2011-09-20

世界の闇の支配勢力から日本の支配史を読み解く 【歴史No.3 鎖国の狙い 〜貿易を独占し、大名の経済基盤を奪った江戸幕府〜】

シリーズでお送りする「世界の闇の支配勢力から日本の支配史を読み解く」江戸編、
No.1 幕府の独占貿易 〜本当は鎖国ではなかった江戸時代〜
NO.2 金貸し(カトリック)の狙い⇔時の為政者の思惑

に続いて、今回は「鎖国」の本当の狙いは何だったのか?をお送りします。
No.1でも言及しましたが、江戸時代は長崎の「出島」を除いて海外との貿易(通商)がない、いわば鎖国状態だったと、わたしたちは学校教育で習ってきました。

※画像は、長崎のミニ出島(模型) こちらからお借りしました♪
しかし、鎖国なのに出島があったのはなぜなのか?やはり気になります。
今回は、鎖国に対する江戸幕府の真の狙いを金貸しブログらしく、経済面から明らかにしていきたいと思います。
◆1.海外貿易に積極的だった家康

鎖国というと自給自足のイメージがありますが、当時の世界は既にグローバリズムが広がりつつあり、江戸黎明期には南蛮貿易が盛んでした。鎖国→自給自足だから通商(貿易)がなかったわけではありません。
時の権力者・徳川家康も、実は貿易に積極的だったという事実があります。

秀吉の死後しばらくは家康も『朱印船貿易の利益』を『キリスト教布教の弊害(スペイン・ポルトガルの植民地政策への警戒やキリシタンの一揆勢力化)』よりも重視して、フランシスコ会に江戸界隈での限定的な布教の自由を認めていました。豊臣秀吉は1586年(天正14年)3月16日に大坂城でイエズス会宣教師ガスパール・コエリョを引見していますが、徳川家康も1598年(慶長3)12月に、フランシスコ会宣教師ヘロニモ・デ・ヘスースを伏見城で引見して各種の貿易活性化のための要請をしています。家康がヘロニモ・デ・ヘスースに要請したのは、メキシコ貿易に携わるスペイン船の浦賀(相模国)への寄港であり、恒常的なメキシコ貿易を行なうためのフィリピン総督への取次ぎでした。
家康は当時先進国であったスペインの技術を輸入するために、フィリピン総督に航海士や鉱山技師の派遣も求めており、キリスト教布教の一時的容認と引き換えにスペイン貿易の利益と先端技術の導入を図ろうとしたのでした。1592年から秀吉が始めたとされる朱印船貿易(南蛮貿易)では、マニラ(フィリピン)・アユタヤ(タイ中部)・パタニ(タイ南部)などと貿易を行ないましたが、家康は1601年の段階で制度としての朱印船貿易を確立し、マカオ・ルソン・シャム・ジャワ・中国南部・インドシナ半島など東南アジア全域で活発に貿易を行いました。海禁政策を採っていた明(中国)とは朱印船貿易を行うことができず、李氏朝鮮との交易は対馬藩の宗氏に一任されている状態でした。1635年に、日本人の海外渡航禁止令が出されたことで朱印船貿易は終結を迎えます。
るいネット
メルマガ

(さらに…)

  投稿者 pipi38 | 2011-09-20 | Posted in 02.日本の金貸したち12 Comments »