2009-09-09

ナチスドイツの経済政策

%E3%83%8A%E3%83%81%E3%82%B9%E3%83%89%E3%82%A4%E3%83%84.jpg
民主党マニフェスト2009より

民主党は、「国民の生活が第一。」と考えます。その新しい優先順位に基づいて、すべての予算を組み替え、子育て・教育、年金・医療、地域主権、雇用・経済に、集中的に使います。
生活の安定が希望を生み、意欲的になった心が、この国全体を押し上げていきます。国民を苦しめている古い仕組みを終わらせ、すべての人が生きがいと働きがいを持てる国を、あなたと民主党でつくり上げようではありませんか。


 政権交代への期待から、民主党の圧倒的勝利となった先の衆院選挙ですが、マニフェストに書かれた項目の実現可能性については、民主党に投票した人でも懐疑的な人は多いと聞きます。
 単なるお題目ではなく、「社会を安定させ、活気づかせるためにどうしたらいいか」を考え、「底辺の人の生活を安定」させようとし、実際に実現した人がかつていました。あまり知られていないことですが、実は、ナチスドイツのヒトラーなのです。
今回は、 「ヒトラーの経済政策〜世界恐慌からの奇跡的な復興」(武田知弘著)から、引用し、ヒトラーがどのような政策を実施したのかを紹介します。
その前にポチッとお願いします

にほんブログ村 経済ブログへ


 アドルフ・ヒトラーが政権の座に就いたのは世界恐慌から4年後の1933年1月。その前年の1932年に国内第二位の銀行ダートナー銀行が破綻し、国民総生産は35%減少、失業者は560万人(失業率30%)にもなりました。しかし、3年後には失業者を160万人にまで減らし、国民総生産は大恐慌前の1928年を15%も上回る急回復を遂げました。(世界恐慌でダメージを受けた国では最も早く回復)
 ヒトラーは、難しい経済理論を知っていたわけではなかったようです。「社会を安定させ、活気づかせるためにはどうしたらいいか」ということを、自分の経験と知識から導き出し、「今から4年まって欲しい、4年で失業問題を解決し、ドイツ経済を立て直す」と国民に呼びかけました。ナチス結党以来「底辺の人の生活を安定させる」のが結党以来の一貫したテーマでした。

ドイツを蘇らせた「第一次4ヵ年計画」
ヒトラーは政権を取った2日後の1933年2月、新しい経済計画(第一次4ヵ年計画)を発表する。
連立政権でまだ政権基盤も安定していなかったが、とにかくこれから「ドイツは変わる」という印象を国民に与えたかったのだろう。大急ぎで計両が策定され、発表されたのだ。
つまりヒトラー政権にとって、最大の懸案事項は経済政策だったのである。
この「第一次4力年計画」は、
・公共事業によって失業問題を解消
・価格統制をしてインフレを抑制
・疲弊した農民、中小の手工業者を救済
・ユダヤ人や戦争利得者の利益を国民に分配
・ドイツの経済界を再編成
というのが主な内容だった。

公共事業による失業対策
 ヒトラーはアウトバーンの公共事業や国民の福祉増進に予算を割き、一心不乱に失業対策を行いました。(その結果として、権威を獲得した)
 アウトバーン建設費のうち、46%が労働者賃金に充てられました。公共事業で買収する土地は、その計画が決定した時の値段を基準にされ、日本のように不動産業者一儲けさせるような事はさせませんでした。ナチスが作った労働戦線という組合が企業を監視し、賃金の中間搾取を許さなかったのです。日本での高速道路の資金はゼネコンや地元企業、地主に払われ、労働者に払われる賃金は微々たるものです。日本の場合、投資した資金は地主やゼネコンに蓄積されやすく、労働者には届きにくい構造になっています。
 アウトバーンの建設は、普及しだした自動車産業を発展させるのに適した公共投資でした。必要なものを必要な時に作ることで、非常に効果を上げたと言えます。日本の場合、必ずしも必要でない道路が建設されることが多いですね。
 また、1933年に莫大な予算を集中して投資したことが大きな効果を生みました。集中投資の結果、ドイツ経済自体の潜在能力を素早く引き出すことに成功しました。公共投資を始めて2、3年後には建設業以外の産業が活気づきました。
 他にも多くの政策を実行しています。
 本文からいくつか引用してみます。
国民に暗示をかけて不況脱出

ナチスは、新しい主要な法律などを作ったときには、すぐにその夜ラジオでヒトラーやナチスの首脳が、その法律の趣旨などの説明をする。また街中のいたるところにポスターがあり、政策に関するメッセージを発している。その情報を受けて、国民は納得したのだ。ただやみくもに統制ばかりをされれば反発も起きるが、その理由をきちんと説明されているので、反発は起きにくかったのだろう。

中高年を優先的に雇用

ナチスの雇用政策で興味深いのは、妻や子供がいる中高年の雇用を優先していることである。
一家の大黒柱を雇用すれば、取りあえずその一家は飢えずにすむ。それは社会心理の上でも安定につながる。
しかし雇用を市場に任せていれば、中高年の雇用はあまり守られない。同じ能力ならば、企業は若い人を雇いたがるからだ。
なので、ナチスは、その部分にテコ入れをしたわけである。
工場で欠員が出た場合は、中高年労働者を優先的に採用するように決められた。これは道徳的順守義務となっていたが、もし雇い主がそれを守らない場合は、国家による強制もあった。

価格統制

ヒトラーは政権を取るとすぐに穀物価格安定法という法律を作って、穀物の価格を固定した。これは農産物の暴落を防ぐための処置である。
もちろん、まったく固定してしまうと、農家の向上意欲も損なうし、消費者側からの反発もあるので、市民の所得レベルを見ながら目取低価格を設定するという方法が採られた。その価格以上であれば、売買していいという設定である。
また1934年秋には価格管理官という官僚が作られ(以前にもあったものを復活させた)、原料や重要食料品の術格を統制した。
1935年4月には、食料品などに関する不正な値上げを防止する法律が施行されている。
これは肉や穀類の販売値段は、仲買人の手数料から小売商人の利益にいたるまで、法律によって決められるというものである。
もし法定価格以上の値段で販売していた場合、当該官庁にその旨を届け出ると、販売したほうはすぐに営業停止を命じられ、超過した金額は払い戻されることになっていた。
ナチスの物価統制は迅速だった。

農家の借金を凍結

当然、ナチスは農家に手厚い保護をした。
(略)
そのためナチスは、世襲農場法という法律を作った。
世襲農場法は、一定の条件を満たす農家は、農地を借金のカタに取られないようになり、大きな借金を背負っている場合は、返済できる金額まで引き下げられるという法律だった。
一定の条件というのは、
.7.5ヘクタール以上125ヘクタール以内の農地を経営していること
・正統なドイツ人であること
・男子一人に農場を継がせること
などである。
125ヘクタール以内という条件は、ちょっと不思議に思われるかもしれない。ユンカーと呼ばれる貴族的な農場主に対しては、この法律の恩恵を受けさせないようにしたのだ。ナチスは、弱小農民の味方というわけである。
これらの条件を満たせば、ドイツの正統な「農民」と認められ、惜金があったとしても、農地や農機具を取られることはない。
債務を抱えている農家は、新しく作られた「債務償却銀行」に、毎年支払い可能な額を払い込めば、これまでの惜金はそれですべてOKということになった。債務は、「債務償却銀行」が立て替え払いしてくれるというわけだ。
この法律の適用を受けた農民は、その引き換えとして、今後土地の売買はできなくなるし、ドイツの名誉ある農民として、農作物の調整などに進んで協力しなければならなかった。1938年の時点で、この法律の適用を受けた「世襲農場主」の農地は、ドイツの全農地の38%に及んだ。
また、ナチスは半年間・都会の青年有志を農業支援に赴かせた。最近、日本でも都会人がボランティァを兼ねた農業体験をする「援農」がときどき行なわれているが、それを大がかりにしたものだといえる。
1933年から1935年の2年間で、平均10万人の青年が農村に行っている。農家は、宿泊場所と食事だけを提供し、青年たちには職業紹介失業保険局から若干の給料が支払われる。

上記以外に、中小企業貸し渋り対策、少子化対策など、民主党も参考にしてみてはと思うような政策を実行しています。
ヒトラーに対するイメージを変える必要がありそうですね。

List    投稿者 shushu | 2009-09-09 | Posted in 未分類 | No Comments » 

トラックバック

このエントリーのトラックバックURL:
http://www.kanekashi.com/blog/2009/09/1027.html/trackback


Comment



Comment