「周蔵手記」が暴く日本の極秘事情-4~堀川御所の下部機構だった「ある勢力」~
【薩摩三傑:(左より)吉井友実・西郷隆盛・大久保利通】
ウラ天皇の系統である堀川御所その参謀であった榎本武揚は箱館戦争ののち、帝国海軍を創設し「大和ワンワールド」再興の基礎をなしたとのこと。
一方、上原勇作はウバイド系測量集団を前身として陸軍を創設したとのこと。このころから海軍と陸軍は仲が悪かった。
海外との交易の表の玄関が北九州大宰府。ウラの玄関が薩摩と日向とのこと。堀川御所の実動部隊として玄洋社を設立した。
玄洋社とは以下。(wikiより引用)
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戦前、戦中期にかけて軍部・官僚・財閥、政界に強大な影響力を持ち、日清戦争、日露戦争、第一次世界大戦そして第二次世界大戦と日本の関わってきた数々の戦争において情報収集や裏工作に関係してきた。またアジア主義の下に、中国の孫文や李氏朝鮮の金玉均をはじめ、当時欧米諸国の植民地下にあったイスラム指導者などアジア各国の独立運動家を支援した。
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堀川戦略の中心人物が、維新政府の高官として宮中改革を進めた吉井友実・西郷隆盛・大久保利通の「薩摩三傑」。さらにその司令塔は、宮内卿兼侍従長として常に吉井の上司であった徳大寺実則とのこと。彼は明治天皇の監視役でもあったとのこと。
以下、「吉薗周蔵手記」が暴く日本の極秘事項」 落合莞爾著 からの紹介:掲載していきます。
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■上原勇作を「工作の父」にしたのは國體天皇
いよいよ開国が必至となった安政年間(1856~60年)、伏見殿邦家親王に変わって伏見殿の国内業務を担っていたのが、その四男で孝明天皇の義兄の朝彦親王であった。
京都・粟田口の青蓮院境内にあった「ウラの京都学習院」を拠点にした朝彦親王が矢野玄道および三条実萬(偽装薧去)・伊達宗弘(偽装軟禁)と諮って建てた「堀川政略」の骨子は、崩御を装った孝明天皇と皇太子睦仁親王が、堀川通6条の日蓮宗本國寺に隠れて「京都皇統」となり、以後は國體天皇として国際事項(王室外交と王室間金融)に当たることである。
伏見殿奉公衆の中でも数理科学に秀でた測量集団が、幕末に小栗忠順により長崎海軍伝習所に集められて幕府海軍に入り、後に榎本武揚に率いられて箱館戦争を戦ったのは、もとより「堀川政略」の筋書き添ったものである。
「堀川政略」にしたがい、堀川御所に入った孝明先帝が、維新後に伏見殿の役割を引継いで國體天皇になると、測量集団は伏見殿奉公衆から「京都皇統」に奉公する國體参謀衆に転じることとなった。
蝦夷共和国を建てた榎本らの徳川海軍が、なすところなく維新政府に降るのも「堀川政略」の筋書きによるもので、國體参謀榎本は、のちに帝国海軍を創建し、「大和ワンワールド」再興の基礎をなしたのであった。
帝国陸軍の工兵科は、太古に大型墳陵を築造した土師氏集団の頭脳だったウバイド系測量集団の職能を継承した兵科である。その中核を成す陸軍士官学校工兵科に上原が進まされたのは、やがて上原に測量集団を束ねさせる國體天皇の意図で、それを実現した上原が与えられた尊称が「帝国陸軍工兵の父」である。
こうしてみると、周蔵に熊本医専薬事科の無給助手を命じた上原が、同時に土木技師の資格を取るために東亜鉄道学院土木科への入学を命じた理由がよく分かる。天才加藤邑はそれを察して「理はある」と評したのである。
■「堀川奉公衆」として創設された玄洋社
日本古来の大陸外交の基地は北九州で、大宰府を表玄関として中華文明が流入する入口となった。現存の国宝「志賀島金印」は、天明ごろに黒田藩が作らせた贋造品であるが、本物の「親魏倭王印」が中華帝国からもたらされたのもこの地であった。けだし金印と儒教は王道、鉄砲と聖書は覇道の象徴である。
王道外交の北九州に対し、覇道外交を実行した“裏口”は南九州の薩摩と日向であった。ポルトガルから来たヴェネツィア・コスモポリタンの一党が紀州根来衆への鉄砲の売り込みを図り、1542年漂着を装って豊後海岸に渡来し、翌年に種子島での授受を約した。
これに応じて紀州根来寺の塔頭杉ノ坊の津田監物の一党が種子島に来たる。その一人が岩崎氏の女に産ませた子が岩崎氏を名乗り、土佐国に移り地下浪人の株を買って土佐郡井口村に棲む。この津田姓岩崎氏から出た岩崎弥太郎が武器商となって創始したのが三菱財閥である。
元来伏見殿の配下であった黒田藩が、1600年の「関が原の戦い」のあとに大宰府の地に封ぜられたのは、大陸外交の表玄関を守らせるために伏見殿が定めたのである。ところが黒田騒動で藩内は乱れ、黒田如水の子孫が継いできた藩主は六代継高で途絶え、一橋家で、十代斎清はその子だが、実は秋月藩主黒田長舒(母方が黒田系統)の子とする風説もある。
十一代藩主長溥は島津重豪の13男桃次郎で、その後を継いだ12代黒田長知も、伏見殿配下の津藩藤堂家から養子に入った。
このように黒田藩は、とっくの昔に伏見殿配下の政治法人となっていて、伏見殿の指示により、配下の諸藩から代々の養子が入ったのである。
男装の女傑高場乱が福岡藩の薬用人参畑の跡に開いた私塾興志塾に、明治7(1874)年ごろから入塾した頭山満・平岡浩太郎・進藤喜平太・箱田六助らが明治12(1879)年に結成した向陽塾が源流となり、明治14(1881)年に結成されたのが玄洋社である。
玄洋社の財源は福岡県から払下げを受けた炭鉱採掘権であったが、旧藩の潜在的資産を政治資金に転化する強力な政治力は、従来の伏見殿に属していたが、このころから京都皇統に移行したのである。
黒田藩士たちが結成した政治結社玄洋社を株式会社に見立てれば、株主は藩主黒田長知でるが、実質的社主は黒田長溥の庶子杉山茂丸(1864~1935)であった。明治政府の要人となった薩摩ワンワールドの面々に、白面の青年杉山茂丸は平然と接しているが、松方ら要人もまた茂丸に慇懃に対応したのは、茂丸が島津重豪の孫であることを知っていたからである。
実質社主の杉山茂丸が成長するまでの間、玄洋社を運営していたのは旧黒田藩士で、初代の社長に平岡浩太郎が就いた。有名な頭山満は正式には社長に就いていないらしい。
私が、ここまで辿り着けたのは、「周蔵手記」の記載を見て、上原が玄洋社を私兵のように使役していることに注目したからである。同じころ、「さる筋」即ち京都皇統代の舎人からわたしの事務所に、多くの秘史が伝えられていたが、迂闊にもその意味を悟らなかったわたしは、これを放置したことで十年近く回り道をしたのである。
■堀川御所の下部機構だった「ある勢力」
堀川戦略の中心人物が、維新政府の高官として宮中改革を進めた吉井友実・西郷隆盛・大久保利通の「薩摩三傑」であることは確かである。
なかでも自らこれに処したのが吉井友実である。各省の卿を歴任して当然な地位を捨て自ら進んで入った宮内省で官歴のほとんどを局長級(大丞、小丞)で終始し次官(大輔)にさえ就かなかった吉井の姿勢は、「ある勢力」の総長を務めていたために姿勢を屈めていたとみるべきである。
吉井が「ある勢力」の総長だったとしたら、かれと相携えていた人士も「その勢力」と無関係のはずはない。その人士が、宮内卿兼侍従長として常に吉井の上司であった徳大寺実則である。実質的には閑院宮系皇統となった鷹司家から徳大寺に入った実則は、実弟が西園寺公望と住友友純で、二人の弟により政財界の事情に精通していたが、宮内卿兼侍従長として明治天皇に常侍したまま片時も傍らを離れなかったのは、閑院宮から送り込まれた一種の天皇監視役だったからである。
ここまで見てくれば、「ある勢力」が國體天皇の配下であることは自明であろう。ようするに堀川御所の代理人堤哲長と薩摩ワンワールドの代理人ギンヅルのカップルがジョイントとなって堀川御所と薩摩下士連合が結合したのである。
ところが、ここで判らないのが、薩藩下士の海軍大将山本権兵衛と國體勢力(堀川御所)の関係である。
前述したように、熊本高等工業の特例受験していた吉薗周蔵は、大正6(1917)年に西本願寺から佐伯裕三の裏口入学を頼まれたとき、山本権兵衛に頼めばうまく行くと考え、山本に伝手を持つ若松安太郎に頼んでまんまと成功したが、周蔵には、若松が動かないときには祖母ギンヅルを通じて山本権兵衛に頼むという奥の手があった。それほどギンヅルと山本権兵衛は親しかったのである。
15歳から薩摩藩京屋敷に仕えたギンヅルは、慶応4(1868)年の鳥羽伏見の戦いの際に、薩摩屋敷や屯所に詰めていた多くの薩摩藩士の面倒を見たが、ことに嘉永5(1852)年生まれの17歳で年齢制限をかいくぐって従軍した権兵衛は、ギンヅル姉さんに何かと頼るとこが多く、姉のように慕い、一生を通じて親交があった。ギンヅルもまた、のちに帝国海軍で勢力を伸ばし総理大臣となった山本権兵衛に終生何かあれば頼み事をしていたのである。
ところが、ギンヅルを挟んで皮一枚の近い関係にある山本権兵衛と上原勇作の仲は極めて悪かった。これは陸軍と海軍だから水と油なぞと簡単に割り切れるものではない。
ギンヅルとの関係で幼少から山本権兵衛に親しんだ収蔵は、大正3(1914)年に発覚したジーメンス事件(ドイツの軍需企業ジーメンス社による日本海軍高官への贈賄事件)で山本権兵衛内閣を倒壊に追い込んだのが上原勇作であったことを見抜いていた。
昭和初年の薩摩三州会で、たまたま逢った周蔵に、権兵衛は上原を評して「あん男は、まっこと汚なか男じゃから、オマンも、気を付けねばいかん」と警めたが、ギンヅルは周蔵に宛てた書簡で、「権兵衛ドンより上原閣下の方が、ずっと世界を知っておる」と明言しており、上原にしたがうように諭している。
この書簡の意味をわたしは深く考えたことがなかったが、今思うに、山本権兵衛が加わっていたのは國體勢力でも陸軍の上原とは異なる一派で、この抗争がジーメンス事件として顕われたのではないか。
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