2012-10-26

【幕末維新の代理人】黒船前夜〜アヘン戦争と英国による間接統治〜

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↑↑写真はユダヤ系財閥の東アジアの拠点となった1930年当時の上海 
 
本シリーズでは【幕末維新の代理人】をテーマに、近代以降における金貸しの日本支配の構築過程に着目しています。
過去記事は↓↓コチラ
 <プロローグ>激動の時代、金貸しに手を貸した幕末維新の代理人 
 
シリーズの舞台は幕末〜明治維新期の日本になりますが、少しばかり当時の世界情勢にも目を向けてみます。
  
 大航海時代以降、市場の旨みを得た商人階級が台頭すると、欧州の国家も重商主義=市場拡大路線に舵を切り、統合様式も「武力支配」から「資力による支配」へと代わりました。
 市場拡大路線は科学技術の進歩(船舶技術(ex.蒸気船⇒スクリュー船の開発)もたらし、イギリス・フランスを筆頭とした交易路開拓=植民地拡大競争はインド⇒東南アジア⇒東アジアへと広がっていきます。
 幕末〜明治維新期の日本は、この市場拡大競争の中に取り込まれていった時代であったと捉えるべきでしょう。
 
中でも日本の開国に少なからず影響を与えたというのが、隣の国の清のアヘン戦争だと言われます。
今回の記事ではこの戦争で暗躍した金貸しの存在と、アヘン戦争後の英国による間接統治に注目してみます。
 
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まずは、アヘン戦争が起きた背景を押さえてみましょう。
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↑↑アヘンをキセルで吸引している様子(画像はコチラよりお借りしました)
 

 当時のイギリスは、茶、陶磁器、絹を大量に清から輸入していた。
 一方、イギリスから清へ輸出されるものは時計や望遠鏡のような富裕層向けの物品はあったものの、大量に輸出可能な製品が存在しなかったうえ、イギリスの大幅な輸入超過であった。
 イギリスは産業革命による資本蓄積やアメリカ独立戦争の戦費確保のため、銀の国外流出を抑制する政策をとった。そのためイギリスは植民地のインドで栽培したアヘンを清に密輸出する事で超過分を相殺し、三角貿易を整えることとなった。
 
 清では、既に1796年(嘉慶元年)にアヘンの輸入を禁止していた。禁止令は19世紀に入ってからも何度となく発せられたが、アヘンの密輸入は止まず、また国内産アヘンの取り締まりも効果がなかったので、清国内にアヘン吸引の悪弊が広まっていき、健康を害する者が多くなり、風紀も退廃していった。また、アヘンの代金を銀で決済したことから、アヘンの輸入量増加により貿易収支が逆転、清国内の銀保有量が激減し後述のとおり銀の高騰を招いた。
 
:::中略:::
  
1839年11月3日、林則徐による貿易拒否の返答を口実にイギリスは戦火を開き、清国船団を壊滅させた。(Wikipedia「阿片戦争」より)

 
 お隣清国の敗戦は当時の日本にも大きなインパクトを与え、その後の開国機運の高まりにも大きな影響を与えました。ここまでは歴史の授業でも取り扱われますが、この戦争の背後で暗躍していたのが金貸しの存在です。
 
●アヘン戦争で暗躍した欧州の金貸し 
①サッスーン商会 
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写真はアヘン王=デビッド・サッスーン
 

・まず、有名な「アヘン商人」といえば、中東出身のユダヤ人デビッド・サッスーンが挙げられる。 
 彼は1832年にインドのボンベイで「サッスーン商会」を設立し、アヘンを密売し始めた。イギリスの「東インド会社」からアヘンの専売権をとった「サッスーン商会」は、中国で売り払い、とてつもない利益を上げ、中国の銀を運び出した。 
(※ デビッド・サッスーンは「アヘン王」と呼ばれた。彼はイギリス紅茶の総元締めでもあり、麻薬と紅茶は、サッスーンの手の中で同時に動かされていたのである)。
 
・やがて、清国がアヘン輸入禁止令を出したことに端を発した「アヘン戦争」(1840年)が勃発。敗れた清国は、南京条約により上海など5港の開港と香港の割譲、さらに賠償金2億1000万両を支払わされ、イギリスをはじめ列国の中国侵略の足がかりをつくることになる。その意味では、「サッスーン財閥」はヨーロッパ列国に、第一級の功績を立てさせたアヘン密売人だった。
 
・アヘン戦争以降、ユダヤ財閥たちは競って中国へ上陸していった。
 「サッスーン財閥」はロンドンに本部を置き、上海に営業所を設け、英・米・仏・独・ベルギーなどのユダヤ系商事会社、銀行を組合員に持ち、「イングランド銀行」および「香港上海銀行」を親銀行に、鉄道、運輸、鉱山、牧畜、建設、土地・為替売買、金融保証を主な営業科目として、インド、東南アジア、インドシナ、中国に投資を展開していった。 
  
・1930年には、彼らの極東開発計画のため、上海に「サッスーン財閥」の本拠地を建設し、25億ドルの資本による「50年投資計画」を開始した。(毎年1億ドルの投資を25年間継続して、中国の経済と財政を完全に掌中に握り、後半期25年で、投資額の4倍の利益を搾取する、というのが当時の彼らの計算であった)。
リンクより

 
 自ら秩序混乱のタネをまき、国家対国家の戦争の混乱に乗じて、市場に進出。一大コンチェルンを築きあげ、清国内の市場の旨みを得る構造をしっかり手中にしてしまったのです。
 ただ、アヘン戦争は開戦理由が「麻薬の密輸」であるため、清教徒的な考えをもつイギリス本国でも「こんな恥さらしな戦争はない」などと反発が強かったようです。
 しかし、議会へのロビー活動により開戦へと導いたのも金貸しの存在です。
 
②ジャーディン・マセソン商会 
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↑↑ジャーディン・マセソン商会のマーク

設立当初の主な業務は、アヘンの密輸と茶のイギリスへの輸出。同じロスチャイルド系の香港上海銀行(HSBC)は、ジャーディン・マセソンなどが香港で稼いだ資金をイギリス本国に送金するために設立された銀行である。

清とイギリスとの間で1840年から2年間にわたって行われたアヘン戦争に深く関わっている。 
 アヘンの輸入を規制しようとする清朝政府とイギリスの争いが起こった際に、当時のアヘン商人の一つであるジャーディン・マセソン商会のロビー活動により、イギリス本国の国会は9票(賛成271票、反対262票)という僅差で軍の派遣を決定した。
リンク

 
どうですか? 
国家をそそのかし戦争を企て、自らは市場の旨みを手に入れるという金貸しの常套手段はアヘン戦争においてもみられます。
もう一つ注目したいのが、当時のイギリスの植民地政策であった間接統治です。
●イギリスの植民地政策=間接統治 
 
間接統治とは、もともと被支配国内に存在した支配階級にある程度の権限を与えることで、被支配階級を支配させつづけることによって支配を安定させるというシステムです。
 これによって被支配階級は反抗しようという意識をもたず、支配階級は依然として特権を受けつづけられる。しかもイギリス自体は支配階級と被支配階級の対立を深めるような政策をとることで、イギリスに対する現地民たちの不満を回避し、さらには漁夫の利を得てさらに影響力を拡大することができる、というメリットがあります。
 また、本国より遠隔地に武力を派遣し、直接統治するよりもコストメリットがあったようです。
この間接統治の手法は、近代から現代に続く戦後日本のアメリカ支配構造と続いていることがよく分かります。
 
この手法はアヘン戦争後の清国でも用いられたようです。
リンクより

では何故、英国などの列強は、支那を植民地にしなかったのか、という疑問が残ろうかと思います。
その理由は、ひとつには支那が広大であることが挙げられようかと思います。
けれど、もっと大きな理由は、支那が清国政府という外来王朝であった、ということです。
 :::中略:::
 
そもそも欧米が東洋諸国を植民地支配した諸国では、華人、つまり支那人の漢人たちを、支配地の統治のために用いています。
たとえばマレーシアなら、そもそものマレー人達を支配するのに際して、マレー半島に住む少数民族である漢人たちに、準支配者としての地位を与え、彼らに利権を与えることで、マレー人の反乱を阻止し、国土を制してきたのです。
これを「分断統治」といいます。
同じ国に住む貧しい少数民族に利権を与え、これを用いることで自分たちは直接には手を汚さずに現地人を支配し、収奪するという手法がとられていたのです。
:::中略:::
阿片戦争が勃発した当時の支那は、欧米列強から見たら、すでに少数民族の清朝が政権をとっていました。
支那を植民地支配するなら、この清朝政府を支配下に置くか、新たに別な少数民族を清朝に代わる統治者に据える必要があったのです。
けれど、そうなると、既に植民地支配している東亜諸国の華人の配下たちが反乱を起こす危険がある。
こうなると、二兎を追う者は一兎を得ずとなります。
 
:::中略:::
 
当時の英国にとって、阿片戦争は、あくまで阿片貿易の継続のために行われたものにすぎません。
仮に紫禁城を制圧し、女真人による外来王朝である清朝政府を打ち倒し、漢民族による政権を支那に誕生させたら、どうなるのでしょう。
 
 漢人たちは、英国が東亜諸国の植民地統治するために、あくまで少数民族の準支配階層として、汚れ役をやるための手足として使っている人たちです。
その手足に、広大な領地を持った自前の国家を与える。
 
植民地統治は、あくまで民族の分断統治が大原則です。
その分断のはずが、漢民族に国家を与えることは、統合を与えることになります。
いままで、英国人にとっての被支配階層であった東亜諸国の漢人たちに、広大な国家を与えたら何が起こるか。
下手をすれば英国が統治している東亜諸国の植民地で面倒な反乱が続発しないとも限りません。
そんなバカなことをするくらいなら、まだ女真人による外来王朝を支那に継続させておいた方が、英国にとって、まだメリットがあるというものです。

●まとめ 
・幕末期の日本は東アジアが欧米列強国の市場拡大競争に飲み込まれて行く時期に重なります。日本に先立ち、お隣の清はアヘン戦争をきっかけに欧州金貸しの国内への市場進出を許すことになります。そこでは混乱に乗じて市場の旨みを得る金貸しの常套手段が用いられていたのです。
この手法は日本での幕末期の混乱〜維新後の金貸し進出でも同じように適用されれていくのです…
 
幕末期の日本においてはどうだったのか?
続きをお楽しみに

List    投稿者 Shimicho | 2012-10-26 | Posted in 02.日本の金貸したちNo Comments » 

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