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【幕末維新の代理人】代理人認定#10 岩崎弥太郎 第4回 戦争を利用して船事業を制覇した三菱

 幕末明治の混乱期に生まれ、急成長し、巨大な資本を手にしながら、その後、戦争がある度に大儲けし、日本有数の財閥へと三菱は成長を遂げました。現在、実は防衛庁予算の1/3を引き受ける日本最大の軍事産業グループにまでなっています。
 前回は三菱が官と癒着し、上級藩士と協力して、藩(公)から民(私)へと資産を移動させ、国(幕府)や地方(藩)の資産を、自分達で使えるようにし、その巨額資産が三菱の礎となったことを解説しました。今回は、政府と三菱の、癒着の歴史を、なかでも「船事業と戦争」に焦点をあてて追いかけます。
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画像は三菱グループのホームページ [1]からお借りしました。
前回までの記事
【幕末維新の代理人】代理人認定#7 岩崎弥太郎 金貸しの間接統治者 三菱を創った男 [2]
【幕末維新の代理人】代理人認定#8 岩崎弥太郎 三菱の礎 いろは丸沈没事件の謎 [3]
【幕末維新の代理人】代理人認定#9 岩崎弥太郎 第3回 国賊への道を歩み始めた三菱 [4] 


【三菱財閥は土佐藩所有の船三隻を買い受けた時から始まる】 
 慶応4(1868)年9月8日に年号が明治と改元され10月13日に東京遷都が公布されて、長崎土佐商会は閉館と決定しました。土佐大阪商会の支配人となった弥太郎は、土佐藩の財政を一手に握って権勢を振るいました。土佐藩の財政が外国商人からの借金で補われていて、外国商人と交渉できる人物は、弥太郎以外に誰もいなかったからこの地位を手にいれることができました。土佐大阪商会は土佐開成社へと脱皮し、次に土佐の九十九湾に因んで九十九商会になりました。
 土佐藩は坂本龍馬が近江屋井口新助邸で暗殺されたことで解散した海援隊の後身として、大阪市西区堀江の土佐藩蔵屋敷(現在の土佐稲荷神社付近)で始めた九十九商会の監督を岩崎弥太郎(三菱の創業主)に1870年に任じました。さらに翌年の廃藩置県後、九十九商会は個人事業となりました。弥太郎は県から土佐藩所有の船三隻を買い受け、1873年に三菱商会と改称し、海運と商事を中心に事業を展開しました。これが三菱の始まりです。
 この船を使ってさらに台湾出兵(1874年)、西南戦争(1877年)のときには、さらなる巨万の富を掌中にしていきます。その発展を今回は紹介します。
【台湾出兵と三菱:13隻の大型船を政府から委託運航】 〜三菱グループのホームページ [5]から紹介します。
政府は台湾出兵時に、計10隻の外国船を購入しその運航を三菱に委託し、更に3隻の大型船が委託され、13隻の大型船を運航することになりました。

 三菱の台湾出兵協力決断を諒とした政府は、計10隻の外国船を購入しその運航を三菱に委託した。三菱は、兵員・武器・食糧等の輸送に全力を投入した。
 台湾出兵はマラリアによる500名余の死者を出しながらも政府の思惑通りに展開した。北京に派遣された大久保利通(としみち)は強気で交渉にあたり、10 月英国公使の調停によって、出兵は義挙(ぎきょ)であり清は50万元の賠償金を払うということなどをうたった条約が締結された。
 その後、三菱には更に3隻の大型船が委託された。13隻の大型船を運航することになった三菱は大きく力をつけて沿岸航路の競争に復帰した。経営判断を誤った日本国郵便蒸汽船会社はもはや三菱の競争相手たりえず、翌8年6月には解散に追い込まれた。純粋に民間企業である三菱が、東京進出1年にして海運界のトップに伸し上がった。

【三菱が東京進出1年にして海運界のトップに伸し上がった裏事情】「日本人が知らない恐るべき真実」 [6]から紹介します。

 三菱の汽船事業は当初赤字続き。そこで料金を半額に下げて、夏は団扇と氷水をサ−ビスした。すると三井は料金を3分の1に下げてきた。三菱と三井の苛烈なダンピング競争が始まった。ダンピングに堪えられなくなった中小の船会社はバタバタ倒れていって、残るは三菱のみとなった。
 しかしこの時、不思議なことが起こった。政府の公金を扱っていた三井と小野、島田に対して、政府は、預り金と同額の担保を入れよと命じたため、小野と島田が倒産してしまったのだ。そこで政府はこれまでに放漫に出していた政府資金の回収に取りかかった。そのため日本郵便蒸気船会社は借入金40万円の返済を命じられてよろめきだしたのだ。いったい何が起こったというのだろうか。陰謀に通じている諸君は、もうお分かりだろう。この三井と三菱のダンピング競争は、出来レースだったのである。つまり三菱と政府・三井の間で予め合意が出来ていたということだ。その目的は、中小の船会社を倒産させて、三井と三菱で航路を独占することにあった。ついでに小野や島田などの富商も倒産させてしまう。政府は三菱を潰すことなど、鼻から考えていなかったのである。
 その後、弥太郎は台湾出兵の時に政府に船を13隻買わせて、漁夫の利を得た。おまけに台湾航路も開設した。三菱汽船の攻勢に劣勢となった日本郵便蒸気船会社は解散させられた。所有船として使えるものと倉庫などは三菱が引き取った。こうして三菱は所属船舶40余隻という日本最大の船会社となった。

【台湾出兵後は解散した日本国郵便蒸汽船会社の船舶18隻が三菱に無償供与】三菱グループのホームページ [7]から紹介します。

 台湾出兵翌年の(1875)年、横浜・上海間に航路を開きました。上海航路は彌太郎の夢の実現の第一歩である。いずれ米国に、欧州に、世界の海に進出します。
 5月、政府は海運政策をまとめた。閣議では、喧々諤々(けんけんがくがく)の議論の末、大久保利通や大隈重信の意見が通った。政府保護下で民族資本の海運会社育成を図る。もちろん台湾出兵に協力した三菱を想定していた。
 9月、政府は「第一命令書」(今でいう特別法)を交付した。有事の際の徴用を条件に三菱にさまざまな助成が与えられることになった。ただし三菱は海運に特化することが義務付けられた。(このため炭坑や鉱山などの事業は「岩崎家の事業」と位置付けられた)。
 具体的助成策の目玉として、解散した日本国郵便蒸汽船会社の船舶18隻が無償供与された。船舶数は一気に倍増する。三菱は政府御用達の意味を込め、社名に「郵便」を入れて「郵便汽船三菱会社」とした。

【西南戦争で三菱商会はこの戦争で政府側の軍隊・軍需品の輸送を一手に引き受けたばかりか、戦争終結の残った軍需品の処分までまかされ、一挙に莫大な利益を得た】ウイキペディア「三菱財閥」 [8]から一部引用
三菱は定期航路の運航を休止し、社船38隻を軍事輸送に注ぎ込みます。

 三菱商会はこの戦争で政府側の軍隊・軍需品の輸送を一手に引き受けたばかりか、戦争終結の残った軍需品の処分までまかされ、一挙に莫大な利益を得ることになりました。政府が西南戦争で支払った戦費は4,150万円といわれていますが、そのうち1,500万円が三菱の儲けになったそうです。しかし、その裏には後藤象二郎を通じてときの最大の権力者大久保利通、大隈重信といった政府要人の後ろ盾があったことは有名です。ちなみに三井財閥は、長州閥の伊藤博文、井上馨、品川弥二郎らに肩入れして三菱に対抗していました。

【三井と三菱の海運戦争、その後日本郵船は実質的には三菱】三菱グループのホームページ [9]から紹介します。

 日本の海運を独占する三菱。三菱に対抗しうる海運会社を設立すべし。渋沢栄一や井上馨が画策、政府の出資を核に、三井など反三菱勢力が結集し、明治15年7月、三井が主導で共同運輸会社が誕生します。共同運輸は営業を開始、またたくまに三菱とのダンピング合戦の泥沼に突入します。三菱は次第に共同に食われ、不採算路線の廃止、経費節減・人員削減と、大幅リストラを迫られます。旅客運賃は20〜30%オフ。団体は現場の判断で臨機応変に割引。貨物に至っては、3割引4割引は当たり前でした。だが、三菱にも共同にも体力の限界がある。バカな戦いをやめさせなければ民族資本の海運会社は共倒れになる。18年4月、政府はハラを決め、共同の海軍出身の社長を更迭。その上で、三菱・共同の首脳会談をセットした。川田小一郎(かわだこいちろう)と井上馨のギリギリの話し合いで両社の合併が決まり、伊藤博文、松方正義ら実力者も諒解した。
 彌之助は「…たとい三菱の旗号は倒れ…実に忍ぶべからざるの事情これあるとも…国の大計に鑑(かんが)み」共同との合併を受け入れることとし、明治18年『日本郵船』が発足した。出資比率は三菱5対共同6。新社長には共同の森岡昌純(もりおかまさずみ)がなった。
 三菱は海運事業部門を手放した。が、共同の株主には多くの三菱関係者が含まれていたので、日本郵船のマジョリティーは実質的には三菱だった。それゆえに、日本郵船は時間の経過とともに三菱色を強め、吉川泰二郎(よしかわたいじろう)や近藤廉平(こんどうれんぺい)ら三菱出身者が社長になった。そして、彌太郎が夢見た日本の船による世界航路を実現したのだった。

【まとめ】 最後に実質三菱になったという背景(理由)が見えないのが不思議です。三菱を推す何かがあったのではないかと推測します。三菱が天皇家を儲けさせていたという説が本当であれば繋がるのですが、実際は不明ですが、日本人は知ってはいけない「天皇家の秘密」 [10]に紹介されています。
 1885年、天皇一族と三菱財閥で日本初の船舶会社、日本郵船が創立されました。明治維新により富国強兵の道を歩み始めた日本は、欧米からあらゆる兵器を購入し続けていましたが、欧米への支払いに当てる資金が日本にはありませんでした。そこで福沢諭吉は、「賤業婦人の海外に出稼ぎするを公然許可すべき」という指示を天皇に与えました。賤業婦人つまり売春婦として日本人女性を海外に「輸出、 売却」し、兵器購入資金を作るというプランであり、天皇一族はこのプランに飛び付き実行したそうです。(福沢諭吉全集 第15巻)
 このようにして三菱は戦争を利用して船事業を制覇しました。官と癒着し、上級藩士と協力して、藩(公)から民(私)へと資産を移動させ、国(幕府)や地方(藩)の資産を、自分達で使えるようにし、その巨額資産が三菱の礎というなったことです。
現在なら、飛行機が国際間の主要な流通装置ですが、競争が働いて価格は安くなっています。しかし明治時代、海運を独占するということは流通を支配するということであり、それを初めから三菱はグラバーなどユダヤ金融資本の手先に助言してもらって予測できていたかもしれませんね。

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