2013-02-07

【幕末維新の代理人】代理人認定#1 伊藤博文〜日本最初の総理大臣は、金貸しによって作られた〜

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バックナンバー
【第一回】プロローグ
【第二回】黒船前夜〜アヘン戦争と英国による間接統治〜
【第三回】黒船来航〜ロスチャイルドのエージェントだったペリー〜
【第四回】幕末の下級武士たちを突き動かした役割不全と私権不全
【第五回】「攘夷を旗印に暴れた下級武士」と「倒幕に突き進んだ西国雄藩の本音」 
   
このシリーズは「幕末維新の代理人」をテーマに近代以降における金貸しの日本支配の構築過程に着目、実際に金貸しの代理人=エージェントとして動いていたであろう人物達に焦点を当て、これまで語られなかった幕末維新の背景を明らかにしていくものです。

「日本において、体制の変化が起きているとすれば、それは日本人だけから端を発しているように見えなければならない」
「事実、その変化はわれわれの考え方と異なる仕方でおきるかもしれないがそれが真に恒久的なものであり、且つ有益なものであるためには、徹頭徹尾、日本的性格という特徴を帯びていなければならない。」

 
(1866年4月26日、ハモンド外務次官からパークス在日公使館宛文書・・・遠い崖−アーネスト・サトウ日記抄3『英国策論』 より転記)

幕末。実に多くの志士達が海外へ渡航(密航)しました。
欧米の文明に触れた彼らは帰国後、維新を成功へ導きます。
そして明治新政府が発足すると、彼らはその要職に就き国政を担っていきます。
そんな維新の志士達は、歴史の上では日本を近代化へ導いた英雄として語り継がれていますが、実はその経歴などは概略のみで、詳細の経緯は鮮明さに欠くものばかりです。
おそらく彼らの中には、密航の過程で金貸し達に取り込まれ、金貸しの代理人として日本の近代化=市場化という財を収奪するシステムの構築に手を貸した者達が多く存在しているのではないか
そんな仮説のもと、今回からしばらくは、幕末の英雄達ひとり一人にスポットを当て、彼らの足跡を辿りつつ、金貸しの代理人となった背景を探っていきます。
そんな第一回目は、日本で最初の内閣総理大臣となった 伊藤博文 です。
   
伊藤博文
(1841年10月16日〜1909年10月26日)
 
昭和38年から昭和61年まで発行された千円札に描かれていた人物としてご存知の方も多いと思います。
幕末は尊皇攘夷の志士として活動するもイギリスへ密航。維新後は初代内閣総理大臣(計4回を務める)、初代貴族院議長、初代兵庫県知事、宮内大臣、枢密院議員など数々の要職に就き、また大日本帝国憲法も発布した明治初期の重要人物の一人です。
 
1863年に長州ファイブとしてイギリスへ密航していますが、ここでの体験が伊藤を開国派へ転身する契機となります。
その後も数回イギリスや諸国へ赴いており、英語に明るく、それが決めてとなって三条実美(藤原北家の嫡流)との一騎打ちで初代総理大臣の座を勝ち取ったと言われています。
 
では、そんな伊藤の生い立ちを見ていきます。
  
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■幼少期

一八四一年十月一六日、周防国(現在の山口県)熊毛郡東荷村の百姓・林十蔵の長男としてこの世に生を受けた。幼名は利助。長州藩士として知られる伊藤だが、生まれは武士の家柄ではない。家は貧しく伊藤は十二歳の時から奉公に出されたほどだった。
その後、父・十蔵が長州藩の武家奉公人であった水井武兵衛の養子となり、武兵衛が長州藩足軽の伊藤弥右衛門の養子となった。二度の養子を経て、利助親子も足軽ではあったが長州藩士として名を連ねることとなったのである。(リンクより引用)

 
伊藤は貧農の生まれだったこと、武士の身分を手に入れても足軽であったことは、名家出身が多くを占める明治政府の要人の中でも、非常に珍しい存在です。
 
また、伊藤が6歳まで過ごした家は現在の山口県の田布施町にあり、明治天皇となったと言われる大室寅之祐の家の隣だったらしく、吉田松陰の命を受けた伊藤が桂小五郎(木戸孝允)と共に養育係りをしていたと言われています。(田布施町についてはこちらを参照)
 
伊藤が政治の頂点にまで到達出来たのは、単に才能に恵まれていたから、というわけではなさそうですね。
  
 
■松下村塾へ入塾。バリバリの尊王攘夷だった青年期
 
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写真はこちらよりお借りしました。 

武士の端くれとなった利助少年であったが(中略)伊藤が頭角を現す最初のチャンスは、松下村塾への入門だった。十六歳の時、上司の紹介で入塾が許されたのだ。しかし身分が低かったため、塾の外で立って講義を聞いていたという。
そんな状況でも彼には人と異なる光るものがあったのだろう。吉田松陰は後に「利助亦進む。中々周旋家(交渉術に長けている人)になりそうな」と評している。松下村塾入門の頃から名を「俊輔」と改名した当時の伊藤は、木戸孝允、高杉晋作ら共に筋金入りの尊皇攘夷派であり、英国公使館焼き討ち事件にも参加している。(リンクより引用)

 
このようにバリバリの尊皇攘夷で、焼き討ちや暗殺未遂をするほど血気盛んだった伊藤の青年時代。
 
そんな伊藤がなぜ敵視している西洋(イギリス)へ渡ったのでしょうか?
  
 
■イギリスへの密航
 
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写真はこちらからお借りしました。 

尊王攘夷の志士だった青年俊輔だが、敵国である英国の留学を志したのはなぜだろうか?まずこの英国留学を企てたのは軍備充実と海外への人材派遣の必要性を唱えた佐久間象山の話に感銘を受けた井上馨(多聞)、そして野村弥吉(のちの井上勝)、山尾庸三の三名であった。
当時の長州藩は尊皇攘夷の姿勢であったが、西欧の技術力の歴然とした差に気づき開国論を唱える一派も存在していたのだ。海外渡航は国禁を犯す大罪である。しかし密航での留学を決意した3名は「西欧を学び、来るべき対日攘夷に備えたい」という一念で藩幹部の周布政之助を説得し、藩の黙認を勝ち取った。
下級武士だった伊藤を一行の仲間に入れたのは生涯の友・井上馨だった。伊藤の愛読書だった「日本政記」(頼山陽著)の巻末に二人で署名し、英国行きを決意した。さらに航海術を学ぶために留学を望んでいた遠藤謹助を加えた「長州五傑(ファイブ)」が、一八六三年(文久三年)五月十二日、上海行き英国船チェルスウィック号に乗り込んだ。伊藤の荷物はその前年に出版されたばかりの間違いだらけの英和辞書「英和対訳袖珍辞書」と寝巻きだけだったという。(リンクより引用)

 
実は、伊藤が長州ファイブとしてイギリスへ密航した1863年の以前から、長州はイギリスと密易を重ねており、ジャーディン・マセソン商会を通じて船も購入しています。
 
こうした藩情勢から、志士達の中にも単なる尊王攘夷から、海軍興隆による尊王攘夷(西洋文明を取り入れた上で攘夷を実現する思想)を唱える者達が出てきます。井上馨はその代表人物ですが、伊藤の盟友である井上馨から、当の伊藤がこのような思想を聞いていないはずはありません。
 
伊藤が井上からの誘いを受けイギリスへ渡った背景には、長州藩内に西洋文明を受け入れている素地が既に出来上がっていたからなのです。
  
そして藩も5年を最長期間としてこの密航を黙認しているという点からも、長州藩とイギリスとの繋がりや長州藩そのものが海軍興隆による尊王攘夷であったことが伺えます。
 
そして長州ファイブ渡英の船を斡旋したり、5千両(現代なら総額10億円)にものぼる資金の大部分を用意したのは、ジャーディン・マセソン商会でした。
  
 
■留学時代
 
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写真はこちらよりお借りしました。 

英国サザンプトン港に到着した五人は横浜マゼソン商会の仲介によりユニバーシティ・カレッジ・ロンドン(UCL)の化学教授ウィリアムソンに迎えられた。当時UCLは国籍、宗教の差なく学べる唯一の英国の大学であった。乏しい資金しか持たない貧乏留学生五人は教授宅に身を寄せ(後に井上と山尾は転居)、英語、分析化学、数学等を学んだ。そして時間を見つけては美術館や博物館、海軍施設や工場を見学して見聞を広めたという。
この時英国はヴィクトリア時代最盛期。産業革命に沸き立っていた。鉄道が敷かれ、ビルが立ち並ぶ大英帝国の首都ロンドンを目の当たりにした長州ファイブ。彼らの衝撃がいかばかりだったかは想像できる。この留学体験により伊藤は西欧の圧倒的な国力を認識し、攘夷思想を捨て開国論に転じることを決意した。(リンクより引用)

  
彼らがUCLへ留学できたのは、ジャーディン・マセソン商会ロンドンの社長を長く務めたニュー・マセソンの斡旋があったからだと言われています。
 
ヒュー・マセソンは1873年に鉱山採石最大手と知られるリオ・テイント(リオ・テイントジンク、RTZ)を設立した人物としても知られており、この設立にはロスチャイルド家も密に関わっています。
 
ヒュー・マセソンやウィリアムソン教授をはじめとし、そんな金貸しの息がかかった人物達に囲まれて、伊藤らはイギリスで過ごしたのです。
 
※ジャーディン・マセソン商会は、かつてのイギリス東インド会社がアヘン戦争後に姿を変えたもので、現在のHSBC(香港上海銀行)は、この商社の売り上げをイギリス本国に送金するために設立された銀行です。サッスーン商会のサッスーン家やベアリング商会のベアリング家らと並び、ロスチャイルド家との血縁を結んでおり、文字通りの金貸しです。そして長崎に設立されたグラバー商会とは、このジャーディン・マセソン商会の支社なのです。
    
 
■急遽の帰国〜金貸しの手先として長州を取り込む〜 

彼らは留学中、イギリスの「タイムズ」紙で長州藩の外国船砲撃と薩英戦争の記事を読んで驚いたのです。(中略)伊藤と井上が先に帰国することになりました。(中略)二人は横浜からすぐにマセソン商会のガワーを訪ね、英国公使オールコックと面会できるように周旋をたのみました。数日後に、オールコックとの直接会見が実現し、二人はその決意を語りました。イギリスの軍事力を知らせ、攘夷の無謀なことを藩主に説いて排外的な政策を転換させるので、四国(引用者注:イギリス、フランス、オランダ、アメリカ。ただしアメリカは仮装船だった)連合艦隊の長州攻撃を延期してほしいという二人の若者の必死な様子に、公使は好感を抱いたのでしょうか。その願いを聞き入れ、二人をイギリスの軍艦バロッサ号に乗せて長州に送りとどけてやりました。日本語に堪能なイギリス通訳官・アーネスト・サトウとエンスリーも四国代表の長州藩主への覚書を携えて日本語教師の中沢見作とともに同行しました。(リンクより引用)

  
しかし、藩は二人の説得むなしく、四国連合艦隊は長州を砲撃を開始します。そして艦隊の圧倒的な戦力に、たった3日で長州は講和を結ぶことになります。
そして以下の内容をイギリス、フランス、オランダと結びます。この講和を担ったのが伊藤と井上馨と高杉晋作と言われています。 

長州側の講和使節・宍戸刑馬(実は高杉晋作)は萌黄色の地に大きな淡青色の紋章(桐の葉と花)を描いた大紋(礼装用の直垂)に黒い烏帽子をつけ、白絹の下着は眼の覚めるような純白で、降伏の使節にもかかわらず、「まるで魔王のように傲然と構えていた」と連合軍側の通訳アーネスト・サトウは自著で語っています。「しかし、だんだん態度がやわらぎ、すべての提案をなんの反対もなく受け入れてしまった。それには大いに伊藤の影響があったようだ」(中略)その結果、以下については最終合意に達しました。
 
一、 海峡を通行する外国船に対しては親切な取り扱いをすること。
二、 石炭、食料、水、その他の必需品を購入できるようにすること。
三、 悪天候で避難する際には、乗組員の上陸を許すこと。
四、 新たな砲台は築かず、古い砲台を修築せず、大砲も据えつけないこと。
リンクより引用)

 
この事件から読み取れることは、四国連合艦隊による長州砲撃は、長州を西洋列強側に引き入れるための作戦であり、伊藤と井上は、その調停役としてイギリス側の策略どおりに動いたのではないか、ということです。
 
このとき、すでに二人は金貸しのエージェントとして長州を金貸し側に取り込み、倒幕へ向けての足がかりを築いた言ってよいでしょう。
 
イギリス留学中に接触したヒュー・マセソンやウィリアムソンを通じての影響か、留学半ばに帰国を許されてオールコック公使と面会した際に何らかの取引を行ったのか。長州ファイブの廻りは金貸しばかりだったのですから、留学先や帰国直後に何が起こっても不思議ではありません。
  
 
■初代総理大臣への軌跡

帰国後、桂小五郎(木戸孝允)、高杉晋作、井上馨、山県有朋らと討幕の志士として活躍した伊藤は、明治維新後、参与職や外国事務局判事、兵庫県知事など要職を歴任。活躍が目立つようになったこの時期に名前を俊輔から「博文」に改めている。そんな伊藤に再度洋行のチャンスが訪れた。まず一八七〇年(明治三年)、貨幣制度の調査のために渡米。翌一八七一年帰国するとすぐに岩倉使節団の副使に任命され、同年十二月には欧米視察の旅に出ることとなった。
 
岩倉使節団とは、明治新政府が欧米諸国との友好親善と文化視察を目的として送った使節団である。岩倉具視を特命全権大使とし、使節四六名、随員一八名、留学生四三名、計一〇七名の大所帯での旅立ちだった。
(中略)
伊藤の経歴をたどると、これほど何度も大海を渡った明治人がいたことに驚愕する。殖産興業や教育令発布など明治政府の中心人物として内政に尽力しただけでなく、一八八二年(明治一五年)には明治天皇に憲法調査のための渡欧を命じられるなど、政府きっての国際派としても敏腕を振るう八面六臂の活躍ぶりであった。ドイツ(プロイセン)・ベルリンとオーストリア・ウィーンで憲法を学び、帰国後大日本帝国憲法草案・制定に従事した。この渡欧の際、短期間であるが再度英国を訪れているようである。
 
一八八五年(明治一八年)、日本での内閣制度誕生に際し、初代内閣総理大臣に選ばれたのは伊藤だった。候補は太政大臣として政府の頂点に立っていた三条実美と、事実上政府を動かしていた伊藤の二人。藤原北家の嫡流であり華族の三条と貧農の足軽出身の伊藤。身分家柄の差は明らかだったため、総理大臣を決める宮中会議では誰もが黙ってなかなか意見を言えないでいたという。しかし沈黙を破ったのは、長州五傑の一人、井上馨だった。「これからの総理は赤電報(外国からの電報)が読めなくてはだめだ」。この言葉に「そうすると、伊藤君より他にはいないではないか」と山県有朋が返し、伊藤に決定したと言われている。(リンクより引用)

 
このような足跡を見ていくと、数々の要職を経て総理大臣に至るプロセスが、まるで約束されたかのように映ります。
 
決定的なのは、三条実美との総理選出一騎打ちの時の様子です。公家(北朝)出身の三条を抑えて、田布施町(南朝の末裔)出身の貧農が初代総理大臣の座を勝ち取ったのは、特筆すべきところです。金貸しの支援によってそのエージェントが国政のトップとなったのですから。
 
これが、エントリー冒頭に記したハモンド外務次官の描いた筋書きのとおりに事が運んだ証左と言えます。
 
そして総理大臣になって以降もイギリスへ赴くなど、事あるごとに金貸し(ジャーディン・マセソン商会→ロスチャイルド)との接触を持っていたことが伺えます。おそらくは、渡英の度に進捗の報告を行ったり、新たな指令を受けていたのかも知れません。
 
 
■晩年
  
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写真はこちらよりお借りしました。
   

日露戦争後の一九〇五年十一月、第二次日韓協約によって大韓帝国が日本の保護国となり、伊藤は韓国統監府初代統監として韓国に渡った。政府には韓国の植民地化(=併合)を急速に進めようとする軍閥が存在していたが、伊藤はあくまで併合反対の立場であり「保護国としての実質的統治で十分」という考えだった。しかし初代統監であったため抗日派の標的となり、一九〇九年十月二六日、独立運動家・安重根によってハルピン駅構内で暗殺された。享年六九歳だった(リンクより引用)

 
伊藤はハルピンにて韓国人の安重根の銃弾によって暗殺されたとあります。
 
伊藤の言う「実質的統治」とは金貸しの常套手段である「間接統治」に他ならず、そういう意味では金貸しの戦略を結果的に妨げた民族派の仕業なのか、それとも本音は統治以前に二国間の緊張状態→戦争を企てたかった金貸しの思惑どおりに動かなかった伊藤に対する暗殺だったのでしょうか?このあたりは今後の追求課題としたいと思います。
 
 
■まとめ
 
貧農の出身ながら、総理大臣という権力の頂点にまで上り詰めた伊藤博文。
その生涯を見てみるとイギリス留学以降、急速に金貸しとの接触があったであろうことが分かります。そして開国以降に数々の要職を務め総理大臣になった経緯も、金貸しと金貸しの代理人となったその他の日本人らの手によって成されたものであることも。
 
ある意味“貧農出身で出世した”という生涯も、別な見方をすれば平等観念を用いた金貸しによって“創られたサクセスストーリー”と言えるかも知れません。 
 
そんな伊藤博文は、間違いなく 金貸し代理人 認 定 です。

List    投稿者 heineken | 2013-02-07 | Posted in 未分類 | No Comments » 

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