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『日本国債暴落の可能性は?』【12】コラム②:国債暴落したらどうなる?事例に学ぶ

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画像はこちらからおかりしました。(リンク [2]) 
前々回は国債暴落説の紹介、前回は国債暴落しない説の紹介をしました。今回は国債が暴落するとどうなるのか?さらに、国民の生活はどうなってしまうのか?を過去の事例に学び整理しました。
【1】プロローグ [3]
【2】国債って何?:基礎知識の整理① [4]
【3】国債発行と流通の仕組み:基礎知識の整理② [5]
【4】国債発行の歴史と直近の発行残高(国の借金1000兆の実態) [6]
【5】国債って誰が持ってる?(保有者の実態) [7]
【6】コラム①:格付け会社って何? [8]
【7】国債市場の動き? [9]
【8】日銀の金融政策って何?:基礎知識の整理③ [10]
【9】日銀の金融政策の変化 [11]
【10】国債暴落説の紹介 [12]
【11】国債暴落しない説の紹介 [13]


 
■国債暴落後の国民生活の実態
国債が暴落すると国民の生活がどうなるのか?過去のるいネットブログから抜粋し、日本の戦後、アルゼンチン、ロシアの各国を事例に挙げて紹介したいと思います。
 
過去のるいネットブログ
【1】『経済が破綻したらどうなる?』〜戦後日本のハイパーインフレ時はどうだったの?〜 [14]
【2】『経済が破綻したらどうなる?』〜預金封鎖と新円切替:金融緊急措置の失敗〜 [15]
【3】『経済が破綻したらどうなる?』 〜アルゼンチンの国家破産〜 [16]
【4】『経済が破綻したらどうなる?』 〜ロシア経済破綻〜 [17]
※上記の記事から要点を整理しました。
 
 
■戦後の日本
 
●戦後のハイパーインフレ(詳しくはリンク参照 [14])

>1945年8月15日の終戦によって、戦時国債の発行や物価統制によって抑えられていたインフレが爆発した。戦争が終わった後の後始末や、復興のためにお金はいくらあっても足りなかった。戦費のために発行された戦時国債の償還、軍需物資に対する支払い、進駐軍による円の大量印刷、戦後復興させるための資金供給、これらに対して、日銀は日本銀行券を刷って刷って刷りまくって対応した。その結果、カネにみあったモノが不足する状態となりインフレが発生した。

 
●1946年の金融緊急措置の失敗(詳しくはリンク参照 [15])

>1946年(昭和21年)2月16日(土)、「金融緊急措置令」がラジオで発表され、週明けの月曜日から実施された。
これは預金封鎖と新円切替を同時に行うことにより、流通している日本銀行券の量を減らして、急激なインフレにストップをかけようとした
                ↓
また、GDPの3倍に達した借金を返済するために国民の財産を国に移す目的もあった。
                ↓
金融緊急措置の内容は、あらゆる預金を封鎖する。流通している旧円を一定金額に限り新円に切り替える。それ以外は金融機関に全て強制的に預金させ、一定金額(世帯主:1ヶ月300円、家族1人に1ヶ月100円)だけしか新円による引き出しを認めない。3月2日までに交換しないと旧円は無効となるため、金融機関に行列ができた。10万円を超える資産に対して25%から90%の財産税をかけられた。旧紙幣に証紙を貼り付けて10月まで代用させるなどの措置が取られた。

 
●国民の生活はどうなったか?
>ハイパーインフレの状況下、物価統制、配給制で、都市部の国民はほとんど食料を手に入れることができませんでした。都市部の国民は公定価格の数倍にもなる闇市の闇値で、食料や生活必需品を手に入れていました。
 
 
○アルゼンチンの事例(詳しくはリンク参照 [16])
 

>アルゼンチンは20世紀の前半、経済大国の 1つでした。一人当たり国内総生産の額でみると、当時の日本との比較では2倍以上の高い水準でした。
そのアルゼンチンですが、第二次石油ショック時にインフレを許容する金融政策を採用し、1989年には500%のハイパーインフレと累積債務問題を経験しました。その反省から1990年代には、民営化と規制緩和による経済改革を積極的に推進しました。
 
・1991年
インフレ克服のため、1ドル=1ペソのドルペッグ制を導入。このため海外からの投資によってペソは上昇、国民は安くなった外国製品を買い求めました。しかし経済は上向いたもののペソが過大評価のまま固定されたため輸出がみるみる低下しました。
 
・1999年
ブラジルの経済危機によってブラジルは変動相場制となり通貨切り下げを実施しました。当時、アルゼンチンの輸出の約30%はブラジルへのものだったので、ブラジルの通貨切り下げによってペソ高となりアルゼンチンにも大打撃となり、経済は急速に悪化しました。
 
・2001年
12月、預金を封鎖し1320億ドルの対外債務のモラトリアムを宣言し(モラトリアム:手形の決済、預金の払い戻しなどを一時的に猶予する事)為替市場を再開しました。IMFは融資の条件として、緊縮財政や公務員の給与引き下げ、公共料金などの引き上げを要求、更に銀行預金の引き出しを制限しました。この結果、日本でもアルゼンチン政府が発行したサムライ債(円建て外債)の支払いがなされず、4月にデフォルト(債務不履行)となりました。アルゼンチンの事実上の財政破綻となりました。
 
・2003年
3月、1ドル=3ペソを突破。凍結されていたドル建て預金は引き出し制限解除されました。しかし実勢相場は1ドル=3ペソに対し、1ドル=2ペソで払い戻し、差額分は長期国債で補填と政府が発表し国民の不満が爆発しました。社会秩序も崩壊し、略奪、暴動も起きる事態となりました。

 
このように、破綻の原因はアルゼンチン通貨の海外からの信用が著しく低下し、アルゼンチンの国債が暴落したことが引き金となったと考えられる。
 
●国民の生活はどうなったか?

①ハイパーインフレ
通貨安による輸入品の高騰によりインフレが進行し、経済の混乱で多くの労働者の給料は下がり、物価は上がっていったのできわめて苦しい生活を強いられたそうです。
2002年にはなんと失業率が21.5%に達し、食料品や物資が不足し、特に医薬品の不足のため、手術にも影響が出たそうです。
②国民の海外流出
早朝から移民許可証を求めて領事館前に並ぶアルゼンチン市民が多かったそうです。
特にスペイン、イタリア、イスラエルに出国する人が増えました。
③治安悪化
社会秩序が崩壊し、略奪、デモ、暴動が起きる事態となり、強盗事件や殺人事件が増加した。そして、郊外の家は強盗に遭うリスクが高かったそうです。政府は治安の混乱を収拾できず、短命政権が続きました。
④通貨
2001年の夏頃から本来の通貨であるペソに似た独自の債券が流通し、子供銀行の紙幣のような小さく印刷された債券で、瞬く間にアルゼンチン国内に広まりました。
また、物々交換のマーケットが開かれたり、クレジットと呼ばれる物の価値を図る単位が使われたりしました。

 
 
■ロシア(詳しくはリンク参照 [17])
・1991年のソビエト連邦共和国崩壊による経済の混乱
 
●財政破綻によって起こったこと

①ハイパーインフレ
消費者物価のインフレ率推移(対前年比)(外務省ホームページより)
1992年:26.1倍
1993年:9.4倍
1994年:3.2倍
1996年:21.8%
1997年:11.0%
1998年:84.4%
1999年:36.5%
2000年:20.2%
※1995年データ無し
1992年1月の価格自由化の結果としてのハイパーインフレは1995年まで継続。一旦は鎮静化したが、1998年の金融危機後に再び増加。しかし、2000年以降は落着いている。
②デノミ実施
1998年1月通貨単位を1000分の1に切り下げるデノミを行い、1ドル6.2ルーブル(旧6200ルーブル)の上下15%幅を3年間維持することを決定した。
③海外からの支援
1998年7月にIMF、世界銀行、日本政府から総額226億ドルの緊急支援を取り付け、自国通貨ルーブルの防衛を行った。しかし、短期国債の償還期限が次々に訪れ、利払いが税収を上回り、制御不能状態に陥った。資本の流出も続き、国債価格は大幅な下落を続け、1998年8月14日には、利回りは170%にまで暴騰した。株価の暴落も続いた。
④デフォルト宣言
1998年8月17日 ロシア政府と中央銀行が以下の3点を実施
・ルーブルの切り下げ(従来は1ドル6.2ルーブルの上下15%幅だった変動幅を6〜9.5ルーブルへ拡大)
・1998年8月19日から1999年12月31日に償還期限が来る短期国債の長期国債への強制乗り換え
・8月17日から90日間の対外債務の支払停止発表(事実上のデフォルト宣言)
⑤預金封鎖
デフォルト宣言後、国内銀行が営業停止となり預金封鎖が行われ、資産はすべて国に没収された。銀行の貸金庫にあった資産もすべて国に没収された。(外資系銀行のモスクワ支店は大丈夫だった)

 
 
●国民の生活はどうなったか?

①治安
急激に治安が悪化し、強盗、窃盗、殺人などの犯罪は1990年代に入り急増した。郊外の一戸建ては危険で住めなかった為、アパート形式の住居に住む人が増加した。
②人口
ロシアではソ連崩壊直後の1992年の1億4870万人をピークに減少を始め、相当数の移民があったにもかかわらず減少は続き、2009年現在で1億4190万人となっている。
③死亡率・出生率
ソ連時代は無料であった医療体制も市場経済への移行で混乱し、将来を絶望した年金生活者などの自殺者も増加し、死亡率は急上昇する一方で出生率の低下が起きた。
④健康・平均寿命
ソ連崩壊直後の激しい社会変化に付いて行くことが出来ず、強い心理的なストレスからロシアの国民酒ウォッカをあおり、アルコール中毒や循環器系の病気になる人が増えた。男性の平均寿命は1993年に60歳を割り込み、1994年には57.6歳となった。その後も一時的に60歳代に回復した時期もあったものの、すぐに60歳を割り込み、2006年まで60歳を割り込み続けた。
⑤食料
多くのロシア人はダーチャで野菜などを育て、飢えをしのぐのに役立てた。※ダーチャ:多くの国民が所有している別荘、ソ連時代に国から土地を貸与されたのが始まりであるため、広く普及していた。

 
■ロシア復活への試みに学ぶ
プーチン氏は、欧米の外資系の金融資本がロシアの資源開発などのプロジェクトに入ることを禁止する法案を出し、ロシアに外資が入ってこれ以上搾取が行われないように予防線を張りました
また、カーライルグループ役員(石油メジャー)のホドルコフスキー氏の経営していた、ロシアの石油大手企業のユコスに脱税容疑をかけ、ユコスを破産に追い込みましたし、機軸通貨のドルだけでなく、ユーロにも連動させることでドル安のリスクをヘッジしたりもしました
その上、国の財政を黒字化し、対外債務を返済して国債の格付けを上げたり、多方面にわたる経済の改革法案なども立ち上げました。
しかもロシアは、通貨の切り下げを行ったことで国際競争力が戻り、国内産業も復活の兆しとなった
 
●食糧をはじめとする物資の分配が秩序維持のカギ

ロシアが危機を乗り越えられたのは、もともと共産国だったこともあり物資の分配体制が構築されていたことに加え、全世帯の4割が小さな畑付のコテージ(ダーチャ)を所有し、そこで野菜を作ったり家畜を飼ったりする自給生活の基盤が整っていたからです。

 
■まとめ
 
●国債暴落後の一連の流れ
国債が暴落したり、国の借金が返せなくなってデフォルトを起こすと、金融の信用がなくなり、貨幣の価値が暴落する。貨幣の価値が下がる前に換えておこうと、国民による預金の引き出しが発生する。国家は対応に追われるため、預金封鎖や引き出し額の制限対策をとる。
そして、経済混乱が起こり、失業率の増大、治安が悪化する傾向が共通点として挙げられる。
 
●日本国債が暴落するとどうなるのか?
日本のバブル崩壊、アジア危機、リーマンショックなど、歴史上、株価や為替レートの暴落が繰り返されているのと同様に、国債の暴落リスクについても否定できません。歴史的にみても、海外と比較してみても、日本の国債市場もいつか大幅に下落する時が来ることも考えることが出来ます。
その状況下において、日本人はどのような対策を取るのか?ロシアの分配体制やダーチャでの生活事例のように、日本でも共同体形成や縄文体質という背景から、国債が暴落してもアルゼンチンなどのように大混乱はしないのではないか?
更に追求していきたいと思います。
 
次回はギリシャ、ユーロ危機にみる金貸しの手口?について紹介します。
お楽しみに・・・

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