2013-06-25

お金はどこから生まれてきたのか?〜西洋編 第3回:「占星術」と「銀」

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前回の記事でご紹介したように、
メソポタミアでは、小麦との交換価値として、『銀』が用いられました。
なぜ、銀だったのでしょうか?
これには、女の子だったら雑誌やフリーペーパーに載っていると、ついつい見てしまう「星占い」
その起源でもある【占星術】と関係があるようなのです

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●占星術とは?
 
占星術とは、牡羊座など夜空に輝く12星座から自分に降りかかる様々な出来事を占うものです♪
 
そもそもは、天に現れる異変は天空を支配する神が、地上の施政者(王、皇帝、天皇)に与える警告であると考えられ、天変を解釈することで王侯貴族に起きる出来事や自然災害、反乱などのような社会的な事件を事前に察知しようとしていたものです。
 
そして、この占星術の起源を遡っていくと、なんとシュメール人にたどりつくんです☆
シュメール人とは、もともと遊牧民族で、紀元前9000年頃にメソポタミアに辿りついたと言われています。
 
 
●占星術の起源
 
メソポタミア地方は、現在のイラクにあたり、国土の7割が熱帯砂漠性気候です。降雨量は年間で50〜200mmで、200mm以上の降水量が必要といわれる天水農業には不向きです(参照:リンク)。しかし、チグリス・ユーフラテス川の氾濫がもたらす沃土によって、農業が発達しました。但し、チグリス川は4月、ユーフラテス川は5月に増水するのですが、4月・5月は収穫時期にあたり、もし収穫前に氾濫がきてしまったら、せっかくの農作物が流されてしまうんです><。
 

チグリス・ユーフラテス川の源流であるアナトリア高原は、日本の東北地方と同緯度であり、雨も降れば雪も降ります。でも、降る時期や量は年によってばらつきがあり、予測できません。
チグリス・ユーフラテス川は、大河と言われるわりには長さが短く、ナイル川の半分以下しかありません。アナトリア高原に大量の雨や雪が降ると、それは激流となって下流の都市を襲い、あっという間に何もかもを破壊しました。
人々は、この不定期で恐ろしい川の氾濫を何よりも怖れていました。
 
ウルの街のジックラト(神殿)は、その下部が瀝青(天然アスファルト)で黒く塗られているそうです。瀝青は水を通さないので、塗っておくと水害の予防になるのです。
川が氾濫すると、ウルの街はすべて水に飲まれてしまいます。唯一、巨大なジックラトだけが残ったのでしょう。ジックラトというのは「神殿」ではありますが、川の氾濫の際には人や家畜が逃げ込む避難所としても使われたようです。
 
ウルクの王さまギルガメシュの物語には、まるで旧約聖書の「ノアの箱舟」のような大洪水のお話が登場します。生き物がすべて死に絶えるほどの大洪水というのは、穏やかな気候の日本にいる私たちにはなかなか信じられませんが、当時の人々にとってはまんざら嘘でもなかったのでしょう。
 
シュメールの人々は、築いては破壊され、築いては破壊される経験をくり返していました。
 
<中略>
 
しかし、チグリス・ユーフラテス川の氾濫は不定期で、恐ろしい破壊力を持っています。シュメールの人々にとって神は「罰するもの」でした。そして大自然は恵みであると同時に脅威でもありました。人間は大自然に立ち向かい、切り開き、征服しなければ生きていけなかったのです。
 
リンク

 
メソポタミア地域を支配するには、この氾濫時期を押えることが不可欠と判断したのでしょう。
というのも、遊牧民族の間に、“自然を支配する”という価値観が形成されていたのです。
 

牧畜や遊牧は動物の集団を支配し制御する生産様式である。(農耕も自然を利用しているが、生物の集団=社会をコントロ−ルしているという意識は殆ど無かったであろうし、また狩猟民族たちも、自然から恵みを得るという意識はあっても、制御しようという意識は無かったであろう。)
つまり遊牧部族たちは(自然の一部とはいえ)生き物たちの群れを制御し支配している、という生活実態と意識を持つ存在だったのである。
そしてこの観点は自然現象や生物たちに対して、それらを(自分たちが羊の群れを制御するように)制御する存在があるという自然観に至ったと思われる。そして、その自然観が、万象の上位に立つ特定の存在=守護神の存在を措定したのではないだろうか。
「守護神信仰を生んだ遊牧民の自然観」

 
よって、この氾濫時期さえ分かれば、自然を支配できると考えたのではないでしょうか?
 
そこで何か予測できるものがないか、きっと周りを注視したのではないかと思います。
メソポタミアの地は、乾燥地帯なので、森林も少なく、自然の変化が乏しい地域です。
その中で、夜になると光り輝く星の存在、中でも分かりやすく変化する「月」の存在に注目しました。
 
そこから、暦が誕生し、占星術が生まれました。
 

現代の我々が使っている、1年12ケ月、1週間7日、1日24時間、円の角度が360度であるというものは、既にシュメール、またこれを受け継いだ古代バビロニアの時代に既に確立されたものであり、天文学と人間にとって数を数え易い10進法、12進法、20進法、60進法が基となったものです。
 
天文学が発達したのは、作物を栽培するにあたって季節や時間を知る必要があった事、またチグリス・ユーフラテス川の氾濫の時期を知る為に必要なことでした。<中略>
 
先ずは、1日ですが太陽が昇り、沈み、また昇るのが基本の単位であります。夜空で最も大きな星は月であり、満月になったり三日月になったりと、変化が大きくあるので、シュメールの人々は、月の変化で時間を知る暦(こよみ)をつくりました。これが太陰暦です。
 
『シュメール文明 天文学と数学』

 
シュメール人は、月が新月から新月へ一巡するまでを1ヶ月としました。そしてその間に4つの工程「新月→上弦の月→満月→下弦の月→新月」を踏みます。
 


 
それぞれの各工程は約7日間で、それを1週間としました。そして、7日間に、護神をつけて、日(太陽)、月(月)、火(火星)、水(水星)、木(木星)、金(金星)、土(土星)とし、そこから、曜日というものが考え出されました。
そして、同じ季節が巡ってくるまでに、この1月が12回繰り返されたので、1年を12ヶ月としたと思われます。それに基づいて12星座が生まれたのです☆
 

太陽はいつも東から昇り、西に沈みます。この変化は、言うまでもなく地球の自転によるものであり、星は北の空で日周運動を続けます。地球は太陽の周りを回っているので、季節により見える星や星座の位置は変わり、1年周期で動いています。太陽は日周運動の他に、西から東への年周運動もしており、星座の運動とは逆向きです。従って、太陽は星座の間をぬって動き、この星座の間の太陽の通り道は黄道と呼ばれ、黄道上の星座が黄道12宮と呼ばれる星座です。
 
『シュメール文明 天文学と数学』

 
こうして、簡単に言うと、太陽を初めとして月・水星・金星・火星・木星・土星・天王星・海王星・冥王星の10惑星がそれぞれ12星座のうちどこに入るか、そして惑星同士がどのようなアスペクト(角度)にあるかと、地上で起きた事件と災害を関連づけ、占星術が生まれました。
これにより、星の動きによって氾濫の時期や災害を予測するようになったのです。
さらに国の政治や、経済政策にも使われていったと考えられます。
 
これが、皆さんが楽しんでいる星占いにも繋がっているんですね☆
 
 
●シュメール神話でも分かる月の存在の重要性
 
以上から、占星術で氾濫時期を予測する時に、星の動き特に月の動きが鍵を握っていたことが、シュメール神話にもあらわれています。
 
シュメール神話では、月は「神」の1人として登場します。
 

●月神ナンナ
 ナンナは、アブラハムの故郷として知られるウルと、ガエシュで崇拝されていた月の神である。もともとは知識の神として崇拝されていたが、メソポタミアで宗教が体系化すると月の神になった。ナンナとは、単に「空の神」という意味である。
 月は人間の天体観測に関する知識と無縁ではない。月は地球ともっとも身近なだけでなく、暦法や方角を教えてくれたりもする。シュメール人たちは月食を、悪魔がナンナの威光を一時的にかき消して、悪事を働こうとするからだと信じた。彼は宗教上の図解では、三日月として表現される。またの名を「シン」。王の名に多用される。
 
リンク

 
そして、シュメール神話の中では、この月の神ナンナは、「洪水を引き起こす風と嵐の神エンリル」と「穀物の女神ニンリル」から生まれたことになっているんです。
シュメール人は、月が洪水の時期と穀物の収穫時期とに密接に関係していると捉えていたのが分かります。
 
 
●占星術と月と銀の関係
 
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占星術が生み出されるまでの長い期間を推測してみました♪
 
星の周期を研究していたシュメール人は、その関係性を整理して、それを人々と共認するために、星の位置関係を地面や粘土板に表記しました。(参照:リンク)その時に、それぞれの星を表す物として、夜空に輝く星を、地上でも輝く金属で記したのではないでしょうか。太陽は金、金星は銅、月は銀、水星が水銀、火星が鉄、木星が錫、土星が鉛。(参照:リンク
月を「銀」で表したのは、金属の中でその光沢が近いからだったのではと想像します。
そこから、月と銀の結びつきが強くなったと考えられます。
小麦を確実に収穫するために、とても重要だった月。
そして、上記の月と銀の関係。
その2つの深い関係があったからこそ、小麦の預り証に「銀」を用いたのではないでしょうか^^?

倉庫に人々は収穫物を預けるのですが、その預かり証に用いられたのが“銀”だったのです。
倉庫に小麦を預けるとその重量に応じて銀を受け取り、銀を倉庫に持っていくと小麦に交換してもらえるというシステムがあったのです。
この時に小麦と銀の交換基準が成立し、銀は小麦という現物価値のあるものとの交換価値が生まれたと考えられます。
前回記事より♪

次回は、同時期に大河を活用して文明が発達したエジプトを見ていきたいと思います♪

List    投稿者 mihori | 2013-06-25 | Posted in 未分類 | No Comments » 

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