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【戦国時代の権力需要と市場】 〜鉄砲伝来の背後にいた勢力〜

「堺が商人の起源である」という前回のプロローグ [1]からだいぶ間が空いてしまいましたが、今回から数回に亘って、「戦国時代の権力需要と市場」テーマの皮切りとして、鉄砲伝来シリーズをお送りします。
「江戸時代とは商人がつくった時代」 [2]でもお伝えしたように、歴史的に表舞台に立つ徳川家の裏で、商人が暗躍していたという背景があります。本シリーズでは、それより以前の戦国時代、その中でも鉄砲伝来という史実に着目してエントリーをお送りします。
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※写真は種子島 こちら [4] よりお借りしました
歴史の教科書で習う鉄砲伝来は、(諸説あるようですが)1543年の種子島にその起源があると言われます。それは、江戸時代に書かれた「鉄炮記」(てっぽうき)の記述(種子島当主の種子島時堯が、鉄砲を入手した方法とその後の生産について書かれている)を拠り所にしています。
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この鉄砲伝来を契機として、戦国時代下の日本では、鉄砲の生産(供給)と需要が急激に拡大していきます。また戦場での鉄砲の使用は、戦況も一変させ、それまで主力部隊だった騎馬武者は、鉄砲の標的になりやすいため影を潜め、鉄砲隊をふくむ足軽隊へと戦術の変化をもたらしました。1575年・長篠の戦いにて織田信長が勝利したのも、この鉄砲の獲得と無縁ではありません。
本エントリーでは、(一つの伝来ルートとして)種子島に鉄砲が入ってきたという史実、その後の鉄砲拡散の背後にあった構造を明らかにすることで、歴史事象の持つ新たな意味・捉え方を見出していきたいと思います
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※長篠合戦図屏風(部分) 堺市ホームページ [7] からお借りしました
それでは本文です。
るいネット [8]
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◆ポルトガル船が種子島(日本)に漂流したのはなんで?
ポルトガル船の種子島到着。この史実そのものにも諸説あるようで、先述の『鉄炮記』(日本側)の記述によれば、1543年に「牟良叔舎」(←「フランシスコ」・ゼイモト)「喜利志多佗孟太」(←アントニオ・「ダ・モッタ」)という「南蛮人」と共に漢文で当主時堯と交渉したという明の「王直」がやってきたとあります。
一方で、当時ポルトガルの東南アジアの商館長をしていたアントニオ・ガルバンという人物が書いた『新旧大陸発見記』(ポルトガル側の記述)には、『鉄炮記』に記載された年よりも1年前の1542年、3人のポルトガル人が中国船(ジャンク)に乗って東シナ海の港リャンホーに向かって出向したが台風で遭遇し種子島に漂着した とあります。(参考:橿原日記 [4] より)
ここで着目したいのはなぜポルトガル船が日本にやってきたのかという歴史的背景です。
ポルトガルと言えばカトリック国です。過去のエントリー [9] でも扱いましたが、当時の欧州は、カトリックとプロテスタント国家とが争っていた時代。植民地支配・市場拡大が真の目的であった宗教戦争において、劣勢となったカトリック国(スペイン、ポルトガル等)が欧州を追われる形となり、欧州以外での布教を目指します。大航海時代の始まりです。
そして、スペインが南北アメリカ大陸、アジアのフィリピンを支配するようになり、一方のポルトガルはインド西海岸のゴアを拠点に、中国のマカオを占領して貿易拡大していきます。
つまりポルトガルは、貿易のために日本のすぐ近くまで来ていたということです。
では記述にある中国はどうだったのでしょう?

ところで当時の倭寇というのは、実質的には中国南部の人々のことで、天草や瀬戸内海の海賊が中国地方に出稼ぎにいっていた初期倭寇の時代とは状況は一変しています。中国王朝が明に変わると、海禁政策といって海外貿易を全面的に禁止したことで、それまで交易で生活してきた人々は、地下にもぐる結果となります。つまり表向きにはご法度になりますから、当局に認可されない形で交易を続ける。貿易、当局に認可されなければ海賊—これが倭寇が発生した原因です。
そもそも海を生活の糧とする人々には、陸のような国境という感覚が希薄ですから、王直などは、長崎の五島列島に住居を置いていたくらいです。彼らにとっては東シナ海全域が、自分の庭のような感覚だったはずです。
そんな彼らが偶然種子島に漂着したとは、考えにくいのです。
【歴史再発見 鉄砲伝来は偶然の歴史的事件でなかった】 [10] より

当時の中国は明。国家が貿易を独占するために海禁政策をとっていました。長年に亘る海禁政策は密貿易を増大させ、16世紀には後期倭寇が中国の沿岸都市を襲い略奪していました。中国の海賊である倭寇もまた、密輸や略奪を目的として海を往来していたのです。
また種子島に来たポルトガル人とコミュニケーションの取れる人物が種子島にいたとも考えにくいことから、その船には漢文で交渉ができる明人が乗っていたと考えられます。つまり、倭寇である「王直」が同乗していたと推測できます。
以上から、ポルトガル人+明人の来航は偶発的な漂流ではなく、明らかに当時の日本との通商を目指した渡航であったと考えられます。
◆寺院のネットワークによって実現した鉄砲の大量生産
種子島の当主、種子島時堯は乗船していたポルトガル人フランシスコ・ゼイモトが所持していた鉄砲に着目。金2,000両(現在の価値では2億円?!とも言われる)もの大金を支払って銃2丁を譲り受け、使用法を教わりました。そして、鉄砲(火縄銃)の威力を知った時堯は、種子島在住の鍛冶職人の八板金兵衛清定に命じて、早速その複製を作らせたといわれます(コラム参照)。
ところが、時堯はこれだけ高額で購入した火縄銃のうち1丁を、薩摩の戦国大名である津田監持(根来寺の僧侶)に献上しています。そして鉄砲伝来から1〜2年後の1544年、この津田監持は鉄砲の大量生産に着手します(紀州歴史 [11] より)。これは一体どういうことでしょうか
実はこれには様々な力学が働いていたのです。
津田監持(紀州根来寺の僧侶)
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島津家(島津忠良・貴久)
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種子島時尭(種子島領主)

の3者に跨る関係性を見ていきましょう。まず種子島家と島津家には以下の関係がありました。

当時の種子島の領主は種子島時尭です。その種子島時尭の妻が忠良の三女にあたります。ですから、島津本家を忠良の息子貴久が継ぐわけですが、その貴久と時尭とは義兄弟の関係になります。
 ところで種子島時尭とその父恵時とは折り合いが悪く、恵時は息子に領地を継がせたくなく、島津氏に領地を差し出し、その配下になろうとします。その事件を貴久がとりなし、種子島氏親子を和解させます。ですから当時の時尭と義兄弟の貴久の間には 一方的に忠節を尽くさなければならないような人間関係ができていて当然です。

そして、最初の津田監持は、1544年に鉄砲を量産したことで知られる僧侶です。当時数万といわれていた紀州根来の僧兵を抱えていた数ある宿坊のなかでも、中心的な四つの宿坊の中の一つ、杉の坊の頭目だった津田杉の坊妙算の実弟だったということです。
※僧侶といっても、当時は、知識人(現在でいう大学教授のような位置)・坊主・兵士という多面的な顔を持っていました。
この根来宗の大物僧侶と主従関係にあったのが島津家です。鹿児島県の郷土史研究家である有川晴海氏の『異説三州の歴史』(高城書房)によれば、鉄砲の情報は、まず種子島氏から薩摩島津氏に伝えられ、それから紀州根来へと伝えられたのだとあります。

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上の図を見ていただきいたのですが、ポルトガル人が漂着した種子島を中心にして、複雑なネットワークが張り巡らされています。
 まず、近衛家と種子島との関係ですが、これは種子島が大和国に編入された後、興福寺の末寺として809年に種子島に慈遠寺が建てられます。
この時点で、藤原氏(後の近衛家)と—興福寺—種子島の慈遠寺というルートが出来ます。後に島津荘が平季基によって開発され、藤原頼道に寄進され、藤原氏、後の近衛家と島津荘園が結びついていきますが、種子島も島津荘園の一部として、近衛家を領家として経営されます。当然本所は興福寺となり、その末寺である慈遠寺が、興福寺の種子島支店として、荘園経営の拠点として活動していたことは容易に推測できます。
 次に 島津氏と近衛家の関係は、島津氏の祖である惟宗忠久が、近衛家の執事職にあった人物だつた惟宗広言を養父としているところから、島津忠久は、近衛家の島津荘園管理者としての役割−武家政権下での既得権を温存していくための役割—を負わされていた人物と推定されます。
島津氏は近衛家の現地荘園管理者として薩摩に入国して、武家時代に勢力を伸ばして行きます。ここに、島津荘園を廻り近衛家と島津氏との強いルートがあります。
 薩摩の海蔵院という寺院ですが、これは現在の日置市に残されています。この寺は、島津忠良が少年のころ、この寺の頼増という僧に教育をうけたことで、知られている寺院です。島津忠良の本拠亀丸城から数キロの所にあります。この寺院はもともと1398年伊作島津氏第四代の島津久義によって建てられたと伝えられていますが伊作は、薩摩島津荘園の中でも一円荘と呼ばれる中心的場所であり、伊作氏の財政的規模や海蔵院の規模を考えても、興福寺のバックアップあっての建立と考えていいと思います。
伊作一円荘の管理運営という観点からの近衛家の薩摩支店という考え方ができます。スタッフは当然興福寺から派遣されているわけです。
ここに、薩摩半島の海蔵院と伊作島津氏(この島津氏分流が本宗島津家を抑えて近世島津氏発祥の誕生となる)との結びつきは、近衛家—興福寺—伊作島津氏というルートが出来上がっているわけです。
 この海蔵院と紀州根来寺との関係ですが、これは紀州山岳信仰によって、興福寺は根来寺と結びついていますから、興福寺—根来寺—海蔵院というネットワークが出来上がっています。
島津忠良を教育した海蔵院の頼増という僧は、根来寺の行人方の人物で、根来寺から派遣されてきていたと考えられます。
(中略)
 鉄砲伝来の一報は すぎさま島津氏に届けられ、そこから紀州根来へと伝えられます。そして本社から重役クラスの人物が薩摩に派遣されてくる。その人物こそ、津田某であると有川氏は喝破しています。
上図と下記文章は「歴史再発見」 [13] から引用させてもらいました。

つまり、種子島の鉄砲伝来情報は、種子島時尭→島津貴久→津田監持へと伝えられ、鉄砲が伝来するや否や大量生産体制に入ったと考えられます。一方で種子島を訪問していた商人、橘屋又三郎によって、和泉の堺に伝えられ、その後堺も鉄砲の産地として有名になっていきます。
鉄砲の大量生産の背後には、優れた製鉄業や鍛冶屋といった実現基盤の上に、こうした坊主や商人の人的ネットワーク(≒支配体制)があった点も見逃せません。
◆鉄砲伝来がもたらしたもう一つの市場〜火薬〜
鉄砲の大量生産が実現されたとしても、それだけでは武器として機能しません。鉄砲には「火薬」と「鉄砲玉」が必要です。戦国時代の日本において、消耗品であるこれらの貿易取引がさらに市場を拡大させていきます。
まず、鉄砲玉の方ですが、当時の玉には鉛が使われていました。一部には国産もあったようですが、近年の戦国史研究にて、鉄砲玉の鉛には、質量の異なる4つの同位体があり、その比率によってある程度の産地がわかってきたようです。
専門家が戦国時代の鉄砲玉を分析した結果、国内産でも朝鮮産でも中国産でもない鉛が約4割あり、それが東南アジアのメコン川流域産だということが判明したのです。

平尾良光・飯沼賢司は、2009 年に「大航海時代における東アジア世界と日本の鉛流通の意義」(『キリシタン大名の考古学』思文閣出版)という論文を共同執筆し、この論文では、歴史資料の研究と鉛同位体分析の研究から、16 世紀後半から17 世紀前半にかけて、日本に大量の鉛が東南アジア(タイ)、中国から流入したことを明らかにした
リンク [14] より
別府大学の飯沼賢司教授(日本史)は、文献で鉛を探しました。
1580年に、戦いで苦境のキリシタン大名を助けるために、イエズス会が鉛を届けたという記録が見つかります。
1609年に、オランダ使節が家康に持参した土産には、純金の杯2個、生糸350斤、象牙2本と並んで、鉛3千斤が含まれていました。
鉛を通して新たに見えてきた歴史を、両教授は連名で論文にまとめました。
鉛が戦国社会を動かした。経済力を示す精錬、軍事力を意味する鉄砲玉。急激な需要の高まりに、自給できなくなった鉛を、海外から調達するルートを握ったものが戦国の覇者となった。信長や秀吉が貿易の中心だった堺を重視し、ポルトガルなどの商品は東南アジアで鉛を調達し、日本に運び銀を受け取った」
今回の成果について、東京大学の黒田明伸教授(中国経済)は、
「東南アジアでは、16世紀に鉛の通貨が使われており、鉛の生産が豊富だった。ベトナム南部から積み出し中国を経由した密貿易のルートで運んだのだろう。火薬の原料の硝石も、同じルートでもたらされたと考えていいだろう」
戦国を舞台にした時代小説が多い作家の安部龍太郎さんは、「鉛と硝石を確保しないことには鉄砲が使えず戦争に勝てない。どの戦国大名も輸入には懸命だったはずだが、どうやって入手したのかは記録がないので分からなかった。戦国時代最大の謎と考えてきたが初めて道筋が見えた。興奮を覚える画期的な研究だ」と話されました。
参考:リンク [15] より

一方、「火薬」の原料は、硫黄・木炭・硝石でした。このうち硝石だけは国内では取れず、海外からの輸入に頼るしかありませんでした。鉄砲というハコものよりも消耗品である火薬の方が絶え間ない需要があったわけです。

『日本が火薬原料の大きな市場になる』
鉄砲には火薬が欠かせない。前にあげた『鉄炮記』に、種子島時尭が家臣に火薬の製法を学ばせたことがみえるが、当時の日本では火薬づくりは容易ではなかった。 硝石(硝酸カリウム)と木炭と硫黄とを一定の割合で混ぜれば火薬はできる。戦国時代の火薬は硝石75パーセント、木炭16・7パーセント、硫黄8・3パーセントを混ぜる「9・2・1方剤」の方法で作られたといわれる。
この火薬は、今日線香花火などに用いられる黒色火薬の一種である。黒色火薬に火を近づけると、まず硫黄が勢いよく燃えて高熱を発する。この熱で硝石が分解されて大量の酸素が広がり、本来なら火がつきにくい木炭が、急激な温度の上昇と過剰な酸素によって一気に燃焼して爆発を起こすのである。火薬の原料の木炭は、当時の人々が日常用いるものであり、硫黄は「火山列島」である日本に豊富だった。
ところが、当時の日本では硝石が採れなかった。そのためインド産の硝石が大量に輸入されることになった。王直は、鉄砲伝来の五年後(1548年)に本拠を中国沿岸から五島列島に移している。彼は鉄砲伝来以前から東南アジア各地に硝石を売り込んでいたが、日本との硝石取引の利益が大きかったために、日本近海に移ってきたのだろう。九州本土から離れた五島列島には、日本の役人の力は及びにくい。しかし、博多などの商人が船を仕立てて五島列島に硝石を買いに来るのは簡単である。王直が、中国沿岸から動かず、日本の商人に「鉄砲というすぐれた武器があるから見に来なさい」という手紙を出したとしても、相手にされなかったろう。彼がポルトガル人をともなって種子島に赴いて、日本人に鉄砲を見せたために、日本で鉄砲が用いられるようになって硝石の巨大な市場がつくられたのだ。(P101・P102)
『火薬の交易を押さえた織田信長』
鉄砲伝来をきっかけに、種子島と倭冦(海商)の頭目、王直との取引が開始されたと思われる。王直の部下の船によって大量の硝石が種子島に持ち込まれ、それが西国各地の商人に売られたのだろう。種子島家は、この硝石貿易によって大きな儲けを得た。そして、種子島から運ばれた硝石の有力な買い手が織田信長ではなかったかと思われる。種子島家は、鉄砲伝来の約百年前の種子島時氏の時に日蓮宗に改宗していた。 
 (中略) 
信長は、日蓮宗と親しい関係を持ち続けていたわけだが、この日蓮宗の人脈を通じて信長は早い時期に鉄砲の有効性を知り、種子島経由の硝石交易路と結び付いた。信長は京都を制圧して間もなく堺を直轄領としたが、彼の堺支配の動機の一つに硝石交易の独占がある。九州から輸入品を積んだ船が着く港のなかで、堺はもっとも東方にある。その先には九州と交易する都市はみられない。それゆえ信長が堺を支配して硝石取引を差し止めれば、信長に敵対する堺の東方の大名は火薬をつくれなくなる。武田信玄や上杉謙信は鉄砲を多用しなかったが、それは彼らが硝石を得にくい位置に本拠をおいたことによるものである。
海外貿易から読む戦国時代 著者/武光誠
インテリジェンス [16]より

このように鉄砲伝来を契機として、僧侶や商人ネットワークによる鉄砲生産と平行して火薬や鉛の輸入が盛んになっていきます。
表の歴史では、日本の技術生産性の高さや伝来の事実に焦点が当てられますが、紀州根来や堺に代表される工業都市・商業都市は、このネットワークの拠点であり、鉄砲生産拡大の背後には僧侶・商人ネットワークが存在していたのです
次回は、短期間でなぜ鉄砲が大量生産されたのか、その構造に迫ります
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〜コラム たたらの島 種子島〜
当時、鉄の島、“たたら(製鉄)の島”として名を轟かせていた種子島。実は鉄砲の複製を請け負った鍛冶職人の八板金兵衛も種子島出身ではなく、鉄の産地である種子島に移住してきたという経緯があります。よって、種子島には優れた鍛冶屋が多くあったのですが、火縄銃2丁を手に入れたものの、この複製・製造には苦労があったようです。
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 写真は今も種子島に残る伝統鍛冶 「種子島鋏」
それは、銃の尾栓の製法です。のちに「種子島張り」(尾栓の溶接)と呼ばれた工法で、発射後の滓抜きがきわめて困難で、不発・暴発の危険をはらんだ欠陥銃でした。
1544年(天文13年)3月、改めてポルトガル船が熊野浦に入港した際、乗船していたポルトガル人の鉄砲鍛冶から金兵衛はネジの製法を学び、まともな国産火縄銃の製造ができるようになりました。
(ちなみに、正確な資料は残っていないようですが、そのポルトガル人の鉄砲鍛冶師は、ネジの製法を教える代わりに八板金兵衛の娘である「若狭」との結婚を要求したと言われています。もしこれが事実なら、性を媒介にした取引が史実の裏にあったということです)
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