2015-01-29
「天皇」という力の正体とは?(3)~西欧化への唯一神として据えられた近代天皇
前回と前々回の記事では、戦前の天皇と宮内省が強大な「財閥」であったことを明らかにした。
ところで、天皇そのものは万世一系の名の通り、明治の遥か以前から何百年にも存在し続けてきた。しかしなぜ、明治維新に当たって、改めて天皇を中心にした権力構造を強力に作り上げる必然性があったのか。
『天皇財閥 皇室による経済支配の構造』に興味深い記述がある。
それは「近代天皇はキリスト教の神である」というものだ。
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プーチンと金貸しとの戦い(3) 歴史的考察② アメリカ南北戦争
引き続き、参考図書として、「世界を操る支配者の正体」(馬渕睦夫著、講談社)より、歴史の紹介部分を引用します。話がロシアから飛びますが、金貸しはアメリカ支配も策謀し、後の米ソ冷戦の対立構造を作って行きます。金貸しのアメリカ支配の原点は、アメリカ南北戦争にまで遡るようです。
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シャルリー・エブド事件の裏にある力学
襲撃事件の舞台になったフランスの動きを見ると、昨年7月、石油取引をドルで決済する必要はないと言い切っていたフランスの大手石油会社、トタルのクリストフ・ド・マルジェリ会長兼CEOは、その3カ月後にモスクワの飛行場で事故のために死亡、12月にはフランソワ・オランド仏大統領がカザフスタンからの帰路、ロシアを突然訪問してプーチン大統領とモスクワの空港ビルで会談、年明け後には西側のロシアに対する「制裁」を辞めるべきだと語っている。仏大統領がモスクワを訪問した頃、アメリカが「偽旗作戦」を計画しているという噂が流れ始めていた。ロシア嫌いで有名なアンゲラ・メルケルが首相を務めるドイツでも、外務大臣や副首相がロシアを不安定化させる政策に反対すると表明している。 《櫻井ジャーナル》 より
プーチンと金貸しとの戦い(2) 歴史的考察① ウィーン会議
プーチンと金貸しとの戦いの背後構造を知るために、歴史的な考察から追求して行きます。ロシアと金貸し(ロスチャイルド)との戦いは、金貸しが国家を支配するようになったナポレオン戦争後のウィーン会議にまで遡るようです。
<ウィーン会議「会議は踊る」>
参考図書として、「世界を操る支配者の正体」(馬渕睦夫著、講談社)より、歴史の紹介部分を引用します。著者の馬渕睦夫氏は、元駐ウクライナ大使で、外務省では、イギリス、インド、ソ連(当時)、イスラエル、ニューヨーク総領事館、EC日本政府代表部などを歴任された方です。豊富な外交経験に裏打ちされた情報は、かなりの信憑性があります。
「天皇」という力の正体とは?(2)~戦前の皇室財産の規模と内容
前回記事で、戦前の天皇および宮内省は、三井や三菱、あるいは当時のロックフェラー家をも凌駕する「財閥」だったという事実を、吉田祐二著『天皇財閥 皇室による経済支配の構造』から紹介した。
では、当時の天皇の財産の「中味」とは、どのようなものだったのか。
引き続き同著から紹介する。
プーチンと金貸しとの戦い(1) 現状分析
目下の世界情勢の注目点は、プーチンと金貸しとの戦いでしょう。ウクライナを巡るプーチンと金貸し(欧米)との戦いは、第3次世界大戦の火種にもなりかねないと言われています。
なぜ、プーチンと金貸しは対立しているのか?その背後構造を探るために、先ずはプーチンと金貸しの戦いの現状から押さえておきます。
「天皇」という力の正体とは?(1)
昨年末の総選挙で再び安倍自民が大勝し、4年の政権延長を実現した。
日本の政権は、戦後ほぼ一貫して、国際金融資本=世界の支配層たる金貸しの思惑によって差配されてきた。中国に接近した田中角栄をはじめ、金貸したちの意向に楯突く政治家たちは、政治的もしくは物理的にも短命を余儀なくされた。
小泉政権以降、ほぼ毎年のように首相の交代が続いた日本にあって、3期目を実現した安倍政権は、現在日本に最も力を及ぼし得る世界支配層から容認されたということだ。
この、安倍政権と日本を働く闇の力学を考える上で、注目される一つの要素がある。それは、「安倍のバックには神社本庁がある」という事実だ。
金貸しの視点から世界情勢を俯瞰する
現在の世界情勢は、米国覇権の衰弱→中露(BRICS)の台頭と、大きくパラダイムが転換してきているが、なぜこのようなパラダイム転換が起こっているのか、金貸しの視点から歴史構造的に考察してみる。
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明治天皇すり替え説:南北朝時代に端を発した、南朝と北朝の対立構造
「明治天皇が、実は摩り替えられていた」と聞くと、今や多くの人が”トンデモ”と思うかも知れませんが、これはかなり信憑性が高い話です。
写真は明治天皇(大室寅之祐)
明治天皇すり替え説とは
孝明天皇の子どもである明治天皇が皇位継承の際、すり替えられたというものです。
天皇家は南北朝時代の動乱の後、代々北朝の流れをくんでおり、南朝は99代の後亀山天皇で絶え歴史上では滅亡したことになっています。
しかし実は、南朝である後醍醐天皇の玄孫の更に孫くらいに当たる人物に大室寅之祐という人物がいて、それを長州藩が育てており、伊藤博文、桂小五郎などが担ぎ上げて天皇のすり替えを行ったというものです。
今回は、南朝と北朝の歴史を追うことで、現在につながる対立構造を解明します。
中国分析 中国とロシアの関係を探る~プーチンとはどんな人物か?~
(画像はコチラより)
■プロローグ
前回まで、中国国内構造、BRICS開発銀行、新シルクロード経済構想、ウクライナ問題と見てきました。ここまで中国分析を続けてきた中で、中国が打ち出す主要な政策に共通して出てくる超大国がありました。それがロシアです。この両国を調べていくと近年急速に関係を深めており、その関係深化は世界的にも注目度が高い現象といえます。そしてその渦中にいる人物が、ロシア連邦大統領ウラジーミル・プーチンです。
ロシアは言わずと知れた資源大国ですが(石油=生産量が世界第2位・埋蔵量が世界第7位、ガス=生産量・埋蔵量共に世界第1位)、ウクライナ問題に端を発して米欧諸国からの厳しい経済制裁を受け続けており、最近ではEU重視→アジア重視へ路線を移行しています。近年の急速な中国との関係深化を考えると、中国側の意向とロシア側の意向(置かれている環境からの挽回)が完全に一致していることが伺えます。中国にとってロシアとの関係を深めることは、国内の経済成長鈍化を阻止するだけでなく、米国一極集中の世界のパワーバランスを崩すために、必要不可欠の政策と言えます。前回記事でも扱いましたが、中国は明らかに世界覇権の奪取を狙っています。そこで目を付けたのが、世界の中で孤立する超大国ロシアなのです。
本記事から2~3記事は、少し中国自体の分析から距離をおき、中国とロシアとの関係を探る上で必要になってくるであろう、ロシア情勢(基礎情報含む)の分析に入っていきます。果たしてロシア(プーチン)は金貸し派なのか?国益派なのか?そこから世界の新たな未来構造が見えてくるかもしれません。
■プーチンとはどんな人物か?
ロシア情勢を分析する上で、現ロシア連邦大統領ウラジーミル・プーチンの分析は必要不可欠です。なぜなら、プーチンの政治家としての経歴のみに留まらず、その生い立ち~青年期~KGB時代の経験と、そこで形成された思想・思考方法まで遡ることで、ロシアの現状~未来の構造を予測できる視点を得られる可能性があるからです。そもそもメディアに頻出する前のプーチンの情報というのは、日本国内ではあまり有名ではなく、取り立ててクローズアップされることもありませんでした。それらの情報を読み解くことで、本記事における仮説を立ててみたいと思います。
本章では先ず、プーチンの生い立ち~青年期~KGB時代~政界進出までの経験と経歴を順を追って見ていきます。
【生い立ち~青年期】
プーチン(本名:ヴラジーミル・ヴラジーミロヴィチ・プーチン)は、1952年に西欧諸国に程近いソビエト連邦・レニングラード市(現ロシア連邦・サンクトペテルブルグ市)で生まれました。少年時代は、学校にいつも遅刻する、喧嘩っ早い性格の「不良(フリガーン)」として有名だったそうです。しかし、10歳頃から始めた柔道の鍛錬とドイツ語サークルでの語学の習得(共に才能があった)により、不良少年から文武共に優れた模範少年に変わっていきます。また、幼い頃より「スパイ」に憧れており、16歳の時には国家保安委員会(以下、KGB)レニングラード本部へ直接赴き、「ここで働きたい」と自ら申し出るほどでした。ここでは門前払いにされたそうですが、どうすればKGBに入れるかを応対した人間から聞き出し、進学先まで決めてしまいます。そして、計画通りレニングラード大学法学部へと進学します。
【KGB時代】
(1989年のKGB本館:画像はコチラより)
大学卒業後、プーチンは計画通りKGBに入省します。KGBと聞くと日本では悪評しか聞きませんが、東西冷戦時代には米国CIAと一、二を争う組織として世界に君臨しており、ソビエトでは「体制の擁護者・正義の味方」として国民に大変支持されていました。彼らは民衆の不満・不安をよく理解しており、また外国語を身につけ自在に世界を横断することで、先進国・途上国を問わず外国の実情を常に把握していました。そのため、資本主義諸国の技術・ビジネスの構造も熟知しており、また国内の科学技術の水準が如何に遅れているかも彼らは知っていました。
入省後、語学・諜報活動などの訓練や研修を経て、33歳になった1985年に東ドイツ・ドレスデンのソ連領事館にKGBのスパイとして派遣されます。ここで1990年まで組織のナンバー2として勤務しています。この間の仕事内容については、文字通り諜報活動であったため非公開とされていますが、当時のドイツは米国CIAとの戦いの最前線の舞台であり、プーチンはここで東西ドイツ統一とソ連崩壊という世界的にも重大な局面に当事者として居合わせることになります。ここでの経験が後の政治活動に大きく影響を与えていることは想像に難くないでしょう。
また東西ドイツを行き来していたという情報もあり、そこで資本主義体制におけるビジネスのノウハウも得ていたのではないかという推察もできます。政権を握ってからもプーチンはドイツとの強いつながりを保っています。具体的にはプーチンを支援しているドイツ銀行とドレスナー銀行とのつながりです。この二つの銀行は、ドイツの三大銀行で、ロスチャイルド系の銀行です。ここから金貸しとの関係も浮かび上がってきます。また、プーチンは政権を握ると多くのKGBや軍出身者を政治家や官僚に登用しています。KGBでの経験と人脈は、確実にプーチンの血となり肉となっていることがわかります。
【政界進出】
(左がサプチャーク、右がプーチン:画像はコチラより)
東ドイツから帰国後、KGB職員の身分のまま母校レニングラード大学の学長補佐となり、この頃に学生時代に教わっていたアナトリー・サプチャークと懇意になります。そして、サプチャークがレニングラード市長に当選するとプーチンはレニングラード市ソビエト議長参事官として登用され、政界進出のきっかけを得ます。1991年のソ連8月クーデターの失敗によりレニングラード市は旧称のサンクトペテルブルグ市に名称を戻します。その後プーチンは市政でその手腕を発揮し、サプチャークによって副市長、第一副市長といった具合に次々と登用され、外国企業誘致を行い外国からの投資の促進に努めます。そこでの陰の実力者として活躍ぶりが話題となり、「灰色の枢機卿」と呼ばれました(ロシアでは陰の実力者に対してこのようなあだ名が付けられることがある)。サプチャークが1996年に市長選に落選・退陣すると、それに伴いプーチンも第一副市長を辞職します(次の市長に慰留を求められたが拒否した)。その後、ロシア大統領府総務局長パーヴェル・ボロジンによる抜擢で、ロシア大統領府総務局次長としてモスクワに異動し、法務とロシアの保有する海外資産の管理を担当しました。ついに中央政界への進出を果たしたのです。
(以下、経歴を列挙)
1997年3月:ロシア大統領府副長官兼監督総局長に就任
1998年5月:ロシア大統領府第一副長官に就任(地方行政を担当し、地方の知事との連絡役を務めた)
1998年7月:ロシア連邦保安庁(FSB:KGBの後身)の長官に就任(この時、ボリス・エリツィン大統領(当時)のマネーロンダリング疑惑を捜査していたユーリ・スクラトフ検事総長を女性スキャンダルで失脚させ、首相だったエフゲニー・プリマコフのエリツィン追い落としクーデターを未然に防ぎ、この功績によりエリツィンの信頼を得る)
1999年8月:第一副首相に任命、同日セルゲイ・ステパーシン首相が解任され、そのまま首相代行に就任
1999年8月:正式に首相に就任(首相代行就任の一週間後)
1999年8月:第二次チェチェン紛争で強硬姿勢を貫き、国民に「強いリーダー」像を強烈に広める
1999年12月:エリツィン大統領が引退宣言(健康上の理由)し、大統領代行に指名される
(右がエリツィン、左がプーチン:画像はコチラより)
上記経歴を見てお気づきだと思いますが、なんとプーチンは中央政界に進出してたったの三年で大統領にまで上り詰めていたのです。社会主義体制が崩壊し、文字通りカオス状態となっていたロシア国家とその水面下で恐らく繰り広げられていたであろう不法不正の実態を、KGB時代に培った洞察力と記録を蓄積する等の諜報機関出身者としての習性(ルーティンワークとでも言うべきか)をもって克明に認識していたのではないでしょうか。正確な情報把握能力と蓄積能力はどんな世界でも重要な能力ではありますが、ましてや陰のある世界では特に重宝されていたのでしょう。だからこそエリツィン政権のブレインであった大物政商ベレゾフスキーや、大統領総務局長のパーヴェル・ボロジン等から目を掛けられ、クレムリン(旧ロシア帝国宮殿:現在でも政治の中枢機関が置かれている)に招聘されたのではないかと推察されます。ただ、こんなにも早く国家のトップに上り詰めるとは誰が予測することができたでしょう?この間のプーチンに対する周りからの評価は「大人しく、物静かで、有能な人物」程度だったそうです。
能ある鷹は爪を隠すとは、まさにプーチンのことを指すのではないでしょうか。
(続く)