2012-05-20

近代史上の成立過程(6)〜マキアヴェリの思想とその影響

  Niccolo_Machiavelli%27s_portrait.jpg
 
ルネサンスの流れが強まる中で、多くの文芸などが書きあげられてきました。その中でも、芸術、劇、のような要素を持たず、かつ今後の政治に大きく影響を与えた『君主論』もこの時期に完成しました。なぜこの時期に完成したのか。どういった影響があったのか。これを書いたマキアヴェリに注目していきます。
 
いつも応援ありがとうございます。

にほんブログ村 経済ブログへ


 
●マキアヴェリ〜外交を担いながら得た考え〜
 
 ニコロ=マキアヴェリ(1469〜1527)は、前回の記事で登場した、コジモ=ディ=メディチの孫、ロレンツォ=ディ=メディチが20歳で「国家の長」に就任したときに生まれた。その後独裁国家の中心にいたメディチ家が追放され、共和政になったフィレンツェにおいて、書記官・外交官に任命された。フランスやドイツとの戦闘の間に立ち、時には敵地を訪ね、打開案を提示した。金を相手に渡し丸め込むこともあった。というのも、フィレンツェは徴兵制がなく、自国の軍を持っていなかったため傭兵に頼っていた。傭兵の統率力は弱く、とても戦闘慣れしたフランスなどには勝ち目がなかったため、仲裁が必要だったのである。
 
 独裁主義のメディチ家を追放したフィレンツェでは民主派が権力を握り、マキアヴェリも身を粉にして働いた。その成果物として、幾多の報告書が残っている。しかしその後ローマとの大合戦によって共和政が崩壊、フィレンツェにはメディチ家の支配が復活した。
その結果1512年9月にマキアヴェリは解任され、一時は投獄されるなどの不遇の時期を迎えた。この時期に執筆したのが『君主論』であり、フィレンツェの新しい権力者ロレンツォ=ディ=メディチ(コジモ=ディ=メディチの弟の孫。前述のロレンツォとは異なる。)に献呈された。マキアヴェリが元々共和政府にいたこともあり、ロレンツォは表立って彼を復帰させることはなかった。しかし裏では君主論を書かせ、頭脳として彼を起用していたのである。マキアヴェリはその後文筆活動を続け、歴史書や小説、戯曲などを発表した。
 
 マキアヴェリはメディチ政権に取り入ろうとして君主論を献呈した。一方で、メディチ家は君主論にどういったうまみがあったのか。具体的な中身から考えてみる。
 
●君主論〜書き上げた背景〜 
 
 マキアヴェリが1513年頃著し、国家統治者たる君主はいかにあるべきか、を論じたもの。そのころフィレンツェでは「オリチェルラーリの園」という社交クラブがあった。メディチ家の人々、文人が集まっては文学・哲学などを論じた。1512年にメディチ家が政権に復帰すると一段と賑わい、中産階級出のものもグループに加わった。
 能力が認められていたマキアヴェリも1516年にメンバーに加わり、かなり親しい交わりを結んだ。たまたま執筆中だった「君主論」も読んで聞かせたと言う。そのころからすでにマキアヴェリズムは広まっていった。この団体から経済支援を受けながらマキアヴェリは君主論を書き上げた。
publish.jpg
※君主論の原典
 
●君主論概要〜軍事力の必要性を説く〜 
  
 君主論は今までのマキアヴェリの経験から、どの国はどのような政治を行ったか、どういった軍事力を持っていたのかを記載し、そこから君主のあるべき姿を導いていく、という構成になっている。有名な、君主は「ライオンのような勇猛さと狐のような狡猾さ」が必要である、という主張は次のような文脈で出てくる。
 
—————————–
「ところで戦いに勝つには、二種の方策があることを心得なくてはならない。その一つは法律により、他は力による。前者は、人間ほんらいのものであり、後者は獣のものである。だが多くのばあい、前者だけでは不十分であって、後者の力を借りなければならない。したがって君主は、野獣と人間をたくみに使い分けることが肝心である。・・・どちらか一方がかけていても君位を長くは保ちえない、そう教えているわけだ。そこで君主は、野獣の気性を適切に学ぶ必要があるのだが、このばあい、野獣の中でも、狐とライオンに学ぶようにしなければならない。理由は、ライオンは策略の罠から身を守れないからである。罠を見抜くという意味では、狐でなければならないし、狼どものどぎもを抜くという面では、ライオンでなければならない。」そこで、「名君は、信義を守るのが自分にとって不利をまねくとき、あるいは約束したときの動機が、すでになくなったときは、信義を守れるものではないし、守るべきでもない。・・・人間は邪悪なもので、あなたへの約束を忠実に守るものではないから、他人に信義を守る必要はない。・・・・」となる。
 

次のような言葉はまさに現代の政治家の本質を突いている。「国を維持するためには、信義に反したり、慈悲にそむいたり、人間味を失ったり、宗教にそむく行為をも、たびたびやらねばならないことを、あなたは知っておいてほしい。・・・そして前述のとおり、なるべくならばよいことから離れずに、必要にせまられれば、悪に踏みこんでいくことも心得ておかなければいけない。・・・・」

<訳文は池田廉訳『君主論』>
 —————————–
 
 マキアヴェリが、君主のあるべき姿として取り上げたのは、同時代のローマ教皇領を統治した、チェーザレ=ボルジアであった。
Cesareborgia.jpg
※チェーザレ=ボルジアの肖像画
 
 マキアヴェリは、従来の傭兵制や外国軍に依存するのでは、国家の統一と自立は不可能であり、国民軍の創設が必要であることを強調している。これは様々な戦闘の中心に立ち、外交を担った経験から述べている。フィレンツェ、ミラノ、ベネツィア、ローマ教皇領、ナポリ王国などに分裂し、フランス王やスペイン王、神聖ローマ皇帝などに蹂躙されていた16世紀のイタリアの状況に対する、痛烈な反省をこめた提言であった。その言葉は反道徳的なものと受け取られ、長い間危険な書物として禁書扱いされてきたが、政治目的の実現のためには権謀術数も必要であるという現実的な政治論は、マキアヴェリズムとして近代政治論に大きな影響を与えていく。
 
●君主論の影響〜教会観念の弱体化と戦争の正当化〜
 
 大衆には広まらなかったが、裏では金貸したちの間でのバイブルとして広まっていった。何よりも政治を優先したいと考えていたマキアヴェリは、その君主論で、時には宗教にそむく必要もあるとして政教分離を説く。ルネサンスの自然回帰の風潮も相重なり、教会による観念支配の弱体化にさらに拍車がかかった。教会へ金が動いていたのが、徐々にその方向が国へと向き始めたのである。
 いままでは都市国家という小規模の統率の話であったが、これを転機に徐々に世界は国家設立の流れに向かい始める。また、君主論は戦争を正当化した。この後に世の中は戦争の勃発する絶対主義の時代へと動いていく。スペインがレパント海戦をけしかけ、オランダは独立戦争を始めた。
Battle_of_Lepanto_1571.jpg
※レパントの海戦
 
参考:絶対主義
それに対して君主論の出所であるにもかかわらず結局イタリアが自軍を持ち、主体となって動いた戦争というのはこの時代ほとんど見当たらない。この理由は次のように考えられる。
 


 戦争により多くの金が動く。教会に対しての献上金よりもはるかに額も大きく、商人たちも潤うし、金貸しももちろん相当のうまみがある。つまり周りで戦争が起こって、金が動くのが一番の理想形であった。君主論はメディチ家には格好の書物であったのである。軍事力の必要性を訴えたかったマキアヴェリとメディチ家の利害が一致したからこそ書かれた書物だった。マキアヴェリの希望は叶わなかったといえるが。
 
 
 
ここから世の中は侵略活動が激化して大航海時代、政教分離が顕著になり宗教改革へと進んでいくことになります。そのなかでも、次回は大航海時代に着目していきます。

List    投稿者 KUSANO | 2012-05-20 | Posted in 未分類 | No Comments » 

トラックバック

このエントリーのトラックバックURL:
http://www.kanekashi.com/blog/2012/05/1870.html/trackback


Comment



Comment