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日本史から探る、脱市場の経済原理(6)〜民衆発の社会事業を興した僧侶:行基〜

これまで見てきたように、古代日本(7〜9世紀)の経済システムの原型は唐の律令制度ですが、唐と全く同じにはならず、日本固有の展開を見せます。
プロローグ [1]
(1)奈良時代に至る背景(支配者の変遷)と諸外国との関係 [2]
(2)在地首長制をひきずった古代律令制度 [3]
(3)徴税制度から民間流通へ、市場・商人の誕生 [4]
(4)日本で貨幣が浸透しなかったのは [5]
(5)奈良時代の庶民の暮らしとは [6] 
今回は、当時の日本の思想・宗教と経済の関係をみていきます。

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古墳時代〜奈良時代にかけて、日本には大陸から仏教が伝来し、古事記や日本書紀が編纂され、日本の宗教の原型がつくられました。そして、祭政一致の律令制のもとでは、遷都や寺社仏閣建設などの祭祀事業が国民経済の大きなウェイトを占めていました。
 
中でも、奈良の大仏の建立と、このプロジェクトに尽力した行基の働きは、当時の日本における、宗教と経済、官と民の関係を考える上で注目に値します。
 
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◆日本の古代思想の成立(縄文神道+仏教+渡来系神話→日本神話)
古代日本の思想・観念・宗教は、次のように塗り重ねられていると考えられます。
①縄文神道と呼ばれる土着の精霊信仰。あらゆる存在に神が宿るとする八百万信仰。
②前5世紀以降、渡来人(江南人・高句麗・百済)により持ち込まれた建国神話。
③6世紀前半に百済(聖明王)より公伝した仏教観念。
④8世紀初頭の記紀(古事記・日本書記)の編纂によって成立した日本神話。

[7]
仏教の伝播経路 図はこちら [8]より

◆祭政一致・神仏習合の律令社会
538年の仏教公伝は、多分に朝鮮半島の政治的な事情もあったようです。

さて日本に仏教を伝えたのは百済であり、その背後には当時の朝鮮半島の情勢があった。百済は六世紀に入り、新羅の任那侵略に対処するため、日本と連携してその援助を受ける必要に迫られていた。その中で、継体天皇の時には五経博士を日本に送り、六世紀初めには仏教を伝え、文化的なつながりを深めようとしたと考えられる。このように百済の仏教伝来は外交政策の一環として行われた。
仏教へのいざないより)

古墳〜飛鳥期の日本では、様々な出自を持つ渡来人の権力闘争が繰り広げられます。天武−持統時代に権力を握った扶余系勢力が、自らの地位を正当化するため郷里の天孫神話を組み込んで創作したのが、記紀(712年の古事記と725年の日本書紀)です。ここから、日本神話を根拠とした万世一系の皇統が始まります。

記紀神話の基本構想がこの時代の朝廷の権力闘争と関係深い創作であることは、とりわけ天孫降臨の話にもっともよくうかがわれる。なぜアマテラスの子のアメノオシホミミではなく、孫に当たるニニギが降臨するのかは、はなはだ不思議なことであるが、当時の皇位継承の問題と関係深いと考えられている。天武の後、皇后であった持統が中継ぎになり、その子草壁皇子に皇位を渡すはずであったが、草壁はそれを待たずに病死してしまった。そこで、草壁の幼児、つまり持統にとっては孫の軽皇子の成長を待って、文武天皇として即位させたのである。アマテラスには女帝持統の姿が反映しているといわれ、アマテラス→ニニギという祖母→孫の継承は、持統→文武の継承と平行関係にあり、後者の継承をスムーズにさせる機能を果たしたと考えられる。
(『日本宗教史』末木文美士より)

しかし、既にこの頃、仏教が一定の広まりを見せ、かつ急ごしらえの記紀より遥かに高度な内容と求心力を持っていました。そのため、日本神話と仏教との融合が図られます。これが、明治時代まで続く神仏習合の始まりです。例えば、持統女帝が投影された太陽神アマテラスは仏教の大日如来と同一視されています。
 
他方、当時の仏教は国家鎮護を目的として支配層に閉ざされた学問的色彩が強く、僧は官僚の一部門であり、民衆への布教は「僧尼令」により禁止されていました。従って、地方では原始的な信仰が残されていたと考えられます。
 
祭政一致の律令制のもとで中央集権化を進める文武の息子聖武天皇は、全国に国分寺を建設していくとともに、その頂点として746年に東大寺大仏の建立を開始します。
 
◆一大公共事業としての東大寺大仏建立

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東大寺の大仏

①日本の人口の半分が携わった巨大プロジェクト
朝廷は、アマテラス=大日如来を神仏習合の頂点に置くため、東大寺の大仏建立を計画します。大仏は28年をかけて建造され、使われた金属は銅499.0トン、すず8.5トン、金0.4トン、水銀2.5トンに上ります。(宇佐神宮HP [9]より)現在の工事費にして4,657億円。これは、ディズニーランドとディズニーシーを合わせた建設費に相当します。しかも、この建造に関わったマンパワーは、当時の日本の人口の半分にも及びました。

 大仏と大仏殿の建立にかかわった技術者と労働者の延べ人数は、『東大寺要録』によれば、鋳造関係の技術者が37万2075人、労働者51万4902人、材木関係の技術者が5万1590人、労働者166万5071人、あわせて延べ260万3638人。
 当時の日本の推定人口560万人のおよそ半分に当たる人数に、食事が支給され、賃金が支払われていたとすれば、反対者の目に無用の長物と映っていたものは、じつは一大公共事業でもあったわけです。
(『仏教と資本主義』長部日出男より)

②妖僧:行基の手腕
この巨大事業を統括したのが、河内国(現在の大阪府堺市)出身の僧侶行基です。当初、行基は朝廷の禁を破り、民衆に広く教えを説いていたため、大衆を惑わし国家秩序を乱す危険人物とみなされていました。

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行基

 安芸と周防の両国に、みだりに禍福の因果を説いて、多くの人を集め、死者の霊魂を祀り、祈祷する者があるという。
また京の東方の山原に、大勢を集め、妖言して衆を惑わす者がいる。多いときは一万、少ないときでも数千。国法に背くこれらの者を放置するならば、害はいっそう甚だしくなるであろう。今後、このような事態を許してはならない。
(同上)

しかし、東大寺の大仏建立という巨大プロジェクトを遂行できるのは、驚異的な民衆の動員力と統合力を有つ行基しかいないと、白羽の矢が立てられます。
行基はどのようにして、これほど多くの民衆の信任を獲得したのでしょうか。

 三十代の後半に山林を出て、行基が独自の布教を始めたのは、新都平城京の建設に諸国から駆り出された多数の役民が、惨憺たる苦労を嘗めさせられている真っ最中でした。
 徴発されて最初に郷国を出たときから、都までの食糧は自弁であり、帰国のさいも同様なので、途中で口にするものが一切なくなって、行き倒れになる者が出ます。
 行基は、山陽道の要地に、行き倒れの役民や運脚夫、浮浪人等を泊めて、粥を食べさせる布施屋を建てます。
 そして、つぎつぎに建てる布施屋を拠点にして、かれが進めていったのは、土地改良の工事でした。
——悪行をなした者は地獄に堕ち、善行を積んだ者は菩薩となる。
つまり利他の善行を積めば、恐ろしい地獄行きを免れることができるというのです。
そう因果の理を説いて、土地の豪族に資本を出させ、布施屋を建てて粥を施し、集まって来る大勢の窮民の力を集め、師の道昭が唐で学んできた灌漑や土木の新技術を用いて、農業用の池や溝を掘り、堤を築き、道を開き、橋を架けると、土地が潤って、豪族には出した元手以上の利益が戻ってきます。(中略)
かれにしたがう民衆は、菩薩になるための行と信じてよく働くので、池溝の掘削も、道路の建設も、橋の架設も、見る者が驚くほどの速さで進みます。
(同上)

行基は、仏教の教えを説きながら民衆の活力と豪族の協力を引き出し、インフラ整備という仕事を生み出し、社会的な生産力を引き上げる事業を通じて、民衆や豪族の信任を獲得していったのです。
いわば仏教を軸にした民間発の社会事業だと言えます。
同時に行基は、高度で難解な学問体系であった仏教を分かりやすく民衆へ説くことで、日本の民衆レベルまで仏教観念を浸透させる役割も果たしました。
 
結果、行基は大量の民衆信者=優秀な工夫を獲得し、その動員力を朝廷に見込まれて、76歳にして大仏建造プロジェクトの勧進役に任命され、さらには僧職の頂点である大僧正の地位を得る事になります。
 
◆まとめ
奈良〜平安時代にかけて大和朝廷が押し進めた中央集権化が地方に浸透するにつれ、前回登場した「貧窮問答歌」にみられるように、民衆の暮らしは困窮の度を強めていきます。
逆に、朝廷の力がまだ地方(畿外)まで十分に及ばず、地方豪族の力が残存していた頃は、租・庸・調の税の調整が機能し、また行基のような民間初の社会事業も生まれ、これが幾度もの遷都や大仏建立など朝廷の大事業の原動力となっていました。
つまり、平安時代のイメージである貴族の優雅な生活とは裏腹に、中央集権の律令制度は国の経済システムとしては決してうまくいっていたとはいえません。この歪みは、やがて公的支配を受けない荘園の発生と武士の台頭に繋がってゆきます。
 
次回以降は、中央集権の荘園制と武士の起源を探ってゆきます。

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