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日本史から探る脱市場の経済原理(7)〜【中世】市場の萌芽と貿易→蓄財による武士の台頭

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古代〜近世までの日本の経済システム(生産・流通・財政・金融etc)を追求する中から、新しい経済原理のヒントを見つけ出す「日本史から探る脱市場の経済原理」シリーズ。
 
プロローグ〜 [1]
(1)〜奈良時代に至る背景(支配者の変遷)と諸外国との関係〜 [2]
(2)在地首長制をひきずった古代律令制度〜 [3]
(3)徴税制度から民間流通へ、市場・商人の誕生 [4]
(4)日本で貨幣が浸透しなかったのは [5]
(5)奈良時代の庶民の暮らしとは [6]
(6)民衆発の社会事業を興した僧侶:行基 [7]
 
 
ここまでは「古代」に焦点を当ててきました。
そこでは、律令制の導入→中央集権化を強めるほどに、徴税が機能しなくなり、中央の思惑に反して貨幣が浸透していかなかった状況が明らかになりました。
それは当時、各地で有力豪族を統合者とした共同体が根強く残っていたためで、最終的に中央の貴族達は、それを維持する形での統合に収束していきました。そのような状況の中から、徴税制度を基盤とした流通網や商人なども登場しています。
 
 
今回からは、中世(主に10〜14世紀)に入っていきます。
 
まずは中世がどのような時代だったかをおさえましょう。
 


 
■ 中世の概要
 
794  平安京に都を移す
874  国風文化が栄え、「竹取物語」「伊勢物語」などが著される
894  遣唐使を停止する
902  荘園の大整理をする
960  中国に宋が起こる
1086 院政の開始
1156 保元の乱
    天皇と上皇の対立に、源氏と平氏が動員されて戦った
    勝った天皇側についた平清盛・源義朝は力を認められる
1159 平治の乱
    平清盛と源義朝の争い
    清盛は義朝を討ち、その子頼朝を伊豆に流す
1167 平清盛が武士で最初の太政大臣になる
1185 平氏が北九州にのがれ、壇ノ浦で滅びる
1192 頼朝、征夷大将軍となり鎌倉幕府を開く
1219 実朝が暗殺され、源氏が3代で絶える
    北条政子が政治の実権をにぎる → 「尼将軍」
1221 承久の乱(後鳥羽上皇が鎌倉幕府に仕掛けるも敗戦)
1232 御成敗式目(武士や庶民にとっての史上初の法律)
1268 北条時宗が執権となり、元の使者を追い返す
1274 文永の役
1281 弘安の役
 
 
★この時代の特徴は
 
・それまで国政の手本としていた唐に対し、遣唐使を廃止した
 (唐の荒廃→凋落する状況を見ての判断)
 
・荘園が全国に広まった
 (荘園→貴族や大寺院が地方に所有する別宅や倉庫などの建物郡と、その周りの墾田とを合わせて私有化)
 
・私貿易である日宋貿易によって平氏が財力拡大
 →その後の武士政治の基盤を形成
 
・源頼朝が鎌倉幕府設立(初の関東の政権)
 
・有史以来初の外国からの本格的な襲来(=元寇)
 
・貨幣が急速に流通し、金融業者や金融システムが登場→宋銭の普及
(鎌倉初期は土地売買の決済が米60%、銭40%→鎌倉末期には米15%、銭85%)
 
 
今回の記事は、他国との関係(外圧)や貿易をテーマに、[元寇][遣唐使の廃止][日宋貿易]について、当時の状況を見ていきたいと思います。
 
 
■ 有史初の外国からの本格的襲来=元寇
この時代、中国では、大勢力を誇った唐が崩壊。その後50年の戦国時代を経て、宋が中国を統一します。この間、朝鮮では新羅から高麗に変わります。
その後13世紀には、モンゴル高原の遊牧民による空前の大帝国=モンゴル帝国が成立。宋はこのモンゴル帝国に滅ぼされ、元が成立しました。
 
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モンゴル帝国は、西アジアや東ヨーロッパにも勢力を拡大。侵略を受けた当時のイスラム王朝(セルジューク朝)が、玉突き的に東ローマ帝国を侵略→その反撃としての十字軍遠征が勃発。
北方にも進出し、ロシアにも支配の手を伸ばしました。
 
 
そしてモンゴル帝国は、元と高麗の連合軍で日本にも侵略しました。それが、1274年の文永の役、1281年の弘安の役(いわゆる元寇)です。
それまでも日本には中国や朝鮮半島からの逃亡民は数多く渡来していましたが、海を隔てた他国から本格的な侵略を受けたのはこのときが初めてでした。
 
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元寇は辛うじて凌ぐことができましたが、中世ではこれ以外には他国からの目立った侵略はなく、その意味での外圧は低かった時代だと言えるでしょう。
 
 
■ 唐の凋落→遣唐使の廃止
日本は、圧倒的な国力を誇る唐の国力を見習うべく、奈良時代の律令制の導入に始まり、その後遣唐使の派遣を通じて、唐との国交を確立していました。しかし、その唐も、官僚の腐敗や周辺国からの圧力を前に、徐々に衰退していきます。
 
すると日本は、これ以上唐との国交を続ける必要がないと判断し、894年遣唐使を廃止→日本独自の文化形成に舵を切ります。
(唐はその後崩壊し、変わって宋が中国を統一したのは上述の通り)
 
 
■ 日宋貿易による平氏の蓄財
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越前守でもあった平忠盛は日宋貿易に着目し、後院領である肥前国神崎荘を知行して独自に交易を行い、舶来品を院に進呈して近臣として認められるようになります。
その後、平清盛は、貿易拠点となる博多をその手に収めようと乗り出します。躍進のきっかけは1156年に起きた「保元の乱」。清盛はこの戦いに勝利し、朝廷に恩賞として太宰府長官の職、「太宰大弐」に就くことを認めさせます。
 
博多を掌握した清盛は、中国からもたらされる一級品を手に入れて莫大な富を築き、さらなる構想を打ち立てます。それまで博多でとまっていた中国船を都に近い神戸まで引き込むことを画策。国対国の正式な日宋貿易へと拡大を図っていきます。
 
そのために仏教を利用し、重源や栄西といった僧を外交官として派遣します。(これは、その後の日本外交の基礎となりました。)
 
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重源と栄西の、阿育王寺(あしょかおうじ)の舎利殿を造るという約束を通して、孝宗皇帝と日本のトップである後白河法皇が接点を持つことになりました。
仏教に深く帰依していた日本の最高権力者、後白河法皇と、中国の皇帝、孝宗。両国のトップを仏教を通じて向き合わせることで、国対国の日宋貿易を作り上げていったのです。
 
貴族の日記「玉葉(ぎょくよう)」には、この時の様子が綴られています。清盛のもとに宋の使者がやってきたこと。そしてこの時、後白河法皇自らが接見したこと。平安時代、皇族が異国の人間と接見することはありえないことでした。しかし、清盛は後白河法皇と宋の使者を直接、対面させたのです。
 
これによって博多でとまっていた中国との貿易ルートを、京の都にほど近い福原、現在の神戸まで引き込むことに成功。清盛は博多から瀬戸内海を経由して神戸に至る海路を掌握したのです。
そして正式に中国との国交が開かれ、清盛は更なる貿易振興策を実施し、富を拡大していきました。
 
 
このようにして、宋との貿易斡旋とそれによる財力を基盤に勢力を拡大し、清盛はついに1167年太政大臣に任命されます。そして、それまでの貴族に代わって政治を行えるまでに力を持つようになりました。
これは、平氏の持つ宋との交易力とその財力が、貴族にとって無視できないほどの力を持ちえたことを意味しています。
 
これ以後、天皇や貴族は形ばかりの存在となり、政治権力は武士へと移っていくことになります。
 
 

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