2013-12-29

【特集:デフォルト研究】(4)デフォルト事例(アルゼンチン財政危機)

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だいぶ間が開きましたが、ご容赦下さい。本エントリーで4回目となる【特集:デフォルト研究】今回は、アルゼンチンを扱います。
アルゼンチンは2001年にデフォルトが実行されています。

【特集:デフォルト研究】の過去記事は以下を参照願います。
(1)デフォルトの歴史  
(2)日本の終戦直後 
(3)デフォルト事例(ロシア財政危機)
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まずは、第二次世界大戦後のアルゼンチンのデフォルトまでの経緯をざっとまとめてみましょう。
●アルゼンチンのデフォルトまでの経緯 【リンク

アルゼンチンは、2回にわたる世界大戦に直接関与せず、各国への農産品畜産品の輸出により利益を得た20世紀半ばまでは世界有数の富裕国でした。第二次世界大戦後、国民の圧倒的な支持により民族派のペロン軍事政権が樹立。政権は国民主義的な政策により、保護政策による工業化偏重政策をとりますが産業構造の転換に成功せず、次第に経済が低迷していきます。

その後の歴史状況をまとめますと以下のようになります。
・1973年ペロン軍事政権樹立
  ※ペロン後の軍事政権は4代続くが、政権内部では賄賂横行。
・1982年軍事政権の失政をフォークランド紛争が勃発するが、敗戦。
・1989年500%のハイパーインフレ&累積債務
・1989年メネム政権が樹立。貿易自由化、関税引き下げ、ドルペッグ制を採用
  ※アルゼンチン政府は手持ちの米ドル資産の総額を越えない範囲でペソを発行、対応しきれなくなった場合は、国際金融機関であるIMFが融資し支える体制となっ   ていた。
  ※一方、ブラジルは、1997年のアジア経済危機により、ドルペック制を止め金利引き   下げ
・2001年ブラジルの影響で相対的にアルゼンチンは不況になり、失業率40%、経済成長率▲11%
  ※クリントン政権期は、IMFは融資。
  ※その後ブッシュ政権I期は、MF融資条件として歳出削減を求める。結果的にアメリカから見放される。
・2001年夏議会は、IMF融資の条件をのもうとするが、労働組合各種団体がストライキ多発。
  ※これによってアルゼンチンに対する外国投資家の目が厳しくなり、国債の格付けが下がった結果、アルゼンチン政府は国債を買ってもらうのに金利を上げねばなら   なくなり、これがさらに経済に悪い影響を与えることになる。
  ※一方、固定相場を変動相場にする事は、借金が増えるので無理
・2001年12月国民が銀行から引き出せる額の上限を1カ月に250ドルに制限。
  ※アルゼンチンの信任低下→海外に預金流出。
  ※その一方で、いよいよ資金難に陥ったアルゼンチン政府は外国から借りた金の利払いが難しくなり、IMFからの緊急支援を必要としたが、融資の条件となってい   た緊縮予算案は議会を通らないままだったので、IMFは融資を断る。
・2001年12月23日に1320億ドルに上る対外債務の支払い停止(デフォルト)宣言。
では、戦後、金貸し達の影響が垣間見られる時期はいつだったのでしょうか?
まずは、ペロンの後の軍事政権の政治状況に焦点をあててみます。
●ビデラ軍事政権は、米国の傀儡  【リンク
アルゼンチンでは、1976年に軍のクーデターでホルヘ・ラファエル・ビデラ軍事政権が誕生。ビデラはホセ・アルフレド・マルティネス・デ・オスを経済閣僚に任命し、後に新自由主義として知られる方針に則って国有企業を安定化させる事を命じました。
ここに、米国の当時の国務長官キッシンジャーにまつわる記事を紹介しましょう。

キッシンジャー国務次官「マルティネス・デ・オスはいい人間だ。」
経済相に就任したマルティネス・デ・オスがまず行なったのは、ストライキの禁止と雇用主に労働者を自由に解雇する権利を与えることだった。価格統制も廃止したため、食料価格は急騰した。
さらに、外国の多国籍企業をふたたび歓迎するべく外国資本の出資制限も撤廃し、就任後数年間は何百社もの国営企業を売却。
こうした措置を取ったことで、彼はワシントンに強力な支持者を獲得。
機密解除された資料によると、ラテンアメリカ担当国務次官補ウィリアム・ロジャーズはクーデターの直後、ヘンリー・キッシンジャー国務次官に「マルティネス・デ・オスはいい人間だ。われわれはこの間ずっと彼と緊密に協議してきた」と話し、これに感銘したキッシンジャーはマルティネス・デ・オスがワシントンを訪問した際に「象徴的なジェスチャーとして」鳴り物入りの会談を行なうよう手配。
さらにキッシンジャーは、アルゼンチンの経済的取り組みを支援するために何本かの電話をかけることを申し出た。
デイヴィツド・ロックフェラー(チェース・マンハッタン銀行頭取)に電話をしておこう」と彼はアルゼンチン軍事政権の外相に申し出、さらにこう言った。
「それから彼の弟(ネルソン・ロックフェラー米副大統領)にも電話しよう」

こうして、アルゼンチンは、ペロン後、米国の傀儡とも言える政権運営に突入してきます。しかしながら、その後の軍事政権時代は、何をするにも賄賂が必要で、役人は賄賂を公然と要求し、政治家はビジネスの仲介で私服を肥やしていました。この軍事支配の間に政府は反対派を3万人以上抹殺したとされています。
このような状況で、アルゼンチン国内では、国民の不満が鬱積していきますが、当時のガルチェリ大統領は、内政批判をかわすためにフォークランド諸島の領有権問題を訴え、領土ナショナリズムを刺激。またアルゼンチン活動家が島に上陸して主権を宣言するなどの事件が起きていました。こうして1982年のフォークランド紛争が、勃発します。
さてこの事件をきっかけに金貸し達にとってどのような影響をもたらしたかのでしょうか?
●金貸し達は、フォークランド戦争によって、アルゼンチンへの介入がしやすくなった。 リンク
この事件で、当時、アルゼンチンは次第に孤立していきます。

国際社会もアルゼンチンには冷淡だった。アメリカやNATO加盟国を主とする西側諸国は、(同じ西側陣営同志の戦争に困惑しながらも)「同盟国への侵略行為は一切認めない」との姿勢でイギリスを一貫して支持。国連の安全保障理事会も、アルゼンチンの即時撤退を決議した。隣国チリも、国境問題を抱えるアルゼンチンに味方せず、イギリス側に基地や情報を提供する有様で、政治的・戦略的にもアルゼンチンには全く勝ち目がなかった。
◆戦後
勝利した英国首相サッチャーは、当時、厳しい国内政策による失業者の増加などで支持率が低下、引くに引けない状況にもありましが、この戦争に勝利したことで支持率を回復。以後、1990年の辞任まで長期政権を確立。一方、敗北したアルゼンチンでは軍部の威信が失墜。領土の奪還には失敗したものの、軍縮と民政移管が進む。

フォークランド紛争後、アルゼンチンは軍縮が進みます。見方を変えると、その後の民政移管によって、金貸し達のアルゼンチンへの介入がしやすくなったとみることができます。そしてこの事件の後、アルゼンチンをデフォルトに追い込んだメネム政権が樹立します。
●アルゼンチンをデフォルトに追い込んだメネム政権 【リンク
フォークランド紛争が終結したあと、メネム政権が樹立しましたが、貿易自由化、関税引き下げ、ドルペッグ制等をしいたメネム政権がアルゼンチンをデフォルトに追い込んだ実態が浮かび上がります。さて、このメネムがとった政策とは?

カルロス・メネム
アルゼンチンの与党ペロン党の総裁、カルロス・メネム元大統領は(中略)アルゼンチン経済を立て直すため「唯一の通貨としてドルを採用すべきだ」と米国との連携強化を訴えた。
メネム氏は89年に大統領就任後、1ドル=1ペソの固定相場制を導入
メネム氏は大統領時代から親米路線で知られる。アルゼンチン経済の現状について「行政改革を徹底し、確固たる通貨・財政政策が行われなければならない」と指摘。変動相場制ではインフレによる経済の不安定化が避けられないとし、「アメリカとの戦略的な通貨協定が必要だ」と強調。
カルロス・メネムは1989年にアルゼンチンの大統領になって10年間以上、米国の忠実な部下となって、ネオ・リベラル経済を導入して国営企業をすべて米国資本に売り渡し、IMFと世界銀行からの借金政策をベースにして「キャッシュフロー神話」に踊り狂って、その後の未曾有の経済破綻を招いた張本人です。大統領を辞めてからは武器密輸に絡んでいた容疑で逮捕、裁判の最中にチリにトンズラ。
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※その後、2013年6月13日、1991年から95年にかけて行われた、クロアチアとエクアドルに対する違法武器供与への関与した罪状で、7年間の懲役刑が言い渡されている。
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米国→IMFの忠実な部下となって新自由主義を推進した点、違法武器供与に関与している点などからみて、メネム大統領は米国金貸しの支配下にあったとみて間違いないでしょう。
●アルゼンチンのデフォルトは反金貸し宣言?
デフォルトは金貸しの仕掛けによって引き起こされる例が多いですが、アルゼンチンの場合は逆で、反米・反金貸し勢力によってデフォルト宣言がされたようです。当時の状況を検証します。

2001年12月23日に1320億ドル(約17兆円)に上る対外債務の支払い停止(デフォルト)宣言をしたのは、正義党のアドルフォ・ロドリゲス・サア。
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キルチネル政権が最初に直面した問題は、2001年からの経済危機であるが、その核心には2001年12月のロドリゲス・サア大統領が発した債務不履行 宣言があった。アルゼンチン経済を正常化させるためには、外国債権者と交渉してデフォルト状態から脱却する必要があった。この対外債務問題に関してキルチ ネル大統領は、選挙公約においてもアルゼンチン人の利益を優先することを表明しており、債務交渉においてはアルゼンチン政府の対外強行姿勢が目だった。
2003年9月にドバイにおけるIMF総会においてデフォルト中のアルゼンチン国債価値の75%カットを中心とする債務削減案を発表し、2005年1月には大幅な債務削減を中心とした債権案を債権者に提示した。【リンク
その後もアルゼンチン政府は債務削減交渉を続けており、米国のハゲタカファンドとは裁判で争ったりしている。【リンク
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アルゼンチンのデフォルト宣言は、「対外債務」つまり、外資に対する借金を対象にしている点がポイントとになります。その後、政権を引き継いだ同じ正義党のキルチネルは、対外協調よりも自国民の利益を優先させる政策をとりました。
現在も、アルゼンチン政府は、これまでの対外債務削減交渉を続けており、反米・反金貸し勢力に抵抗姿勢を継続しているもよう。
また、デフォルト後のアルゼンチン経済は、立ち直っているようです。その後の状況を紹介します。

●デフォルト後のアルゼンチンの経済 リンク

◆アルゼンチン、危機から、力強い成長へ
アルゼンチンの経済的破局と大衆反乱は、それまでアルゼンチンを支配してきた軍国主義と投機的略奪から、社会福祉と持続的な経済成長へという基本的転換を 実現する好機となった。その結果、アルゼンチンはアメリカが後押しした30年間の略奪的新自由政権を脱し、「正常な資本主義福祉国家」を作り出すことに成功したのだ。
IMFの実態を良く知るマレーシアはアジア通貨危機後にIMFを断固拒否して経済的に復活を遂げた)、キルチネル/フェルナンデスはアルゼンチンの対外債 務をデフォールトし、民営化されたいくつかの企業と年金基金を再国有化し、銀行に干渉し、経済再生に向け社会的支出を倍増し、製造向けの公共投資を拡大 し、一般消費を拡大した。
2003年末までには、アルゼンチンはマイナスから、8%成長に転じた。
◆緊急援助と貧困に対するアルゼンチン式代替案
アルゼンチンの成功体験は、国際金融機関(IMF、世界銀行)、その政治支援者、経済新聞の評論家連中のあらゆる教えに反している。経済専門家達は口々に 「アルゼンチンの回復は持続可能ではない」と予言したが、成長は十年以上にわたり継続した。金融評論家は、デフォールトすれば、アルゼンチンは金融市場か ら締め出されることになり、経済は崩壊するだろうと主張した。しかしアルゼンチン経済は出収入と国内経済の再活性化に基づく自己金融によって成り立ってお り、高名なエコノミストを当惑させている。

●まとめ
アルゼンチンのデフォルトに至る構造は、既存の政権が、崩壊過程を踏む中で、IMF(金貸し勢力)が介入し、市場原則にゆだねたグローバルスタンダード経済を協力に押し進めるという点では、ロシアと同じ構造が見てとれます。
一方、1970年代米国の裏庭と言われ続けてきた南米では、アルゼンチンだけでなく、反米政権が次々と樹立。そして2000年代南米は、反米で結束していきます。リンク
アルゼンチンも、この反米の国々に呼応する形でルネチル大統領の時代になり、ブラジルのルーラ政権・ベネズエラのチャベス政権・キューバのカストロ政権との連携を深め、フェルナンデス大統領(キルチネルの妻)が脱新自由主義、脱IMF路線でアルゼンチン経済を復活させているところからみて2001年のアルゼンチンデフォルトは、反米・反金貸し宣言であったと見ることができます。
では、次回は、【特集:デフォルト研究】(5)2013年総括、デフォルトスキムの整理です。お楽しみに。

List    投稿者 orisay3 | 2013-12-29 | Posted in 未分類 | No Comments » 

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