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資力が武力を上回ったのはなんで?(5) 〜大航海時代から始まる商取引と分業化のシステム〜

高度自給自足時代の夜明け 【先進国の未来像】さんよりお借りしました

このシリーズでは、「資力が武力を上回ったのはなんで?」を扱っています。

これまでの記事はこちらです

(0)プロローグ [1]
(1)“公共事業”としての十字軍と周辺ビジネスで肥大化した「騎士団」 [2]
(2)負け組が築き上げた国:スイス [3]
(3)武力が制覇力になりえなくなった時 [4]

(4)私権獲得が社会共認となった大航海時代前夜 [5]

今回は大航海時代のお金の流れを見ながら、現在の金貸したちの力の源泉について考えながら、制覇力としての武力と資力の力の逆転劇を考察したいと思います。

■大航海時代以降のお金の流れと十字軍の系譜

大航海時代初期の資金は王族・貴族・大商人が投資していました。

簡単に書くと

王族・貴族・大商人・金貸し ⇒航海資金⇒ 船乗り・冒険家(海賊)  …掠奪航海

航海帰還 … 船乗り・冒険家(海賊) ⇒略奪品による利益 ⇒ 王族・貴族・大商人・金貸し

となります。

しかし、大航海時代の先駆者であるポルトガル・スペインの王族はレコンキスタの戦費負担により国の資金繰りは火の車で、実質的に資金を提供していたのはベネチア商人でした。コロンブスの航海の資金提供に対してスペイン王を説得し、実質的資金提供者と思われる財務大臣ルイス・ド・サンタンヘルの出自もヴェネチア商人のようです。
そして、コロンブスの奥さんはテンプル騎士団の流れをくむキリスト騎士団の団長の娘です。また、ポルトガルのエンリケ航海王子もキリスト騎士団の指導者なのです。

こうしたお金の流れには、テンプル騎士団とベネチア商人の結びつきが透けて見えているのです。
(スイスという国家がベネチア商人とテンプル騎士団の末裔と言うのも面白い符合です。)

大航海時代は先駆的な航路探索の段階から、国家を傀儡にして、十字軍による掠奪によって富を蓄積してきた商人や騎士団という連中が暗躍していた様です。
十字軍を切っ掛けに国家統合から遊離した形で、武力と資力が共に手を組んでいた事がわかります。
悪魔のような侵略を助長して、その後のアフリカ、アメリカ、アジアの歴史に悲惨な爪痕を残した原因構造は、国家統合のような人々の期待とは無関係に、元々国家に帰属していた武力や資力が手を結んだことにあるのではないかと考えています。
国家的大事業から統合という視点≒人間集団としての利益と言う視点が欠落していくと、私的な掠奪性が前面に出てくるのではないでしょうか。

しかし、この時代「豊かになる」という人々の大きな期待に隠れて、その問題性は認識出来ていなかったと考えられます。

■大航海時代の収益システムの中枢が商人となり分業化が始まる

「大航海時代の海商-海上交易の世界と歴史」 [6]より

(前略)
スペインは、新大陸貿易にあたって、ポルトガルとはちがって、それを商人にゆだねたが、植民地産鉱物の5分の1を税金として取り立て、貿易をセビリアとカディスに集中させ、輸入品に17.5%、輸出品に7.5%の税金をかけていた。セビリアには商務院が設置され、海商の統制を行い、商人船主に対する特許状の交付や輸出入貨物の検査を行い、船団護送も掌握していた。それだけでなく、航海学校や水路部を持ち、航海者の資格認定も行っていた。スペインからは植民地に向けて、ヨーロッパ・東方産のすべての貨物や奴隷を輸出し、そこから金銀地金、カリブ海の真珠、皮革、染料木、砂糖、綿花を積取り、輸入していた。最も繁栄した1581-1620年には、毎年100隻ほどが大西洋を横断していた。
(中略)
船主と商人とは分離しており、船主は海運業を生業としていた。船長は持分所有者であり、管理船主として乗船しており、航海者を雇っていた。運賃は統制されておらず、片道航海で船価を十分に回収できるほどの高運賃が支払われていた。商人と船主は金融業者から冒険貸借で金を借りていたが、その業者はドイツのフッガー家とかジェノバのカグリマルディ家といった外国人であった。スペイン船の乗組員は、ポルトガル船と同様に自国人では足りず、外国人船員を雇っており、その質は悪かった。そうしたことで、乗組員は雇われ船員であった。1550年頃、一人前の船員は1か月2.5ドカ、士官、砲手、大工には4.5ドカ支給されていたが、帆走長には1航海で110-180ドカも支払われていた。(後略)

当初、大航海による掠奪利益に対して、国家は税金を徴収し、その見返りに様々な独占権を商人に与えていたようです。
そのため、商人の力は非常に強いものとなっていきます。
しかし、スペイン・ポルトガルの王族は利益を上げることが出来ましたが、国内だけでは人手が足りず、実質的に掠奪事業を運用していたのは外国人であったようです。
その為、スペイン・ポルトガルの国家的な繁栄は長くは続きませんでした。

ここで、大航海の事業から国家が利益を受け取るシステムの中枢に商人が介在していたシステムの意味は大きいと思います。国家は税収を受け取るのみで、収益を上げるシステムは商人の手中に収まっていたのです。

そして、神聖ローマ帝国崩壊以降、戦乱により貨幣経済が崩壊していたその他のヨーロッパ諸国も大航海のうまみに引き寄せられます。ピューリタンとカトリックの宗教戦争であった30年戦争が終結すると、本格的にイギリスなどの海賊からキリスト教に改宗した勢力が大航海に参戦してきました。
ピューリタンは免罪符によるキリスト教の権威失墜やルネッサンスの影響により、私権に強く収束した自由な信仰を求める人々であり、カトリックは古い教会勢力の人々で当然その上層部は商人との繋がりを持っていたと思われます。
双方とも私権に強く収束していたため、ルネッサンスによる意識改革と自然科学がもたらす技術をもって、国を挙げて(国家と国民が共に)先駆者のスペイン・ポルトガルを追い落とす勢いで植民地時代へと突き進む事になったと思われます。

一方、大航海による掠奪が儲かると言っても、ハイリスク、ハイリターンであることには変わりはありません。そこで、現在の株式会社に繋がるリスクの分散負担のシステムが考案されました。王侯貴族、大商人等の資産家から広く資金を集めて、冒険家(傭兵など)を雇い実行する。つまり、資金を提供する人、実行する人に加えて、その仲立ちを独占的に行うシステムが出来たと言えます。
特に、独占権を得た者たち=商人は、仲立ちをすることで低リスクで蓄財をしていったと考えられます。

★冒険企業と東インド会社★
(前略)
いままでみてきたように、エリザベス時代の船主はおおむね商人であったが、他人の貨物を積み込まなかったわけではなく、また自らは船を持たずに運賃積みする船主を探す単なる商人も多くいた。さらに、商人が集まって組合を作り、その組合が船を用船して管理者を乗船させ、海商を営むものもいた。しかし、遠隔地貿易や大洋貿易については、特許会社が作られていた。
その1つは、規制会社と呼ばれる商人の組織である。それには、15世紀の羊毛輸出を独占したスティプル-カンパニーや16世紀の冒険商人組合(Merchant adventurer’s company)が含まれる。国王から、特定の航路の海商について独占権が与えられ、自ら規約を作り、護衛船などの費用を出し合って運営していた。しかし、海商そのものは加入している商人たちが自
らの勘定で船を所有あるいは用船して、自らの危険負担の下で行われていた。王室も組合員の2員になったり、王室船を護衛船として貸し出していた。もう1つは、共同持株会社(Joint stock company)と呼ばれる投資者の組織である。それには、1555年設立のロシア会社や1600年設立の東インド会社、そして私掠船組織が含まれる。国王より特許状が下付されて特定の海商を独占するが、重要なことは株式を発行して資本金が調達され、持株に応じて利益が配分されたことであった。持株会社は先駆的な株式会社であった。

この時代、イングランド銀行が世界で始めての中央銀行として発足します。
掠奪貿易による活発な商取引が通貨の有用性を証明することとなり、通貨発行権を金貸したちが手中に収めます。
活発な取引=市場拡大が、金融という打ち出の小槌(中央銀行制度・通貨発行権の旨味)を支えると金貸したちが実感したのはこの時代ではないでしょうか。
その為には、取引の細分化は有効な手段でした。
大航海時代に資金提供者と実行部隊を繋ぐ金貸しという職業と通貨、そしてそれを体系化した金融システムの萌芽があったと見ています。
その為に生まれたシステムの一つが職業の分業化なのではないでしょうか。

これ以降、様々な業種は分業化が進み、共同体的相互扶助を解体して新たな職種を創造したり(福祉・医療など)と言った動きが活発になり、市場が拡大していきます。
金貸しが、様々な業種を細分化する中で、最初に分業化に成功したのが武力だったのかもしれません。
このことにより、武力<資力の構造が定着していった見ています。

■まとめ

大航海時代のお金の流れから、商人=金貸したちの動きを追ってみました。
金貸したちは、掠奪という大きな利益を生む事業を、国家と大衆にリスク負担をさせながら、その旨味だけをかすめ取るシステムを狡猾に構築していったと言えると思います。
そして、新たにリスクヘッジであったリスクの分割という考え方とそこに発生する貨幣のやりとりも利益を生む事にも気が付き、様々な事に商取引を介在させ、貨幣制度の有効性を造り出すようになります。そして本来、材料から商品の生産という一連の流れをひとりの職人で全て行っていたことにメスを入れ始めます。このことと科学技術が結び付いたのが産業革命ではないかと思います。また、村落共同体のような一定の自立基盤を持った集団をバラバラの個人に解体し、本来無償であった相互扶助のシステムや冠婚葬祭などの催事を有償の商取引にも組み込んでいく流れを造り出していきます。
そうして拡大した貨幣を媒介とした市場を造り出し、その貨幣の発行権をみんなに認めさせる。そのことが現在の金貸したちに大きな力を与えた源泉となったのだと思います。

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