中国分析 中国とロシアの関係を探る~プーチンとはどんな人物か?~
(画像はコチラより)
■プロローグ
前回まで、中国国内構造、BRICS開発銀行、新シルクロード経済構想、ウクライナ問題と見てきました。ここまで中国分析を続けてきた中で、中国が打ち出す主要な政策に共通して出てくる超大国がありました。それがロシアです。この両国を調べていくと近年急速に関係を深めており、その関係深化は世界的にも注目度が高い現象といえます。そしてその渦中にいる人物が、ロシア連邦大統領ウラジーミル・プーチンです。
ロシアは言わずと知れた資源大国ですが(石油=生産量が世界第2位・埋蔵量が世界第7位、ガス=生産量・埋蔵量共に世界第1位)、ウクライナ問題に端を発して米欧諸国からの厳しい経済制裁を受け続けており、最近ではEU重視→アジア重視へ路線を移行しています。近年の急速な中国との関係深化を考えると、中国側の意向とロシア側の意向(置かれている環境からの挽回)が完全に一致していることが伺えます。中国にとってロシアとの関係を深めることは、国内の経済成長鈍化を阻止するだけでなく、米国一極集中の世界のパワーバランスを崩すために、必要不可欠の政策と言えます。前回記事でも扱いましたが、中国は明らかに世界覇権の奪取を狙っています。そこで目を付けたのが、世界の中で孤立する超大国ロシアなのです。
本記事から2~3記事は、少し中国自体の分析から距離をおき、中国とロシアとの関係を探る上で必要になってくるであろう、ロシア情勢(基礎情報含む)の分析に入っていきます。果たしてロシア(プーチン)は金貸し派なのか?国益派なのか?そこから世界の新たな未来構造が見えてくるかもしれません。
■プーチンとはどんな人物か?
ロシア情勢を分析する上で、現ロシア連邦大統領ウラジーミル・プーチンの分析は必要不可欠です。なぜなら、プーチンの政治家としての経歴のみに留まらず、その生い立ち~青年期~KGB時代の経験と、そこで形成された思想・思考方法まで遡ることで、ロシアの現状~未来の構造を予測できる視点を得られる可能性があるからです。そもそもメディアに頻出する前のプーチンの情報というのは、日本国内ではあまり有名ではなく、取り立ててクローズアップされることもありませんでした。それらの情報を読み解くことで、本記事における仮説を立ててみたいと思います。
本章では先ず、プーチンの生い立ち~青年期~KGB時代~政界進出までの経験と経歴を順を追って見ていきます。
【生い立ち~青年期】
プーチン(本名:ヴラジーミル・ヴラジーミロヴィチ・プーチン)は、1952年に西欧諸国に程近いソビエト連邦・レニングラード市(現ロシア連邦・サンクトペテルブルグ市)で生まれました。少年時代は、学校にいつも遅刻する、喧嘩っ早い性格の「不良(フリガーン)」として有名だったそうです。しかし、10歳頃から始めた柔道の鍛錬とドイツ語サークルでの語学の習得(共に才能があった)により、不良少年から文武共に優れた模範少年に変わっていきます。また、幼い頃より「スパイ」に憧れており、16歳の時には国家保安委員会(以下、KGB)レニングラード本部へ直接赴き、「ここで働きたい」と自ら申し出るほどでした。ここでは門前払いにされたそうですが、どうすればKGBに入れるかを応対した人間から聞き出し、進学先まで決めてしまいます。そして、計画通りレニングラード大学法学部へと進学します。
【KGB時代】
(1989年のKGB本館:画像はコチラより)
大学卒業後、プーチンは計画通りKGBに入省します。KGBと聞くと日本では悪評しか聞きませんが、東西冷戦時代には米国CIAと一、二を争う組織として世界に君臨しており、ソビエトでは「体制の擁護者・正義の味方」として国民に大変支持されていました。彼らは民衆の不満・不安をよく理解しており、また外国語を身につけ自在に世界を横断することで、先進国・途上国を問わず外国の実情を常に把握していました。そのため、資本主義諸国の技術・ビジネスの構造も熟知しており、また国内の科学技術の水準が如何に遅れているかも彼らは知っていました。
入省後、語学・諜報活動などの訓練や研修を経て、33歳になった1985年に東ドイツ・ドレスデンのソ連領事館にKGBのスパイとして派遣されます。ここで1990年まで組織のナンバー2として勤務しています。この間の仕事内容については、文字通り諜報活動であったため非公開とされていますが、当時のドイツは米国CIAとの戦いの最前線の舞台であり、プーチンはここで東西ドイツ統一とソ連崩壊という世界的にも重大な局面に当事者として居合わせることになります。ここでの経験が後の政治活動に大きく影響を与えていることは想像に難くないでしょう。
また東西ドイツを行き来していたという情報もあり、そこで資本主義体制におけるビジネスのノウハウも得ていたのではないかという推察もできます。政権を握ってからもプーチンはドイツとの強いつながりを保っています。具体的にはプーチンを支援しているドイツ銀行とドレスナー銀行とのつながりです。この二つの銀行は、ドイツの三大銀行で、ロスチャイルド系の銀行です。ここから金貸しとの関係も浮かび上がってきます。また、プーチンは政権を握ると多くのKGBや軍出身者を政治家や官僚に登用しています。KGBでの経験と人脈は、確実にプーチンの血となり肉となっていることがわかります。
【政界進出】
(左がサプチャーク、右がプーチン:画像はコチラより)
東ドイツから帰国後、KGB職員の身分のまま母校レニングラード大学の学長補佐となり、この頃に学生時代に教わっていたアナトリー・サプチャークと懇意になります。そして、サプチャークがレニングラード市長に当選するとプーチンはレニングラード市ソビエト議長参事官として登用され、政界進出のきっかけを得ます。1991年のソ連8月クーデターの失敗によりレニングラード市は旧称のサンクトペテルブルグ市に名称を戻します。その後プーチンは市政でその手腕を発揮し、サプチャークによって副市長、第一副市長といった具合に次々と登用され、外国企業誘致を行い外国からの投資の促進に努めます。そこでの陰の実力者として活躍ぶりが話題となり、「灰色の枢機卿」と呼ばれました(ロシアでは陰の実力者に対してこのようなあだ名が付けられることがある)。サプチャークが1996年に市長選に落選・退陣すると、それに伴いプーチンも第一副市長を辞職します(次の市長に慰留を求められたが拒否した)。その後、ロシア大統領府総務局長パーヴェル・ボロジンによる抜擢で、ロシア大統領府総務局次長としてモスクワに異動し、法務とロシアの保有する海外資産の管理を担当しました。ついに中央政界への進出を果たしたのです。
(以下、経歴を列挙)
1997年3月:ロシア大統領府副長官兼監督総局長に就任
1998年5月:ロシア大統領府第一副長官に就任(地方行政を担当し、地方の知事との連絡役を務めた)
1998年7月:ロシア連邦保安庁(FSB:KGBの後身)の長官に就任(この時、ボリス・エリツィン大統領(当時)のマネーロンダリング疑惑を捜査していたユーリ・スクラトフ検事総長を女性スキャンダルで失脚させ、首相だったエフゲニー・プリマコフのエリツィン追い落としクーデターを未然に防ぎ、この功績によりエリツィンの信頼を得る)
1999年8月:第一副首相に任命、同日セルゲイ・ステパーシン首相が解任され、そのまま首相代行に就任
1999年8月:正式に首相に就任(首相代行就任の一週間後)
1999年8月:第二次チェチェン紛争で強硬姿勢を貫き、国民に「強いリーダー」像を強烈に広める
1999年12月:エリツィン大統領が引退宣言(健康上の理由)し、大統領代行に指名される
(右がエリツィン、左がプーチン:画像はコチラより)
上記経歴を見てお気づきだと思いますが、なんとプーチンは中央政界に進出してたったの三年で大統領にまで上り詰めていたのです。社会主義体制が崩壊し、文字通りカオス状態となっていたロシア国家とその水面下で恐らく繰り広げられていたであろう不法不正の実態を、KGB時代に培った洞察力と記録を蓄積する等の諜報機関出身者としての習性(ルーティンワークとでも言うべきか)をもって克明に認識していたのではないでしょうか。正確な情報把握能力と蓄積能力はどんな世界でも重要な能力ではありますが、ましてや陰のある世界では特に重宝されていたのでしょう。だからこそエリツィン政権のブレインであった大物政商ベレゾフスキーや、大統領総務局長のパーヴェル・ボロジン等から目を掛けられ、クレムリン(旧ロシア帝国宮殿:現在でも政治の中枢機関が置かれている)に招聘されたのではないかと推察されます。ただ、こんなにも早く国家のトップに上り詰めるとは誰が予測することができたでしょう?この間のプーチンに対する周りからの評価は「大人しく、物静かで、有能な人物」程度だったそうです。
能ある鷹は爪を隠すとは、まさにプーチンのことを指すのではないでしょうか。
(続く)
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