世界を操る支配者たち(4)〜欧州貴族ハプスブルグ家
これまでこのシリーズでは「世界を操る支配者たち」を紹介してきました。
第1回〜ロスチャイルド家
第3回〜イギリス大英帝国繁栄の歴史
そして今回は、ハプスブルグ家です。
ハプスブルグ家とは、現在のスイス領内に発祥したドイツ系貴族の家系。大雑把に見て実に7世紀に及び覇権を握り続けた、他に類を見ない王家です。古代ラテン人の有力貴族であるユリウス一門(カエサル家)の末裔を自称(捏造?)しています。
ウィーン、プラハ、ブタペストといったヨーロッパ文化を象徴するような都市が形成されたのは、ハプスブルグ家の力が大きいと言われています。その中で最も有名人といえば、フランス国王ルイ16世と結婚したマリー・アントワネットではないでしょうか?無類の浪費家と言われ、フランス革命では、旧体制の象徴として処刑されました。このマリー・アントワネットはオーストリア系ハプスブルグ家の出身なのです。
ハプスブルグ家の歴史を語る上で、神聖ローマ帝国は外せません。
神聖ローマ帝国とは、962年に東フランク王国のオットー1世がローマ教皇から「ローマ皇帝」の冠をもらった事に始まり、1806年まで西ヨーロッパに存在した連邦国家です。現在のドイツ、オーストリア、スイス、チェコ、イタリア北部に位置していました。
この帝国の特徴は、数多くの諸公国(バイエルン、ザクセン等)、地方伯領、辺境伯領(ブンデンブルグ等)、さらにはボヘミア王国、イタリア王国等の大小様々な国家から成立していることで、中央集権国家ではなくさらに皇帝の地位は世襲制でもありませんでした。そのため13世紀初頭に有力な神聖ローマ帝国皇帝がいない、大空位時代が発生すると、選帝候と呼ばれる人々が皇帝を選ぶことが慣例化されます。
強大な力を持つようになった選帝候達は、本音では自分の上に立つことになる皇帝を選びたくなかったため、大空位時代が40年に渡ることとなります。
しかしそれでは神聖ローマ帝国という枠組みがなくなってしまうので、1273年、選帝候から見て「害はない、扱いやすい」として、ハプスブルグ家のルドルフ1世が皇帝に選ばれたのです。( 元々ハプスブルグ家は、スイス北東部(バーゼル近郊)の国境付近を領有する田舎の一領主にすぎませんでした。)
ところが予想に反して、ルドルフ1世は強大な力を活用するのです。例えば、自分の皇帝即位に異を唱えたオタカル2世を「皇帝に逆らう反逆者」としてマルヒフェルトの戦いで破り、その領土であるオーストリアを獲得したのです。以来、ハプスブルグ家は、オーストリアに根を下ろすことになります。
しかしそのためしばらくハプスブルグ家からは皇帝が選ばれませんでした。代わってルクセンブルグ家が皇位を手に入れたのです。(ここではルクセンブルグ家については省略します。)
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ハプスブルグ家が再度皇位に返り咲いたのは1437年アルブレヒト2世のとき。
次いで1440年に選ばれたフリードリヒ3世は「帝国第一の就寝帽」(ナイトキャップは安眠を誘う道具という意味で、退屈で眠たいという意味?)と評されるほど無能な人物でしたが、忍耐をモットーとする彼は弟やハンガリー王の攻撃にも、時には姿をくらますなど、恥も外聞も捨てて実益をとり、そうこうしているうちにある者はフリードリヒ攻撃をあきらめ、あるいは死去して、いつしかフリードリヒ3世が勝利するという結果を残しました。そして歴代最長の53年の治世となりその長寿と婚姻政策の成功によって結果的にハプスブルグ家発展の道を開くことになったのです。
「 戦は他国にやらせておけ、汝は結婚せよ 」
フリードリッヒ3世の息子のマクシミリアン1世は当時ヨーロッパ文化の中心だったブルゴーニュ公国シャルル突進公の一人娘と粘り強い交渉の末結婚、そしてシャルルの死去と共に公国を相続しました。
これに対してフランスのルイ11世は「仲が悪いとはいえ、ブルゴーニュ公国はうちの王国の血筋だ」と怒り出します。
ブルゴーニュ公国は3代目フィリップ善良公が100年戦争後期にイギリスと手を組み、ヴァロワ朝本家のフランスと覇権をかけて闘ったぐらいです。シャルル突進公は4代目にあたります。
このブルゴーニュ公国は強大で、本家フランス王国としても何とかしたい、という状況だったのに、ハプスブルグ家に取り込まれようとしているのです。ここにフランスVSハプスブルグ家の因縁の戦争が始まります。
ちなみにマクシミリアン1世は優秀な人物でフランス軍との戦争に圧勝しています。この時ブルゴーニュ公国の経済観念、統治機構などを学習し、神聖ローマ帝国の近代化が図られました。
(後に、オーストリア・ハプスブルグ家はフランスとも同盟関係を結ぶために、マリー・アントワネットを、フランス・ブルボン王朝ルイ16世と政略結婚させることになります。)
そしてその息子であるフィリップ美公は、スペイン王国国王イザベル1世の娘であるファナと結婚するのです。当時、スペインはイスラム王朝を滅ぼしイベリア半島をイスラムからカトリックが奪還することに成功していました。
そしてその二人の間にできた息子カール5世(=スペイン国王カルロス1世)が1516年にスペイン国王に即位します。
丁度この頃大航海時代に突入しました。
・コロンブスがアメリカ大陸を発見
・マゼランの世界一周
・コルテスのメキシコ征服
・ピサロのインカ帝国征服
そして征服した国々から金銀を始めとする財宝を奪ってきたのです。それらは全てハプスブルグ家がスペインを統治している間に集められてきたのです。そしてそれらは息子のフィリッペ2世に引き継がれて行きます。(ちなみにマゼランの発見した島はフィリッペ2世にちなんで「フィリピン」と名付けられたそうです。)
スペインがフィリピンや南アフリカを征服し「 日の沈まぬ帝国 」として君臨し、ヨーロッパが世界の冨を支配していく始まりだったのです。(そしてこの頃、地球が丸いということをヨーロッパでは認識するようになったそうです。)
こうしてハプスブルグ家は、スペイン国王を継承する「スペイン系ハプスブルグ家」と神聖ローマ帝国を継承する「オーストリア系ハプスブルグ家」に分かれることになったのです。しかし血筋を継承していくために、両家間で近親結婚を繰り返して行きます。
*ハプスブルグ家家系図
現在でも、ハプスブルグ家最後の皇帝カール1世の子孫は婚姻によりスペイン、ベルギー、ルクセンブルグの君主位継承権を保持しており、それによって将来一族が君主に返り咲く可能性はあります。
第1回で登場した、マイヤー・アムシェル・ロスチャイルド氏の5人の息子たちは、1822年にオーストリア皇帝から爵位を授与されていますが、当時の皇帝は神聖ローマ帝国のハプスブルグ家です。貴族は王の下で戦うのがヨーロッパの伝統ですので、ハプスブルグ家とロスチャイルド家の関係もこれに当てはまるようです。
(ちなみにイギリスの貴族も女王から爵位を与えられ、女王陛下のために闘うのです。「一度貴族に列されれば、彼女(女王)には頭が上がらない。」のです。)
どうやらハプスブルグ家の資産の源泉は、血のネットワークとも言うべき、血縁関係によって富を確保する
政 略 結 婚 シ ス テ ム
なのです。
元々、婚姻形態は社会の基底部に位置するもので、ハプスブルグ家は、その基底部分にウィルスのように侵入し、私婚制度が維持され続ける限り、私婚制度に基づく私権獲得し続けられるように、しっかり寄生し続けていると言えるでしょう。特に財産継承権、その中でも王位継承権をしっかりと握っていたのです。
また婚姻による所領の流出を避けるため、叔父と姪やいとこ同士という血族結婚を数多く重ね、一族外に所領が継承されるのを防ごうとするのもその一環です。
結果、17世紀頃には誕生した子供の多くが障害を持っていたり、幼くして死亡するという事態が起こっています。それでもイングランド王家のように外戚に家を乗っ取られることも、また一族内で争いが起こることも稀だったということは、「婚姻制度の重要性」を一族としてしっかり共認していた、と想定されます。
そして最初に挙げた都市文化を含め、ハプスブルグ家がもたらしたヨーロッパ文化が人々を魅了することで、人々の意識はハプスブルグ家を支えている婚姻制度をもまた高い価値として捉え、結果的に支えていくことになるのです。
さて次回は、諜報活動に長けたタクシス家を取り上げる予定です。お楽しみに♪
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佐藤大統領 | 2023.03.02 18:25
DC銀座、印西。固定資産税が増えて市の経済が潤っているとか。子育て世代増えているとか。不思議なことに暴力反対をしなければ栄える。そう、そちらのように。暴力反対をしなければ富も人も流入する。表向きは暴力反対だろうけど。死体も富も転がっている印西。取手もそうだけど。やっぱりあれだな、無関心で暴力が絶対となると、他人を信用することができるのだなと。かん