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金貸しによる洗脳教育史③ 〜特権化された大学が壮大な騙しの社会を創っていった〜

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     ボローニャ大学 [1]             パリ大学 [2]  
前回の記事
金貸しによる洗脳教育史②〜皇帝と教皇の詭弁合戦から大学が生み出された [3]では、大学は、ローマ教皇に対抗する神聖ローマ帝国が、ローマ法の正当性を確立するための、詭弁需要から生まれたという、目から鱗の新認識を展開しました。
 
今回は、神聖ローマ皇帝とローマ教皇が、勢力争いに大学をどう利用していったのかを具体的に見ていきます。各々の大学の優位性を高めていくには、多くの学生を集める必要があります。
そのために、皇帝や教皇がどのように、大学への求心力を高めていったのか、その背景を探っていきたいと思います。
 
大学設立の起源等を紹介している文献では、大学の成り立ちの背景として、イスラム文化の流入により、自ら学びたいという若者達が、ボローニャ等に集まってきたという逸話として、その「建学の精神」や「自学志向」を挙げているものが多いようです。
 
ただし、この「建学の精神」や「自学志向」と、前稿の「詭弁需要」という背景とは、論理的に飛躍があり、要因としては不十分と思われます。


◆「学生」という身分の発生

教授たちは自分の学問の質を維持しつつ学生に対抗するために「教師組合(カレッジ)」を結成した。これに入るためには試験にパスする必要があり、この試験が「教授免許」の始まりとなった。学生は別に教授になるつもりがなくても大学で立派な学問を修めたことの証拠としてこの免許を求めるようになる。つまり「学位」の発生である。(ボローニャ大学の事例)

リンク [4]
 
12世紀中頃には、学生に「教授免許」としての「学位」が認められました。
この「学位」を取得すると、貴族と同様の扱い、つまり「学生」としての「身分」を得ることができたようです。

 
もっとも、当時の学生は、20〜40%が聖職者の家庭出身、60〜40%が裕福な市民や貴族の家庭出身であり、貧しい家の出身は20%程度(参考:リンク [5])ということは、8割程度が一定程度の身分にある家庭出身であるそうです。このことからすると、大学への求心力という意味では、「身分」獲得だけでは、充分とはいえません。
 
また、学位取得には相当のお金が必要だったことから、貧しい家の出身者にかなりハードルが高かったことを伺い知ることができます。
 
因みに、その試験費用は
学士号取得:60リーブル
博士号取得:500リーブル
当時の教授の年収:150〜200リーブルと比較すると破格の金額です。
 
この試験費用とは、実は試験官へのプレゼント、つまり賄賂であったとのことで、「学位」の始まりの当時から、「金持ち優位」であったことは、今後広まっていく「学問」そのものの価値を疑わざるを得ない感覚に捉われます。
 
ただし、以下にあるように、学位を取得するには相当困難だったようで、長年に亘る勉強活力を、如何に維持していたのか?もう少し突っ込んでみていきます。
 

学位論文を書き,公開の口頭試問を受け,出席した教授全員の投票でドクターやマイスターなどの教授資格が認められる(教授ギルドに加入が認められる)ことが今日ふうにいえば卒業だった.熱心な学生でも6〜8年はかかったという(学位にまで到達する学生は1/10もいなかった)

リンク [5]
 
◆ 学歴社会の始まり
 
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         リンク [6]                         リンク [7]
 
学位取得者の進路を見てみると、大学に残って教師(学者)になるもの、法学部出身者で都市や国家の官吏や法律家になるもの、神学部出身者で聖職者になるもの等、将来の要職獲得への道が開けていたようです。
 
因みに、

学位を取れなかった学生も貴族や富裕な市民の秘書,執事,家庭教師など就職口はあった.ラテン語が公用語の社会で,ラテン語が使え,学識のある学生にはそれなりの需要があった

リンク [5]
とのことで、大学を卒業することで、将来が安定するという学歴社会の始まりを示唆しています。
 
特に、商人による都市国家の発達により、都市国家間に跨る交易が活発となると、それまで田舎で年貢の取り立てや、役人等を行ってきた地方貴族等は、交易による利益拡大や、王様へ貴重品を売り込んで出世を狙う、或いは、帝国の中央官僚や主要都市の司祭になるなど、私権拡大の可能性が開かれることとなったと思われます。それ故、富裕層出身者いとっても、取引を優位に進めるため、或いは、自分を高く売り込むため、さらには、部下や庶民を従えるために、詭弁能力を高める必要性にせまられたと想像されます。私権獲得の可能性をより高めてくれる場として、大学への求心力が高まったと思われます。
 
これは、貧しい家の出身者にとっても同様で、学生という身分獲得によって、生涯固定の身分から脱却できるという新たな可能性が開かれたという意味で、歴史的な転換点であったと思われます。
このことは、比較的貧しい家の出身者が多かったパリ大学のその後の発展を見ても明らかです。

 
◆学生は初めから特権階級
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    (皇帝フリードリヒ1世 [8])         (ホノリウス3世教皇 [9])
 
学生の身分は、将来の私権獲得を約束されるということだけには、留まりません。
 
前回、神聖ローマ帝国を正当化しようとするボローニャ大学、それに対抗し、ローマ教皇を正当化しようとするパリ大学という両者の対立関係を展開しましたが、それ故に、両大学にはそれぞれ、神聖ローマ皇帝とローマ教皇から様々な特権が与えられます。
まずは、ボローニャ大学の事例を紹介します。

学生は聖職者と同様の保護を与えられた。学生に特権を与えたのは、皇帝フリードリヒ・バルバロッサの勅法カピタによってである。だれも学生に肉体的な危害を与えることを許されず、学生は教会裁判所において犯罪のために審問されるのみであり、従っていかなる身体刑からも免れていた。このことは学生に都市環境においてとがめなく世俗法を犯す自由を与えた。実際、多くの乱用がなされ、盗み、強姦、殺人は、ゆゆしい結果を直視しない学生の間では珍しくはなかった。このことは世俗的権威とともに不安な緊張へと導いた。学生は時々都市を去り何年も戻らないことによって「ストライキ」した。

リンク [10]
 
この学生に与えた治外法権により、元々わがままに育ってきたであろう貴族等裕福な家庭の学生達は、さらに図に乗って自我を肥大させていったであろうことは、想像に難くないでしょう。
このような学生が将来の法律家や官僚になるであろう地域や社会は、とことん彼らのいいようにされてしまったであろうことは疑う余地がありません。
 
因みに、この当時の大学は、現在のような教室が備わった建物があるわけではなく、学生が寄宿舎や寮に教授を招きいれたり、教会等を間借りして行われたりしていたので、学生は、「言うことを聞かなければ(学生みんなで)出て行く」という脅し(;ストライキ)による交渉を行っていたとのことです。
 
次に、パリ大学の事例です。

パリ大学は教会付属学校から発展したものに相応しく、教授も生徒も大半が聖職者身分に属していた。聖職者は何か法的な問題が起これば出身地の教会の裁判に服するが、遠方からパリに来ている大学関係者に対する裁判権を誰に与えるかという問題が発生した。1200年、ドイツ人学生の侍僕が酒場で侮辱され、そこから起こったパリ市民・パリ市警察と学生との乱闘で学生5人が死亡するという事件が起こった。学生・教授は団結してフランス国王フィリップ2世に訴え、乱闘で学生を殺した犯人を処罰しなければ全員でパリを退去すると言い出した。フィリップ2世……自分の治める国で学問の府が発展するのは基本的には喜ばしいことだと考えていた……は犯人を逮捕し、「警官は現行犯以外に学生を逮捕出来ない。その場合も身柄を教会に引き渡す」「学生は聖職者身分でなくとも聖職者扱いにしてパリ司教の教会裁判権のみに服する」との特許状を発行した。「パリ大学」はこの時をもって正式に発足したとされている。

リンク [4]
とあるように、パリ司教による治外法権の特許状が、教授や学生に与えられました。
 
そして、次にローマ教皇直轄の特許が与えられることになりました。

今度はパリ司教との関係が問題となる。パリ大学はもともとここの付属学校なので、パリ司教座教会の印璽の保管や記録の保持を担当する「文書局長(チャンセラー)」が教会付属学校の管理を行い、教授免許の発行や学生の管理も牛耳っていた。文書局著はささいなことで学生を逮捕し、釈放のための金をとった。大学とパリ司教はたびたび対立したが、大学にはローマ教皇が味方についた。前述のとおり歴代教皇にはパリで学んだ者が多かったことから大学に同情的であったし、その頃はヨーロッパの各地で異端(カトリックと対立する教派)が盛んであったから、優れた学者を大勢抱える大学を味方につけるのは教皇にとって得策であるとも思われた。1212年にはインノケンティウス3世教皇が、人文学部の教授免許の発行に関して教授の大多数が賛成したならば文書局長はこれを拒否することは出来ないとした。明らかに必要な場合を除いて投獄も不可となる。

 
このように、皇帝、教皇という最高権力者直轄の治外法権=特権が大学に与えられたことにより、まさしく大学が聖域化され、その中で、学者や学生はとことん自我を肥大させ、それが最高権力者によって守られていくことになります。
 
「学生」になりさえすれば、好き勝手できる身分が自動的に与えられ、卒業後も、好き勝手できる地位・身分が補償されているのです。そして、特に詭弁能力に優れた者が学位を取得し、エリートとして、国家や教会の中枢になっていったのです。
 
◆大学は詭弁の巣窟
 
元々、大学は、己の立場を観念によって正当化する詭弁需要から生まれました。
大学では、ローマ教皇側は聖書、神聖ローマ教皇側はローマ法を教材に、元々ある書物の解釈を学び、その正当性を説明・説得する能力を訓練します。

 
そのことは、聖書やローマ法そのものの成立に対する疑義は排除され、つまり、事実認識への思考が否定され、その正当性を前提として説明、説得するという倒錯思考を訓練していくだけに成り果ててしまいます。
 
さらに、最高権威から大学に与えられた特権は、自我を極限に肥大させることになります。自らの行動の誤りを振り返り、反省する機会や、思考の方向性を正す意識も封鎖され、詭弁、屁理屈による正当化の思考のみに長けていく存在となります。
 
このことからすると、大学とは詭弁の巣窟に他ならないということになります。
そして、ウソ、騙しの詭弁を獲得していった学生という存在、そのような学生を育て、国家or教会の要人として送り込む大学の存在自体が、壮大な騙しの社会を創っていったと言っても過言ではないのではないでしょうか!?

 
中世に起った大学の誕生は、あたかも人類の先端機能である観念機能をより先鋭化し、近代から現代に繋がる文化的な発展を想起させる出来事のように捉えられますが、実は、心と頭を分断させ、私権社会を正当化し、発展させていくことに寄与してきただけの存在であったように思います。

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