2018-05-04

「周蔵手記」が暴く日本の極秘事情-4~堀川御所の下部機構だった「ある勢力」~

 

薩摩三傑

【薩摩三傑:(左より)吉井友実・西郷隆盛・大久保利通】

ウラ天皇の系統である堀川御所その参謀であった榎本武揚は箱館戦争ののち、帝国海軍を創設し「大和ワンワールド」再興の基礎をなしたとのこと。

一方、上原勇作はウバイド系測量集団を前身として陸軍を創設したとのこと。このころから海軍と陸軍は仲が悪かった。

 

海外との交易の表の玄関が北九州大宰府。ウラの玄関が薩摩と日向とのこと。堀川御所の実動部隊として玄洋社を設立した。

 

玄洋社とは以下。(wikiより引用)

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

戦前、戦中期にかけて軍部・官僚・財閥、政界に強大な影響力を持ち、日清戦争、日露戦争、第一次世界大戦そして第二次世界大戦と日本の関わってきた数々の戦争において情報収集や裏工作に関係してきた。またアジア主義の下に、中国の孫文や李氏朝鮮の金玉均をはじめ、当時欧米諸国の植民地下にあったイスラム指導者などアジア各国の独立運動家を支援した。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

堀川戦略の中心人物が、維新政府の高官として宮中改革を進めた吉井友実・西郷隆盛・大久保利通の「薩摩三傑」。さらにその司令塔は、宮内卿兼侍従長として常に吉井の上司であった徳大寺実則とのこと。彼は明治天皇の監視役でもあったとのこと。

 

以下、「吉薗周蔵手記」が暴く日本の極秘事項」 落合莞爾著 からの紹介:掲載していきます。

**************************************

■上原勇作を「工作の父」にしたのは國體天皇

 

いよいよ開国が必至となった安政年間(1856~60年)、伏見殿邦家親王に変わって伏見殿の国内業務を担っていたのが、その四男で孝明天皇の義兄の朝彦親王であった。

京都・粟田口の青蓮院境内にあった「ウラの京都学習院」を拠点にした朝彦親王が矢野玄道および三条実萬(偽装薧去)・伊達宗弘(偽装軟禁)と諮って建てた「堀川政略」の骨子は、崩御を装った孝明天皇と皇太子睦仁親王が、堀川通6条の日蓮宗本國寺に隠れて「京都皇統」となり、以後は國體天皇として国際事項(王室外交と王室間金融)に当たることである。

 

伏見殿奉公衆の中でも数理科学に秀でた測量集団が、幕末に小栗忠順により長崎海軍伝習所に集められて幕府海軍に入り、後に榎本武揚に率いられて箱館戦争を戦ったのは、もとより「堀川政略」の筋書き添ったものである。

「堀川政略」にしたがい、堀川御所に入った孝明先帝が、維新後に伏見殿の役割を引継いで國體天皇になると、測量集団は伏見殿奉公衆から「京都皇統」に奉公する國體参謀衆に転じることとなった。

蝦夷共和国を建てた榎本らの徳川海軍が、なすところなく維新政府に降るのも「堀川政略」の筋書きによるもので、國體参謀榎本は、のちに帝国海軍を創建し、「大和ワンワールド」再興の基礎をなしたのであった。

(さらに…)