2009-02-14

G20の可能性を探る G20な国々⑦トルコ共和国

みなさん、こんにちはー! :o
G20な国々シシリーズですが、今回は「トルコ」です。
トルコと聞くと・・・。ドネルケバブ、アヤソフィア、サッカー・・・とかですかね。 :roll:
実は世界3大料理って、中華料理とフランス料理、そしてなんとトルコ料理が入っているんです!!!?
知らなかったでしょ。みなさんも同じではないでしょうか?
あと、結構親日の国なんですよ・・。
その理由は後で・・・。
それでは、実はあまり知らないトルコ。
行ってみまーす。
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アヤソフィア(イスタンブル)
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Wikipediaより
トルコ共和国(トルコきょうわこく)
国土の大半の部分はアナトリア半島にあたり、国民の約99%がイスラム教(宗派はスンナ派が多数)を信仰するため、日本の地域区分では地理的な位置と、欧州即ちキリスト教というステレオタイプから中東、西アジアに含めることがほとんどであるが、サッカー協会やオリンピック委員会などではヨーロッパの統一団体に属す。経済的、政治的にもヨーロッパの一員として扱われることがあり、現在欧州連合 (EU) へ加盟申請中である。現在欧州でイスラム教徒が人口の過半数を占めている国家はトルコとアルバニアのみである。
トルコの国土の大半を占めるアジア側のアナトリア半島(小アジア)とトルコ最大の都市であるヨーロッパ側のイスタンブルは、古代からヒッタイト・フリュギア・リディア・ビザンツ帝国などさまざまな民族・文明が栄えた地である。

■一般情報
1.面積:780,576平方キロメートル(日本の約2倍)
2.人口:7,206万人(2005年、国家統計庁推定)
3.首都:アンカラ
4.民族:トルコ人(南東部を中心にクルド人、その他アルメニア人、ギリシャ人、ユダヤ人等)
5.言語:トルコ語(公用語)
6.宗教:イスラム教(スンニ派、アレヴィー派)が大部分を占める。その他ギリシャ正教徒、アルメニア正教徒、ユダヤ教徒等。

アジアとヨーロッパの境の国で、EU,アジアの掛け橋のような国ですね〜。
アジアなの?ヨーロッパなの?と考えるとちょうどハザマの地域。
お隣のギリシャは明らかにヨーロッパですが・・・。
東洋と西洋が融合した国という印象ですね。
ではでは次行ってみます。

■経済(特記ない限り、トルコ国家統計庁発表の2007年度数値による)
1.産業割合(2002年):サービス業(63%)、工業(25%)、農業(12%)
2.GDP:6,587億ドル
3.1人当たりGDP:9,333ドル
4.経済成長率:4.5%
5.物価上昇率:8.4%
6.失業率:9.9%
7.総貿易額:(1)輸出 1,072.1億ドル (2)輸入 1,700.6億ドル
8.主要貿易品目:(1)輸出 自動車(14.8%)、機械類(8.2%)、鉄鋼(7.8%) (2)輸入 石油・天然ガス(19.9%)、機械類(13.3%)、鉄鋼(9.5%)
9.主要貿易相手国:(1)輸入 独(11.2%)、英(8.0%)、伊(7.0%)…日本(0.2%、第67位)、 (2)輸出 露(13.8%)、独(10.3%)、中(7.8%)…日本(2.2%、第13位)
10.通貨:新トルコ・リラ(2005年1月1日 旧100万リラ→新1リラへ呼称単位変更)
11.為替レート:1新トルコ・リラ=約90円 (2008年8月)
12.経済概況:(1)マクロ経済はやや減速傾向。近年の2度に亘る金融危機(2000年11月及び2002年2月)後、IMF等の国際金融機関の支援を得つつ、財政赤字削減を中心した経済構造改革を推進中。
       (2)先進国と比較すると、物価上昇率や長短金利は低下しているとは言え依然として高水準にあり、多額の経常収支赤字、大規模な債務残高、大きな改善の見られない失業率などの問題が存在しており、経済面で克服すべき課題は多い。
(3)中央アジアから欧州へのエネルギー輸送の要衝としても注目を集めている。

うーーーん。
経済はかんばしくないようです。

■歴史
11世紀に、トルコ系のイスラム王朝、セルジューク朝の一派がアナトリアに立てたルーム・セルジューク朝の支配下で、ムスリム(イスラム教徒)のトルコ人が流入するようになり、土着の諸民族とが対立・混交しつつ次第に定着していった。彼らが打ち立てた群小トルコ系君侯国のひとつから発展したオスマン朝は、15世紀にビザンツ帝国を滅ぼしてイスタンブルを都とし、東はアゼルバイジャンから西はモロッコまで、北はウクライナから南はイエメンまで支配する大帝国を打ち立てる。
19世紀になると、衰退を示し始めたオスマン帝国の各地では、ナショナリズムが勃興して諸民族が次々と独立してゆき、帝国は第一次世界大戦の敗北により完全に解体された。しかしこのとき、戦勝国の占領を嫌ったトルコ人たちはアンカラに抵抗政権を樹立したムスタファ・ケマル(アタテュルク)のもとに結集して戦い、現在のトルコ共和国の領土を勝ち取った。
1923年、アンカラ政権は共和制を宣言。翌1924年にオスマン王家のカリフをイスタンブルから追放して、西洋化による近代化を目指すイスラム世界初の世俗主義国家トルコ共和国を建国した。第二次世界大戦後、ソ連に南接するトルコは、反共の防波堤として西側世界に迎えられ、NATO、OECDに加盟する。国父アタテュルク以来、トルコはイスラムの復活を望む人々などの国内の反体制的な勢力を強権的に政治から排除しつつ、西洋化を邁進してきた(ヨーロッパ評議会への加盟、死刑制度の廃止など)が、その最終目標であるEUへの加盟にはクルド問題やキプロス問題、アルメニア人虐殺問題、ヨーロッパ諸国の反トルコ・イスラム感情などが大きな障害となっている。

オスマントルコ帝国という大帝国が出来、第一次世界大戦によって解体(分散)され、イスラム教ではありながらEUへの加盟を目指し、西洋化しているという世界でもあまりない歴史があるようです。

■政治
1982年に定められた現行の憲法では、世俗主義(政教分離原則)が標榜されている。三権は分立しており、立法府として一院制のトルコ大国民議会(Türkiye Büyük Millet Meclisi、定数550名、任期5年)が強い権限をもつ。行政は議会によって選出される国家元首の大統領(任期7年)が務めるが、首相の権限が強い議院内閣制に基づいている。司法府は、下級審である司法裁判所、刑事裁判所、および控訴審である高等控訴院、憲法裁判所で構成され、通常司法と軍事司法に分離されている。
外交面では、北大西洋条約機構 (NATO) 加盟国として伝統的に西側の一員である。
また、外交面では欧州連合 (EU) への加盟を長年の目標としてきた。2002年に政権についた公正発展党は、イスラム系を中心とする政党ながら軍との距離を慎重に保って人権問題を改善する改革を進めてきた。2004年には一連の改革が一応の評価を受け、条件付ではあるものの欧州委員会によって2005年10月からのEUへの加盟交渉の開始が勧告された。しかし、その後のEU加盟交渉はさまざまな要因から停滞している。
1.政体:共和制
2.元首:アブドゥッラー・ギュル大統領(2007年8月28日就任)
3.議会:一院制 (550議席 任期5年 複数政党制)

イスラム教99%の国でも世俗主義(政教分離原則)を憲法に掲げているという事実は面白いですね。

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■地理
国土はヨーロッパ大陸とアジア大陸にまたがり、北の黒海と南のエーゲ海・地中海を繋ぐボスポラス海峡・マルマラ海・ダーダネルス海峡によって隔てられる。アナトリア半島は中央に広大な高原と海沿いの狭小な平地からなり、高原の東部はチグリス川・ユーフラテス川の源流である。東部イラン国境近くにはヴァン湖とアララト山がある。国内最高所は標高5166mである。
気候帯は内陸は冷帯気候・ステップ気候で夏は乾燥し、冬は寒く積雪が多い。地中海沿いなど海に近い部分は地中海性気候で、オリーブなどの生産が盛んである。
トルコは国内に多くの断層をもつ地震国であり、1999年にはイズミルからイスタンブルにかけてのマルマラ海沿岸の人口密集地で大規模地震が起こり、大きな被害を受けた。なお、他の地震国の多く同様、国内に数多くの温泉が存在し、中にはヒエラポリス-パムッカレなど世界遺産の中に存在するものもある。

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ドネルケバブ
■文化
トルコの国土は、ヒッタイト、古代ギリシア、ローマ帝国、イスラームなどさまざまな文明が栄えた地であり、諸文化の混交がトルコ文化の基層となっている。これらの人々が残した数多くの文化遺産、遺跡、歴史的建築が残っており、世界遺産に登録されたものも9件に及ぶ(詳しくはトルコの世界遺産を参照)。
トルコの伝統的な文化はこのような基層文化にトルコ人が中央アジアからもたらした要素を加えて、東ヨーロッパから西アジアの諸国と相互に影響を受けあいながら発展してきた。
例えば、世界三大料理のひとつとも言われるトルコ料理は、その実ではギリシャ料理やシリア地方の料理とよく似通っているし、伝統的なトルコ音楽のひとつオスマン古典音楽はアラブ音楽との関係が深く、現代のアラブ古典音楽で演奏される楽曲の多くはオスマン帝国の帝都イスタンブルに暮らした作曲家が残したものである。
建築は、イランとビザンチン双方の影響を受け、トルコ独自の壮麗なモスクやメドレセなどの建築文化が花開いた。その最盛期を担ったのがミマール・スィナンであり、スレイマン・ジャミィなどに当時の文化を垣間見ることができる。
近現代のオスマン帝国、トルコは、ちょうど日本の文明開化と同じように、西欧文明を積極的に取り入れてきたが、それとともにトルコ文学、演劇、音楽などの近代芸術は、言文一致運動や言語の純化運動、社会運動などと結びついてトルコ独自の歴史を歩んできた。

世界三大料理として言われている割には、日本ではあまり浸透していないような気がしますね。
最近は屋台でケバブを売っていますが、トルコ料理店は少ないのはイスラム文化だからでしょうか?
東洋と西洋の融合された食事として、注目されてもいいのかもしれません。
そしてそして。。。
トルコは実はかなり親日な国。
その理由はある事件があったからでした。

■エルトゥールル号遭難事件
1890年(明治23年)9月16日夜半、エルトゥールル号は折からの台風による強風にあおられ、紀伊大島の樫野崎に連なる岩礁に激突、座礁したエルトゥールル号は機関部に浸水して水蒸気爆発を起こし、沈没した。これにより、司令官オスマン・パシャをはじめとする587名が死亡または行方不明になる大惨事となった。
このとき、樫野埼灯台下に流れ着いた生存者は、数十メートルの断崖を這い登って灯台に遭難を知らせた。灯台守の通報を受けた大島村(現在の串本町)樫野の住民たちは、総出で救助と生存者の介抱に当たった。この時、台風により出漁できず食料の蓄えもわずかだったにもかかわらず、住民は、浴衣などの衣類、卵やサツマイモ、それに非常用のニワトリすら供出するなど、献身的に生存者たちの回復に努めた。この結果、樫野の寺、学校、灯台に収容された69名が救出され生還することができた。
エルトゥールル号の遭難はオスマン帝国の国内に大きな衝撃を呼んだが、専制君主アブデュルハミト2世のもとでは人災としての側面は覆い隠され、天災による殉難と位置付けられ、新聞で大きく報道されるとともに、遺族への弔慰金が集められた。またこのとき、新聞を通じて大島村民による救助活動や日本政府の尽力が伝えられ、当時のトルコの人々は遠い異国である日本と日本人に対して好印象を抱いたといわれている。
エルトゥールル号遭難事件は、オスマン帝国末期の外交政策と海軍の弱体化がもたらした悲劇であったが、この事件で被害者に対して示された日本人の友誼は、その後も長く日土友好関係の起点として両国の関係者に記憶されることになった。トルコ人が公的な場で日本人に対して日土友好の歴史について語るとき、必ずといっていいほど第一に持ち出されるのがエルトゥールル号遭難事件の顛末である。

一つの遭難事件かきっかけで、国同士の結び合いが強くなるなんて・・・、なかなかいい話ですよね。
国任せではなく私達でも他国との結びつきを強くすることもできるかも!?と可能性を感じる出来事ではないでしょうか。
以上トルコ第一発目でした。 :o

List    投稿者 watasin | 2009-02-14 | Posted in 未分類 | 6 Comments » 

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コメント6件

 ハリマ | 2009.07.23 19:56

市場原理による資源投入型の「緑の革命」の農法は、いろんな面で無理があるように思います。それに対して、SRI農法は、自然の摂理に沿ったものであり、無理がないように感じます。
SRI農法が30年足らずで世界33カ国にまで広まったのは、自然の摂理に沿った農法であることを裏付けていると思います。今後は、このような農法が、緑の革命の農法を駆逐していく前兆のように感じます。皆さんはどのように思われますか。

 aruih | 2009.07.25 16:41

ハリマさん
コメントありがとう。
SRI農法を見ていると、昭和30年代初めの頃の日本の農業を思い出します。自然と共存し、自然に負荷を掛けない、循環型の謙虚で賢い生き方には普遍性が感じられます。市場原理主義の行き着く先は飢餓と破壊のみです。漸く、世界中の人びとがそのことに気付きはじめたのではないでしょうか。SRI農法がもっと多くの国々に拡がっていって欲しいと思います。

 佐藤周一 | 2010.04.25 11:13

コメントを入力してください
コメントの最後の部分「SRI農法が30年足らずで世界33カ国にまで広まった」は、10年余、と理解する方が実態に合っていると思われます。
マダガルカルにてロラニエがSRI原理を公にしたのは1983年、学術論文上に発表したのは1995年ですが、マダガルカル外に広く知られるようになったのは、コーネル大のノーマン・アポフ名誉教授がマダガスカル訪問時にSRIの話を聞きそこで実証試験を行い確信をもった後に、1997年にインドネシアにてSRIの講演をし、その後1999年に中国およびインドネシアにて圃場での実証試験が実施されました。したがって、SRIが知られるようになってからまだ「10年余」でしかありません。
近年特に中国やインドでの普及拡大が目覚しく、カンボジア、インドネシア、ラオス等でも拡大しており、世界全体では2009年末でSRI稲作面積は約120万haに達したものと推定されています(アポフ教授の話)。

 aruih | 2010.04.27 14:57

佐藤さん
コメントありがとうございます。
佐藤さんが仰るように、SRI農法が世界33カ国まで広がったのは、この10年余と理解する方が実態に合っていると思われます。
僅か10年余でアジアを始めアフリカや中南米の国々まで広まっていったということはSRI農法の優れた点や可能性は本より、佐藤さんのように現地で日夜普及に努めておられる方々のお陰であるとおもいます。
これからもよろしくお願いします。

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