2012-12-04

日本史から探る、脱市場の経済原理(3)〜徴税制度から民間流通へ、市場・商人の誕生〜

 前回記事の徴税制度、租庸調は国内での物品流通を活発化しました。これによって市場が始まり、商人の原形が生まれ始めたのがこの時代です。今回の記事では主に8〜9世紀のその一連の流れを繋ぎながら、商人の誕生について焦点を当てていきます。
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参考図書:「古代史の論点③都市と工業と流通」田中琢 金関恕
       「日本流通史」石井寛治

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●古代日本における市場の発展
 律令国家では物品、労力を貢納させる租庸調の制度があり、その貢納物の移動が当時の物品流通であった。律令税制下での貢納は中国から輸入した「郷土所出主義」に基づいており、それぞれの地域ごとに進上すべき品目が決まっていた。各地域から集まってきた品目は中央に集まり、政府は潤沢になっていく。その中で必要な量は政府が受け取り、労役への財源に当てられたり、新羅や唐への貢物として利用された。他の物資に関しては、市にて「再分配」という形を取った。
 

 図 各国の調(左) 各国の調雑物(右) 
 
●中央の市場発展
 中央に集まってきた物資は毎回同じだけ届くでもなく、中央が同じものを同じ量だけ必要なわけでもない。中央の必要な物を必要なだけ確保するには、適宜交換して調達する場が必要であった。それが市の起源である。こちらから余り倒したものを出し、農民からはこちらの必要な物品が回収できる様な価格調整をしていく。
 
 中央の平城京では左京と右京にそれぞれ東市と西市が開設され、政府の役人である「市司(いちのつかさ)」が秩序を維持するとともに商品価格についても管理していた。
 貴賤を問わず多くの人が集まる市は、刑罰の執行場所としても用いられ、政治的にも重要な場所であった。こうした東西市は、平城京に先立つ藤原京(694〜710)にまず置かれ、長岡京(784〜794)や平安京(794〜)にも開設された。平安京の場合を見ると、東市が51店、西市が33店からなり、月の前半が東、後半が西という風に分かれていた。現在も歴史ある市場として有名な京都錦小路市場はここが起源といわれている。人口が密集しており清涼な地下水が湧き出ているこの地は、後に魚市場としてさらに発展していく。
 
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 図 現在の錦小路市場 
 
 東西の市で売買することを許された者のうち富裕なものたちは「市人(いちびと)」として登録されていた。彼らと並んで下級の官吏や地方の豪族も活躍し、市の監督にあたる官吏は自ら物資を売買して価格を調整したが、その機会に利益も得ていた。東西市には税で運ばれたもの以外にも、近在の農民が穀物や野菜を持ち込んだり、遠い海辺から商人が塩・魚介類・海藻などを持ち込んだ。しかし、最大の物資の供給者であり、需要者だったのは政府そのものであった。
 

自然的・社会的諸条件に規定され、「郷土」を単位として生じる生産・生活の様式の相違を前提に、国家が指定収取→再分配することで市の発達→貨幣流通、さらに言えば国の統率を促していたのである。

 中国では儒教による「士農工商」の身分制度で「士」は「商」とはっきり身分が分かれており、商業を蔑視する賤商観に基づいて官僚の商行為が禁止されていたのに対して、古代日本は「士農工商」という身分制度を導入できなかった。大宝令(701)で一旦受け入れたそうした身分制度を養老令(718)で廃止しているのである。それは日本において、まだ「商」の身分が未成立だったことによる。そのため、律令国家にとって必要な市場経済の発展は、中国のような民間商人によるものではなく、官吏によって担われることが多かった。
   
●地方の市場発展
 国衙(こくが)(=地方政府)の置かれた国府の近くでは、たいてい市が開かれた。それは、国衙が公民から収取した籾米などの一部を使って、中央政府が要求する繊維品(伊賀、丹波、伊勢など)や皮革品(尾張、周防、但馬)あるいは陶器(和泉)などを購入して中央に送るためであった。市を中心とした交易圏を利用して、中央政府の要求する物資が調達されていたのである地方の市がそうした政治的性格を持っていたことから、市の分布密度がまだ低く、開市日も限られていたと考えられる。おそらくそこに専門の商人も存在しなかっただろう。
 地方の段階で必要な物資が不足した場合や、逆に豊作となった場合は、中央の市へ至る前に、その付近で発達した市でも交換が行われていた。特に海沿いの地方でしか取れない塩はその汎用性・貴重さから中央に調達されると市場に出回ることは無かったため、この時代の人々にとって入手困難なものになっていた。同時に塩は共通貨幣の性質も持ち合わせていたため高価値で取引されていた。 
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●地方と中央を結ぶ交易
 地方⇔中央を結ぶ遠距離交易は盛んに行われており、8世紀前半の全国人口は推定560万人だが毎年10万人が租税の輸送に動員されたといわれている。宿泊施設も無く、途中で病気になったり死亡することも多かった。9世紀末には馬車や船による輸送を行いはじめ、そうなると専門の輸送業者が登場するようになり、彼らによる商業活動が盛んになった。
 遠距離を運ばれる物資の多くは中央政府に送られる税(調庸)であり、国司ら地方官僚はその輸送に際して私的な商品の輸送を併せて行い、その売買によって多大な利益を得ていた。この交易を担っていたのが「商旅」と呼ばれる遠距離交易者である。この「商旅」は地域ごとの特産物を購入し、在地での高値での売却を目的としており、彼らの実態は地域の豪族層であったと考えられる。関東や中国・四国の地方豪族が莫大な銭を蓄えて官位を買っているのはそうした中央との遠距離交易による利益抜きにしては理解しがたい。この商旅こそ、商人の起源であるといえる。
 

 元々国営であった市は物品の再分配という名目の元に運営されていたが、実態は中央政府の要求する品を効率よく手に入れるための場所だった。
 そもそもそこにいた売り手は役人(=市人)であったが、税の行き来がなされるうちに専門の輸送業者(=商旅)が現れた。彼らは輸送に際しての物品のやり取りにより商売のノウハウを蓄えるようになっていく。そこから後に商人になり、市場発展を加速させていったのだ。

 
 
 
次回は市場発展に伴い国家統制に大きく加担するであろうと考えられた、当時の貨幣流通について焦点を当てていきます。お楽しみに。

List    投稿者 KUSANO | 2012-12-04 | Posted in 未分類 | No Comments » 

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