2012-05-06

近代市場の成立過程(4)〜メディチ家はなぜ栄えたか?


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メディチの出自は謎—。
薬屋だったという説もあるが、確証なし。最も古い記録が、後年、メディチ一族のフィリーニョが著した「備忘録」による、1169年フィレンツェ中心部で両替商をしていたということ。土地基盤をフィレンツェ北方のムジェッロに有していたというのは事実のようだが、13世紀まではメディチ一族のフィレンツェにおけるその経済力は未だニ流。代々の家業である銀行業(高利貸業)によって経済的力量と財産基盤を拡大していくのは、14世紀に入ってから。
14世紀後半から15世紀のメディチ黄金時代を築いた人物として、ジョヴァンニ、コジモ親子に注目していきます。
参考図書:藤沢道郎「メディチ家はなぜ栄えたか」
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■政・財・学の基盤を築いたジョヴァンニ・デ・メディチ(1360〜1429)

政治のことはとくにわかりません、私は苦手です、商売に専念したいけれど、でも(プレオーレに)選ばれた以上は市民の義務ですから一生懸命にがんばります、などといい、 他人にもほんとにこの人は政治がだめなんだと思わせて、高度の政治技術を駆使することができるのは、かなり複雑な人格だといわなければならない。そしてジョヴァンニはそれができる人だったのである。
巨額の金をジョヴァンニがどうして儲けたのか。商売の天才だったから、といってしまえばそれまでだが、ローマ支店の収益が本店や他の支店に比べて格段に多いことに注意する必要がある。なぜローマでそんなぼろ儲けができたかを調べていくと、一人の怪人物が浮かび上がる。バルダッサーレ・コッサ、ナポリの貴族。
1402年枢機卿となったコッサは、うまく取り入り教皇の信任を得て、二年後には教皇代理としてボローニャの司教を任された。ジョヴァンニは影のごとく彼に付き添い、必要な金を彼のために用立てた。そしてこの時期に、メディチ銀行は教皇庁財政に深くかかわり、「教皇庁のメインバンク」として得られる収益が、メディチ家を経済大国フィレンツェ第三位の富豪に押し上げたのである。
さらに、生涯を通じてメディチ家発祥の地であるムジェッロに、広大な土地を長年かけて購入していたことも注目に値する。彼はただ都市部の上流階級との人脈を作ればよいと思っていたわけではない。市内の労働者や市民のほかに、周辺農村にも支持基盤を着々と築いていたのだ。
また、ジョヴァンニは「名門」の条件を手にいれるために、嫁とり、息子の教育にも力を入れ、特に跡継ぎのコジモには英才教育を施した。性急に銀行実務を教えこもうとはせず、当代一流の学者を呼び寄せ、学問芸術の雰囲気に親しませた。 フィレンツェ共和国の官僚組織はトップに高名な ウマニスタ(人文学・古典学を修めた知識人)を据えるのがならいで、彼らから得られる情報は、ただ学問的なものばかりではなかったはずだ。

政治の表舞台には決して出ず、しかし着々と厚い人脈を作り上げ、将来のメディチ党の基礎を築いたジョヴァンニは、現代の金貸しの姿そのものです。さらに後年、「理想のパトロネージ」と呼ばれるその子コジモですが、当時の知的状況 ≒世論形成の動向を押さえておきます。
■15世紀初頭の知的状況

大学を中心とする中世盛期とは様変わり、 中世の大学は神学と法律学が中心なので、新しく湧き起こってきた「ウマネジモ」(英語でヒューマニズム、日本語では人文主義)の思潮を包容しきれず、時代の要求に応えられなくなっていく。社会を知的にリードできなくなった大学は、いくら権威を振りかざしてもどんどん質が下がっていくし、大学という組織の同業組合的な性格を考えると、いったんレベルが下がりはじめれば、これに歯止めをかけるのは容易ではない。
パリ大学もボローニャ大学もかつての精彩を失うと、それにかわって知の第一線に躍り出て、 「世論」形成に一役買うのが、ウマニスタと称する自由職業の知識人である。彼らは家庭教師をしたり私塾を開いたり、君主や貴族の秘書役を務めたり、あるいはフィレンツェの場合のように官途についたりして生計を立てながら、言論思想活動を展開し、その時代の知の最先端にあると自負していた。活版印刷が普及する前であり、 彼らが書物を集めるには大変な労力と資金が必要だ。
従来、そうしたパトロンの役割を演じてきたのはカトリックだったが、ウマニエスタたちは多かれ少なかれ世俗的かつ革新的で、教会公認の神学と思想的に整合しない。巨大な財力を持つ商人が、彼らの思想に共感と理解を示し、資金を出してくれて、金は出すが口は出さないというパトロネージの理想を実現してくれれば、いうことはないのだ。コジモ・デ・メディチはその理想を体現するように育っていったのである。
こうして メディチ家に出入りする学者・知識人が質量ともに増加し、それがメディチ家を擁護する世論の形成に重要な役割を演ずることになる。コジモの趣味は実益を兼ねた。

ジョヴァンニが、密かに、だが、着々と整えた政・財・学の基盤を、息子コジモはさらに大胆な戦略で雄飛させていきます。しかも、その権力は、コムーネ的共和体制という点では、これまでと何ら変わりないのだと、一般に信じさせたままで。コジモはそれに成功し、いつの間にかフィレンツェの実質上の「王」となっていきます。そんなことがどうして可能だったのか。
その問題に入る前に、彼の銀行事業がどんなものであったか、どのような発展をしたかを見ておきます。
■メディチ銀行の発展

1.カトリックの教義との関係
中世のカトリック教会では、金を貸して利息をとることは悪徳であった。「元金を超えて返済させる行為はすべてウズーラ(高利貸)であり、罪悪である」と教会法に明記されていた。だから中世後期のイタリアの銀行業者にとってこの問題は頭痛のタネであり、非難を逃れるためだけではなく、自分の霊魂の救済のためにも どのように銀行事業を正当化するのかに心を砕いた。そこで登場したのが「両替業」という名目。利息ではなく両替手数料であるという言い訳を立てた。だから、実態は銀行業でも、看板はあくまでも両替業である。
2.貿易との関係
この時期の大銀行は例外なく貿易商社を兼ねていたし、融資から生ずる収入と輸出入から生ずる収入とは、帳簿の上でも明確に区別されていない。銀行、両替商、貿易商の3つの活動は、不可分にして一体だった。メディチ銀行も手広く外国貿易を行っており、特に■書籍とミョウバン(良質の染料をつくるのにかかせない)に力を入れていた。
3.企業形態と組織
メディチ銀行は創業当初からパートナーシップ制をとっており、フィレンツェに本店を置いて発足した1397年以降、社員として雇用するのではなく、資本を分担させて共同経営の責任を負わせ、 報酬を給与としてではなく、あがった収益を資本金負担の割合に比例して分配するというやり方をとった。このシステムをとる背景は、ひとつには、ヨーロッパに広く事業を展開するための交通通信手段の限界により、支店長に一定以上の裁量権を与える必要があること。そのためにはパートナーシップとして、責任性と自主性を発揮させ、報酬は全体の業績が上がればそれに比例して上がるようにしておく方がよい。
もうひとつは政治がらみ。フィレンツェ市民は「自由」を自分たちの誇りとし、独立共和の思想をフィレンツェという都市の「イデオロギー」としてきた。その中で「資格ある市民(=参政権のあるひと)」とは、自主独立の生活を営む人であり、「主人持ち」でないひとびとを指すことになる。したがって 家族だけで運営する慎ましいパン屋の主人には参政権はあるが、それより収入の多いメディチ銀行の従業員には参政権がないことになる。それはメディチ党にとっては損失でしかない。自派の有能な人材に参政権すなわち被選挙権を与えるためにも、パートナー制は有利だったのである。

メディチ家と言えば、一般に豊かな経済力ばかりが注目されがちですが、実体はさにあらず。コジモはしたたかに、巧妙に、周到に政界を先読みし、あらゆる手をぬかりなく打っていきます。


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■独裁権力を確立したコジモ・デ・メディチ(1389〜1464)

1433年、政敵との政争に敗れ、一時はフィレンツェ追放の憂き目にあったコジモだが、他国にあって、周到に死刑は回避され、独裁権力確立の準備を進めていた。1434年秋、フィレンツェに帰還し、権力を奪取。メディチ家のフィレンツェ支配がはじまった。コジモの野望は実現の緒についたのである。
形成逆転して亡命先から帰国したコジモは、民衆の歓呼に迎えられ、メディチ党はフィレンツェ共和国の全権を握った。その新体制がようやく落ち着きを見せ始めた1435年、コジモはメディチ銀行の大改革に着手する。創業時からの盟友であったバルディ家を追放し、家柄もなく小僧から叩き上げのジョヴァンニ・ベンチを本部の総支配人に大抜擢。1435年から1457年の間にメディチ銀行はさらに躍進を続け、当時のヨーロッパでは群を抜いて最大の巨大企業となった。最も収益を上げているのはローマ支店だが、その依存体質を改善し、全収益に対する比率も3分の1に達しないところまで落ち着いている。
また、この間の経営の中で目立つ特徴は、この時期に入って急に政治がらみの投資が多くなるということだ。メディチ銀行の経営戦略とコジモの政治戦略が密接に絡み合うようになった。
例えば、1420年のリストラ対象となって整理縮小されたはずの毛織物会社が、ここへ来て復活し、それどころか新たに絹織物業界にまで進出している。その動機は明らかに政治的なもの、 失業対策事業として発想された。庶民大衆はメディチ党の支持基盤でもあったからだ。
この時代の銀行業はどの店でも10人内外かそれ以下の行員数で営業しているので、雇用対策としては銀行の店舗を増やしても効果はない。なんといっても製造業、それも織物工場に限るのだ。
さらに、メディチ家の私的サークルであるプラトン・アカデミー」「では、ギリシャの神とキリスト教の神を同一視することによって本来異教の思想である新プラトン主義思想とキリスト教との折衷に成功したため、広くヨーロッパに受け入れられていく。キリスト教文化の前駆形態としての古典古代文化という発想がウマニスタたちを魅了し、共和主義イデオロギー(古代ローマ共和政の「自由」の理念)は、ウマネジモの主潮から浮遊することになった。そうなればウマネジモはメディチ「独裁」にとって有益なだけで害はなく、思う存分これを後援することができる。

コジモは経営戦略と政治戦略、そして文化戦略を同時に見据える複眼的思考の持ち主であったといえるでしょう。ヨーロッパの情勢に精通したコジモは、イタリアの半島の動向をも掌中に収めていきます。
■共和主義とメディチ党

コジモとメディチ党が権力を握った1434年当時、フィレンツェの市街は端から端まで歩いても20分程度、人口5万前後。では、それをとりまくイタリアの情勢はどのようなものだったのか。小国乱立も15世紀に入れば戦国時代のサバイバルバーがはっきり見えてくる。
北からいえば、まずミラノ公国、ついでヴェネツィア共和国、半島中部に移ってフィレンツェ共和国、その南一帯の教皇領諸国、そして南部のナポリ王国である。5つのうち、政体も組織も非常に変則的な教皇領を別格とすれば、フィレンツェとヴェネツィアが長い伝統をもつコムーネ型共和制、ミラノとナポリが領邦型の君主制で、イデオロギー的には真っ向から対立するが、どの国も状況が差し迫ってくればイデオロギーより国益が大事なので、半島の覇権を狙って領土拡大に励みつつ、他の強国を自国以上の強国にさせないよう牽制怠りなく、国体如何にかかわらず合従連衡をくりかえしている。
この状況は、コジモとメディチ党がその「独裁」を確立するためには好都合だった。戦時下ということで、いくら共和主義的理念にとらわれた市民の多いフィレンツェでも、平等より団結の方が必要だということを理解しないわけにはいかないからである。
だがコジモがメディチ党のなかで党首として君臨できるのは、ただ財力に恵まれているからではない。メディチ銀行のオーナーとして、諸国支店網からあがってくる情報を自分に集中させ、つねに正確な最新情報を掴んでいることが、大きくものをいっている。そのうえ、銀行事業を通じて各国要人と結んだ個人的な人脈があり、そこからも豊かな情報が得られる。カネとモノとヒトの交流が密になればなるほど、情報もそれにつれて流れ込む。
フィレンツェ共和国の情報収集力はじつにお粗末なものであって、コジモ個人の力には到底及ばない。誰が政治のトップに就こうとも、コジモの意向を聞かずに外交はできない、だから、コジモはたいていの場合、要職に就かず、表面は一介の市民にすぎないが、国の外交は彼が取り仕切ることになる。
メディチ銀行をヨーロッパ最大の銀行に育て上げ、粘り強い外交努力でイタリア半島の戦乱を終わらせ、メディチ党独裁体制の基盤を安定させ、公会議を誘致して文化都市フィレンツェの名を世界に知らしめ、プラトン・アカデミーを設立して思想界の位相を変換させ、さらにフィレンツェ・ルネサンスを強力にバックアップしてイタリア全域に新様式を普及させたとき、コジモの野望はあらかた実現した。

ジョヴァンニとコジモが営々と築いてきたメディチ家の基盤とは、まず財力、そしてメディチ党の権力です。そしてそのメディチ党の権力を支えていたものは、周辺郡部の農民まで含めた労働大衆の支持、支店網から上がってくる精度の高い国際情勢、援助した知的エリートによる世論の主導。ここに、金、権力、共認形成力が三位一体となって大メディチ伝説が確立したのです。
しかし、次代のメディチ家が、家業であったはずの銀行業務に直接携わらなくなり、貴族化を強めていくと、下層の民衆との距離が大きくなり、積極的支持が得にくくなり、そのうえ財力が枯渇してくると、金の力で支持を取り付けることもできなくなります。さらに、予言者サヴォナローラの「キリスト者のモラル」を盾にした、メディチ文化の異教的・快楽主義的傾向への激しい攻撃、つまりウマネジモとルネサンスに対する正面攻撃が追い討ちをかけ、メディチは急激に没落していきます。
いくら目立たないように、という家訓を守ったとしても、たかが人口5万人の都市では目立たない方がおかしい。現代の金貸しように深く長く潜伏するためには、陸・海・空を超えた「グローバル化」を待つ必要があったのかもしれません。
では、次回、メディチ家がその隆盛に大きくかかわったルネサンス芸術を、近代市場に果たした視座からながめていきます。

List    投稿者 urara | 2012-05-06 | Posted in 未分類 | No Comments » 

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