2011-07-07

シリーズ「必要か否かの判断の土俵」その8〜新しい可能性が顕在化するとは、どういうことか?〜

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大震災でも原発問題でも政治が混迷していますが、政治の混迷は今に始まったことではありません‥‥
 
日本国民は、ずっと前から政(まつりごと)はお上に任せて、現実の生活を営んできました。良くも悪くも、基本的に日本人は権力とか政治には無関心でした。しかし、もっぱら現実の中で生きてきたということが、豊かな日本の文化を育み、日本人の健全性を保ってきた基底構造の一つであろうと思われます。
 

江戸時代の生活より
 
江戸には当時世界一がいくつも有りました。人口は西暦1800年120万人が暮らす世界一の大都市でした。当時第2位のロンドンが90万人、3位のパリが60万人、ニューヨークにいたってはまだ6万人でした。(日本全体では1600年1227万人、1720年3128万人でそれ以降1873年3330万人までほとんど増減なしだった。)
 
水道設備も世界一でした。時代劇でよく見る長屋の井戸は地下の木管の中を流れる水を、木管に開いた穴からくみあげる井戸だったのです。神田川、井の頭池、玉川などを水源に高低差を利用して木管の中を川のように流しました。
使われず川に落ちる水は船で受け取って、水の便の悪い地域に運んで再利用した。
当時の江戸の60%の人がこれで生活していました。1年中1日中使えるこの水道設備は当時世界に無いものでした。唯一ロンドンにも水道設備はあったものの、週3日、1日7時間給水でした。
 
世界一清潔な大都市でした。ロンドン、パリでは「おまる」にとった排泄物を道路に投げ捨てていました。それを下水にはき寄せて川に流していたようで、道路は至る所汚物だらけ、テームズ川もセーヌ川も異臭を放つ猛烈などぶ川でした。(明治の初め頃まで隅田川の屋形船では船から川の水を汲んでお湯を沸かしたと言う記述がある。)
 
江戸では、排泄物は便所から汲み取られ堆肥の材料として、高額で取り引きされるほど大切にされていました。したがって、道路を汚すことは少なかった様です。
下水に流したものは洗濯の水と、米のとぎ汁であるが、ほとんどが川に流れ込む前に大地にしみ込んでしまったとある。洗濯はと言うと、石鹸は高価で使われず、灰やムクロジなど環境に良いものが使われていました。しかも洗濯や炊事に使った水は、拭き掃除に使い、最後は畑や植木にやったり、打ち水するなど徹底的に使いまわす事が多かったので、量も現代よりはるかに少なかったと思われる。
  
ロンドンやパリを知る外人は江戸の街の清潔さ、よく入浴し、粗末だがよく洗濯された着物を着る江戸の人たちの清潔さに驚嘆したそうです。
 
寺子屋による初等教育の就学率の高さは、当時群を抜いて世界一だった。1850年頃の江戸の就学率は農村部まで入れても70〜85%と推定されている。それに比べ1837年ころイギリスの大工業都市で、20〜25%。革命後のフランスでは1793年に初等教育を義務化したが、10〜16才の就学率は1.4%だった。ロシアでは1920年でも20%だった。しかも、幕府には文部省の様な部署は無く、お上の計画にのっとって作られたと言うよりは、庶民の間で自然に出来ていったシステムと思われる。現代のような画一的な教育ではなく、独りずつのレベルに合わせた理想的な個人指導だったようだ
 
さらに驚くべきことに、100万を超えるこの大都市に、現在の警察官にあたる与力、同心は24人しかいなかった。

 
今まで好き放題に権力を貪ってきた連中も、思うようにいかない現実を前にして、右往左往するばかりですが、万事がここに至って、日本人にも「そろそろなんとかせにゃならん」という空気が出はじめている所なのではないでしょうか。
 
しかし、長い間政治に無関心だった日本人が立ち上がるには、まだ何かが足りていない気がします。さて、なにが足りないのでしょう? また、「新しい可能性が顕在化する」とはどういうことなのでしょう?
 
応援よろしく御願いします。
 
 

(さらに…)

  投稿者 cosmos | 2011-07-07 | Posted in 07.新・世界秩序とは?5 Comments »