2014-01-29

金貸しによる洗脳教育史②〜皇帝と教皇の詭弁合戦から大学が生み出された

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教育機関の頂点に位置し、学問の権威的存在となっている大学機関。今回はその大学の起源に迫ります。
 
 
一般的には大学の起源は12世紀のボローニャ大学、パリ大学とされ、それらは自然発生的に成立したと説明されていますが、よくよく事実を見てみると権力争いに端を発していたという新たな側面が見えてきます。
まずはその当時の時代背景から。
 

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■ 教会支配の衰弱→ローマ帝国の台頭
西ローマ帝国の滅亡後、西欧の学問は長い停滞を続けていました。書き言葉と話し言葉が違う(前者はラテン語)ので学問の習得には時間がかかり、そもそも領主の権力や都市の規模が小さいので高度な学問(例えば体系的な法律)はあまり必要とされませんでした。古代ギリシア・ローマ時代の学問はイスラム圏やビザンティン(東ローマ)帝国に保存されていました。
 
しかし12世紀に入って交易拡大→両替商=商人の台頭と、それに伴う市場拡大によって、イタリアを中心として(交易拠点としての)都市国家の発展が著しくなっていきます。交易による市場拡大の可能性が開かれていく時代に入ります。
 
このような中にあって、神聖ローマ帝国はそれら商人を取り込むことによって勢力を拡大。当時一大権力であったローマ教皇を脅かす存在として、両者の対立が激化していくことになります。(絶対的な教会支配が崩れていく過程です)
 
 
■ ローマ帝国の正当化⇒ローマ法⇒ボローニャ大学
ここで神聖ローマ皇帝は、ローマ教皇に対する自らの正当性を確立すべく、ローマ法の整備と、それによって国家を統合するための官僚育成に着手します。
 
まず、12世紀初頭にイルネリウスという学者が現れてローマ法の注釈を行い、続いて1140年頃にグラティアヌスという人物が教会法の教科書を執筆します。これをきっかけにしてボローニャにはイタリアのみならずドイツやフランスからも法律を学ぼうとする人々(つまり学生)が数百人も群れ集まるようになっていきます。
 
この学生の一団がボローニャ大学を形成します(最古の大学)。
 
つまりローマ法は、激化していたローマ教皇と神聖ローマ皇帝との抗争に際し、ローマ皇帝を法的に正当化する根拠として整備(注釈)され、それを先導する役割として(法学中心の)ボローニャ大学が形成されたのです。
 
自らの立場を正当化するための“詭弁”を作り出すことが、ボローニャ大学が設立された目的であった。
 
さらに、大学を卒業した(ローマ法を身に付けた)知識人を官僚にすることで、ローマ法によって統合される国家を形成。このようにして神聖ローマ帝国の勢力基盤を確立していきます。
 
 
■ ローマ皇帝への対抗策としてのパリ大学
対するローマ教皇は、元々傘下に神学校を持っており、そこで司教を育成し各地に派遣することで権力を維持していましたが、神聖ローマ帝国の勢力拡大(大学設立)によって、対抗策の打ち出しが急務でした。
 
そこでローマ教皇は、傘下の神学校を格上げする形で大学を設立。最初に設立されたのがノートルダムのパリ司教座教会付属神学校を起源とするパリ大学でした。(歴代ローマ教皇の多くがパリ大学の出身です。)
 
この経緯からも明らかですが、パリ大学は(ローマ法に対する)神学の正当性を確立するための機関として設立されたのです。
 
 
■ 詭弁合戦が大学の起源
と、ここまで見てきたように、ボローニャ大学にしろ、パリ大学にしろ、神聖ローマ皇帝とローマ教皇との勢力争いにおいて、それぞれが自らの正当性を主張する(詭弁を作り出す)ための機関として設立されたということになります。つまり事実追求とは正反対の立場にある。(いかにして相手を説得するか、騙せるかを追求)
 
おそらく現代の大学も根底には、この起源を脈々と受け継いでいる可能性が高そうです。(今後のシリーズでそれを見ていきます)
 
 
次の記事では、神聖ローマ皇帝とローマ教皇が、勢力争いに大学をどう利用していったのかを具体的に見ていきます。
 

List    投稿者 nishi | 2014-01-29 | Posted in 未分類 | No Comments » 

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