求を正当化するアダム・スミスの“神の見えざる手 [12]論に収束し、「自由競争・自由市場によって、個人の欲が社会発展の原動力として適切に働く」という幻想を生み出します。そのため、この誤謬の上に組み立てられている現代経済学も、’70年以降、全く役に立っていません。
 
そうしている間に、国家のGDPを遥かに超える政府負債が次々と積み上がっていきましたが、国家借金がどれだけ積み上がっても、彼らはその事実を見ようとしないのか、全く別の問題と思い込もうとしているのか、市場原理への疑問は露ほども出てきません。
 

彼らには、この失われた40年を総括して、せめて「自由競争・自由市場など幻想」であり、「現実には国家に支えられた市場しか存在しない」のだという事実くらいは、素直に認めてもらいたいものである。それさえ学習できないのなら、この失われた40年は全く無駄になる。

 
次回は、なぜ彼ら統合階級が、これほど無能になってしまったのか?そして、最先端の現在、支配勢力と大衆の関係はどのようになっているのかを追求します。

このブログの『実現論 序』のシリーズ
近代思想が招いた市場社会の崩壊の危機(上) [13]
近代思想が招いた市場社会の崩壊の危機(下) [14]
私権時代から共認時代への大転換(上) [15]
私権時代から共認時代への大転換(下) [3]
市民運動という騙し、民主主義という騙し(上) [16]
市民運動という騙し、民主主義という騙し(下) [1]
統合階級の暴走で失われた40年(上) [17]

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