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お金はどこから生まれてきたのか?〜西洋編 『エジプト文明と金』

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『貨幣はどこから生まれてきたのか?西洋編』では、第1回 [1]第2回 [2]第3回 [3]と3回に渡ってメソポタミア文明について紹介してきましたが、今回はちょうど同時期に栄えたエジプト文明を見ていきたいと思います。 
 
メソポタミアでは、銀が貨幣として市場に出回り、急速に市場拡大していきました。
一方、エジプトでは古くから金が豊富に採掘されていたようですが・・・ 
 
対比して見ていただくと面白いと思います。 
 
 
応援よろしくお願いします。 


自然環境が人間生活に影響を与えることは過去の歴史からも明らかですが、古代エジプト文明の盛衰にそれが如実に現れています。 
 
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天使の羽 [4]より) 
 
 
1.自然の恵みに培われた共同体的風土  
エジプトの航空写真を見るとナイル川の縁だけが緑になっているのが分かります。これは砂漠に谷をうがって流れるナイル川の両脇、幅10〜20km程のグリーンベルトですが、エジプト文明の歴史はこの豊かな自然の恵みの中で展開したものとみられています。 
 
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(Jacques Descloitres, MODIS Rapid Response Team, NASA/GSFC)  
 
インド洋に吹くモンスーンはエチオピア高原にぶつかって、雨季に大量の雨を降らせます。雨は濁流となってナイル川に流れ込み、毎年9月に300キロ離れたエジプトで洪水を引き起こします。ナイル川が栄養分をたっぷり含んだ土を運んできてくれるので、洪水が去った後の氾濫原に小麦の種を蒔くだけで、3月には豊かな収穫が得られたのです。このように複雑な技術を必要としない農法は、古代エジプトで導入されてから今世紀に至るまで、自然に対する畏敬の念とともに守り継承されてきました。 
 
ナイル川流域に住み着いた人々が農耕を始めたのは前5000年頃だと言われています。ここでは農業の進展に伴い、ノモスと呼ばれる村落がたくさんできました。ナイル川の治水と分配には住民の共同作業と住民を統率する強力な指導者が必要であったため、統合への気運が高まっていきました。たくさんあったノモスは前4000年に上エジプト(ナイル川に沿った狭い渓谷地帯)と下エジプト(ナイル川下流の肥沃なデルタ地帯)の2つにまとまり、前3000年に統一国家ができました。 
 
統一以降も、周辺を砂漠に囲まれた閉鎖的な地形が天然の要害となり、めまぐるしい異民族の侵入はありませんでした。メソポタミアと比較して国内の秩序が良く保たれ、独立国家が長期間維持できたのは恵まれた地理的環境のおかげです。 
 
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日本人は農耕民族だから [5]より) 
 
このように気候的にも地理的にも恵まれた環境が、人と人の間に豊かなつながりを育み、そして人々は自然に対する感謝や畏敬の念を共有しながら共同体的色彩を強めていったのです。 
 
 
2.40以上もあったノモスが1つの統一国家になったわけ  
先にも少し述べましたが、前5000年頃にエジプトでは農耕や牧畜が始まり、ナイル川流域には大小様々なノモスができました。やがてノモスは纏まり始め、前4000年には地形の違う上・下エジプトの2つに統一されました。これは人口増加を背景に水需要が拡大し、治水や灌漑のための大がかりな事業に連帯して取り組む必要があったからです。  
そしてもう1つ、ノモスの統合を加速させた主要因はメソポタミア発の外圧上昇です。 

前4000年はメソポタミアでウバイド文化が突然消滅し、空白の後ウルク期が始まる頃で、遊牧部族の掠奪闘争の幕が切って落とされた時期と想定しています。その余波は周りの遊牧民その他の民族移動をよび、エジプトにも緊張圧力が生じたと考えられます。上エジプトと下エジプトにそれぞれでまとまったのは、メソポタミア発の同類闘争圧力に対抗するための団結と考えられ、共同体ノモスの部族連合だと思われます。 
(中略) 
前3000年頃のエジプト統一は、メソポタミアではウルク期に続くジェムデット=ナスル期、初期王朝時代とされる都市国家が形成される時期で、それへの対抗策としてより強大化する必要があったと考えられます。 
 
るいネット [6]より)

 
以降3000年に渡って、古代エジプト王国では31の王朝が順次交代していったといわれています。 
 
 
3.古代エジプトの特徴的な統合様式 
古代エジプト王朝の統合様式には、他の王朝と異なるところが2つあります。 
 
まず1つは、母系集団であったという点です。王位継承権は王族の女にあり、継承権を持つ女と結婚した男がエジプトの王となりました。このため嫡流から離れた王族の男が、政治混乱の末に王朝の王女を娶って王位を得た場合に、これを王家の交代と考えたようです。つまり、王朝の交代劇は他民族との戦争や大規模な混乱の末の出来事というものではなく、エジプト王朝は長期にわたる統一権力の下におかれ続けていたわけです。 
 
そしてもう1つは、神の力を以ってなされた中央集権国家であった点です。もともとエジプトは多神教崇拝であり、ノモスの形成に関してもその地域の守護神を中心に行われていました。そこで王は、国家の統一を、守護神を統一することによって成し遂げようと考えました。太陽神ラーをエジプトの神々の主神に据え、そして祭祀儀礼や呪術を用いて自分はラーの化身であると信じ込ませたのです。 
 
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マナペディア [7]より) 
 
 
4.王の権威を示すために金が利用された 
このように王=神という神王理念を用いて、王は自らの存在を誇示し、国家の求心力を補強することに腐心しました。 
 
この際に用いられたのが金でした。古代エジプトでは前3000年から祭祀や呪術の際に金が用いられていたことが知られています。 
 
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エジプトの絶景写真画像 [6]より) 
 
金の特性としてまずあげられるのは、その黄金の輝きです。太陽神ラーを信仰する古代エジプトでは、この輝きは太陽の光そのものだったに違いありません。
また、金は空気に侵食されないため、錆びることなく永遠に輝きを保ちつづけます。この永続性は、古代エジプトの人々の心を魅了しました。 
 
太陽を主神とし、永遠の生命の象徴として金を崇拝していたため、王たちは、みずからを太陽神に重ね合わせるかのように、黄金のマスクをつけ、黄金の棺に入り、黄金の装身具に包まれて永遠の旅に出たのだと言われています。 
神殿や神像にも金をかぶせ、玄関、祭壇はすべて金で覆い、やがて金は、「富と権力の象徴」としての意味も併せもつようになったのではないでしょうか。王たちが、金の採掘、精製、加工に情熱を燃やしたであろうことは想像に難しくありません。 
 
 
5.まとめ 
メソポタミアの銀が市場に流通し、後に貨幣として広まった歴史を扱いましたが、エジプトでは王が金を完全に独占し、神権・王権の象徴として用いられたために、市場に流通することはありませんでした。 
 
また古代エジプトのように統合された共同体的色彩の強い国家では、市場拡大の必要性もなく、商人が活躍する場所は無かったのだと思われます。
 
 
いよいよ『貨幣はどこから生まれてきたのか?西洋編』シリーズも次回が最終回。
再びメソポタミアに戻って、『銀が貨幣として市場を牽引するにいたった物語』です。
お楽しみに。

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