『お金はどこから生まれてきたのか?』〜第3回 中国、殷の時代に宝貝はどのように用いられたか?
(パプアニューギニア政府観光局より)
前回は「パプアニューギニアでの貝貨の使われ方」を紹介し、大変ご好評いただきました。
ここに登場する宝貝は、暖かい海に生息する巻貝で、古くから装飾品や贈与品、あるいは呪物として用いられてきました。古代中国においても同様で、とくに殷代(紀元前1,600年〜1,046年)の墳墓からたくさん出土しています。また、甲骨や青銅器には宝貝を意味する文字が見られることから、その時代にとても珍重されていたことが窺えます。
殷の時代に、
「なぜ宝貝は貴重なものとされたのでしょうか?」
「どのような機能を果たしていたのでしょうか?」
このあたりに注目することで貨幣の原型が見えてきそうです。
そこでまず時代背景から押さえようと思ったのですが・・・
実は、中国の歴史書「史記」にも登場する殷王朝。20世紀初頭までは伝説上の王朝とされていました。その後、遺跡の発掘や甲骨文の解読作業の進展によって実在は確認されましたが、今なお謎だらけです。
(奈津子の徒然雑記帳より)
ついつい歴史について疑い深くなってしまうのは、情報の出所も明らかにされないまま、あまりにも多くのことが周知の事実として語られているからです。これは史記も同様です。歴史記述は後の権力者の妄想や陰謀で歴史が書き換えられているケースが多く、そこに現代人の偏った解釈が加わるので、当たり前と思われていることでも事実の信憑性はほとんどありません。
こうした実情を踏まえて、今回は“金文”を頼りに貨幣誕生に至る歴史の歩みを辿ってみたいと思います。ちなみに金文とは、青銅器などの表面に刻まれた文字のこと。なぜその青銅器が作られたのか、誰がその青銅器を祭ったのかが記されているため、その当時の客観的事実(記録)として信憑性が高いのです。
※金文とは? ⇒ウィキペディアへ)
前置きが少し長くなってしまいましたが、それでは貨幣の起源、殷の時代に栄えた宝貝文化を見ていきたいと思います。
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①宝貝はどこから、どのように収集されたのか?
これは宝貝の分布図です。
(政府紙幣を考えるブログより)
宝貝が貨幣として利用されていた痕跡は世界各地に残っています。例えば、沖縄、ベトナム、モルディブ・・・。前回お話ししたパプアニューギニアもそうでしたが、その大半が浅い岩礁や珊瑚礁のある暖かい地域(=宝貝の生息地)です。
一方、殷王朝はというと、内陸地に位置し、宝貝の採れる地域(現在の広東省以南)からは何百キロも離れています。それが希少価値、そして貨幣の価値という事になるのかもしれませんが・・・
宝貝の分布図を見ていて、こんな疑問が湧いてきました。
いったい殷王朝はどうやって宝貝を収集したのでしょうか?
おそらく宝貝は南海で収集され、東南海沿岸に渡り、推夷(わいい)を経由して殷に入ったのではないでしょうか。現に宝貝は黄河中下流域の墳墓からたくさん出土しています。また、金文から宝貝を担いで乗船する人の図象記号が散見され、流入経路に水路が含まれていたことが分かっています。さらに、推夷がもともと宝貝を保有していたこと、殷が推夷との交渉・戦闘を通じて宝貝を得ていたことも金文には記されています。
いずれにしても地理的に入手困難であったことは間違いなく、こうまでして殷王朝が宝貝を集める理由が、単にきれいだったから、保存性に優れていたからというだけでは説明がつきません。
②どんなかたちで宝貝が殷王朝に浸透していったのか?
一見するとささいな問題のようにみえますが、これは「殷王朝が宝貝のどこに価値を見出したのか?宝貝の貨幣としての価値は認められていたのか?」という疑問とも絡んできます。
殷代の甲骨文や金文には、1つに繋がれた宝貝を首に掛けた人の図象記号が見られます。また、遺跡や墳墓などからは、頸部に掛けた宝貝が出土しています。このような遺物から、宝貝はバラバラではなく集合体として価値を有していたことが分かります。一般に宝貝は貨幣として珍重されていたとされていますが、実際は祭祀儀礼のような非経済的営みの中で装身具や儀式的な用途として用いられていたと考えるほうが自然なのです。
仮に、宝貝が集合体単位で殷王族と友好的もしくは服従的な関係の人々に広まったと考えれば、それは前回お話ししたパプアニューギニアでの宝貝の使われ方(=友好の証として宝貝が使われたクラ交易)とも類似します。
そもそも経済至上主義の現代と経済がまだ未発達の殷代とは時代背景が異なるわけなので、現代と同じものの考え方で殷代の宝貝の価値を求めようとしてもうまくいきません。まずは当時の時代背景や国家の成立ち、その時代の人々の意識に同化する必要がありそうです。
③宝貝は、どのような社会的機能を果たしていたのか?
宝貝が祭祀などの重要行事に用いられたことは前述した通りですが、殷王朝はこうした宝貝の用いられ方を国家統合のしくみに組み込んだと考えると非常にすっきり説明できます。
殷王朝の統合のしくみ↓
殷社会の基本単位は邑(ゆう)と呼ばれる氏族ごとの集落で、数千の邑が数百の豪族や王族に従属していた。殷王は多くの氏族によって推戴された君主だったが、方国とよばれる地方勢力の征伐や外敵からの防衛による軍事活動によって次第に専制的な性格を帯びていった。また、宗教においても殷王は神界と人界を行き来できる最高位のシャーマンとされ、後期には周祭制度による大量の生贄を捧げる鬼神崇拝が発展した。この王権と神権によって殷王はみずからの地位を強固なものにし、残酷な刑罰を制定して統治の強化を図った。
(ウィキペディアより)
この時代、殷と近隣諸国との力関係は拮抗し、いつ転覆を企てられてもおかしくありませんでした。そこで殷王朝は、武力だけでなく神の力を使って近隣諸国を統治しよう考えました(神権国家)。
図のように神権国家として神を祀り、祭祀を通じて神と人との交歓が可能であると信じ込ませます。そして神官の長たる殷王が神に代わって国を統治します。現地民の邑はもともと呪術によって集団を統合していたため、その呪術をさらに神秘化することで統合力を高めたのだと思われます(部族連合の神権国家)。
こうした国家統合のしくみの中で、宝貝は祭祀や呪術の際に、神と人、人と人とを繋ぐ紐帯の象徴として用いられていたのではないでしょうか。金文には、宝貝が王から氏族の長に、そして氏族の長から家臣への報奨として用いられていた記述が残っています。これは宝貝賜与形式金文と言われるもので、目上の者から宝貝を賜ったことを記念して目下の者が作った青銅器の銘文のことで、この時代の宝貝に関係する金文の95%以上を占めています。
このように、宝貝は殷王への貢物として集められ、王から氏族へ、氏族から家臣へと分配されました。この国家的な収集と分配の流れによって神権政治をより強固なものにしていきました。
■次回は・・・
シリーズ『お金はどこから生まれてきたのか?』の第3回では、殷代の時代背景とともに宝貝の果たす社会的機能について検討してきました。そして、パプアニューギニアでは仲間から仲間への友好の証として贈られた宝貝が、殷王朝では国家統合のしくみに組み込まれ、王⇔氏族⇔家臣の支配服属の関係を補強するために流布したことを扱いました。とても興味深いのは、並列関係の紐帯物が、上下関係の紐帯物へと形を変えて後世に継承されていったという点。
ところが周の時代になると、部族連合の神権国家は解体されていきます。そしてそれに呼応するように、宝貝にまつわる金文は減少していきます。時代が下るにつれて宝貝の果たす機能はどのように変わっていったのでしょうか?
次回をおたのしみに。
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