2010-05-29

「私権の失速・私権体制の崩壊」シリーズ(8)私権の衰弱=本源共認の再生可能性

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 ここまで、「実現論 第三部」を紹介しながら、現代の社会状況の実像を探るものとして、「私権の失速・私権体制の崩壊」シリーズとして7回の記事を重ねてきました。
 前半では市場の崩壊とその構造を解明してきました。そして前回は市場の崩壊を始め、社会が閉塞状況に至っているにも関わらず、何も考えなくなってしまった。=思考停止状態にあるということを扱いました。
 
 今回は、引き続き、その思考停止状態がなぜ起きているのか?今後の可能性は?というところを扱ってゆきたいと思います。
 
 
 
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引き続き、実現論 第3部:滅亡 ホ.「観念機能、作動せず。」=思考停止から引用してゆきましょう。
 
  

 しかし、市場社会になると、それらの共同体は悉く解体されて、私権を確保しさえすればそれだけで生存が保障される様になり、その結果、己の私権に関わること(異性の獲得や入試・就職や地位・職務)以外のことは、己の属する集団のことも社会のことも、何も考えなくなって終った。それでも、貧困の圧力が働いていた’70年までは、私権を確保する為に(賃上げや民主主義など)考えるべき社会課題は残っていた。しかし、貧困が消滅し、私権の確保が容易になると、文字通り(遊ぶこと以外)何も考えなくなって終った。

 
 
 
■市場社会と共同体社会の違いは?
 
<共同体社会>
 
 実現論に書かれている通り、集団で生存課題を突破しなければ生きるための糧は得られない。従って、集団としての課題(個人を超えた社会課題)に皆が頭を使って答えを出そうとしていた。集団として課題を突破する共同体においては、法律などなくとも不文律として村の規範が守られていた。個人では生きていけないからこそ規範を守り、共同体を守っていく必要性があった。
 
<市場社会>
 
 共同体社会が、集団として課題に取り組む必要があったのに対し、市場社会は個人での私権獲得可能性が開かれ、なんであれお金があれば生きていける社会。私権獲得可能性が開かれることにより共同体が破壊されていった。
 (市場社会の拡大による村落共同体の解体・都市化 → 社会における専門分化・核家族化・個人主義化)
 
 そこでの主課題は己の私権獲得であり、私権獲得と本源共認の代償充足である遊び意外に頭を使わない。すなわち、社会全体の課題については誰も考えなくなってしまったといっても過言ではない。
 
 社会全体の課題に対し誰も向き合おうとしない根本原因は、すべての人はバラバラで共認非充足の状態であるということが上げられます。この私権社会を貫く、「共認非充足」という状態こそ、人々を代償充足と言う、課題や状況、外圧を捨象し、認識力を麻痺させる麻薬のような充足に夢中にさせるに至る根本原因なのです。
  
<参考投稿>
傍観者意識こそ私権時代の最基底
忘れ去られた感覚を呼び覚ます
 
参考になりますね 🙂
では再び実現論 第3部:滅亡 ホ.「観念機能、作動せず。」=思考停止 に戻ります。

 だが、よく考えてみれば、私権の強制圧力が衰弱したということは、長い間抑圧され続けてきた本源共認の再生可能性が開かれたということであり、本来ならその可能性に強く収束してゆく筈である。まして、滅亡の危機が迫っているとなれば、本来なら必死になって滅亡からの脱出口を考えている筈である。いったい、なぜ何もしようとせず、誰も考えようとしないのか? 全ては、私権にしか反応しない様に徹底して囲い込まれてきた結果である。私権(性権→占有権)を唯一絶対価値とし、私権に関わること以外のことは徹底して排除するその脳回路上では、私権が確保されている以上、もはや何の生存圧力=危機圧力も働かず、危機圧力が働かない以上、危機脱出に向かおうとする可能性収束力=新しい活力(何かをやろうとする気持ち)が生じない。同様に、本源収束の可能性が開かれても、私権にしか収束しない様に囲い込まれた脳回路は、自ら(=私権)と対立する本源意識を徹底して排除する。しかも、私権にしか収束しないこの脳回路自身は、私権の衰弱に応じて、際限なく自らの活力を衰弱させてゆく。こうして私権にしか反応しない脳回路は、私権が衰弱すると一切何も反応しなくなって終った。

■私権にしか収束しない脳回路になってしまったのは?
 
「次代を読む」より
 しかも、現実に背を向けたその狂った観念が、人々の頭の中を支配してしまっている。その結果、人々が何か物を考えようとしても、その観念を足がかりにするしかないので、考えれば考えるほど狂った観念世界に嵌り込んでゆき、まともに物を考えることが出来なくなる。だから、まともな人々は、むしろそんな観念など見向きもしなくなり、物を考えることまで止めて終った。全般的な思考停止である。
 
 この社会は、人々の共認によって成り立っている。従って、共認形成こそ、社会形成の生命部である。だが、その共認形成が発信階級によって支配され、しかもその中身=観念が狂っているとしたら(そしてその結果、普通の人々は思考停止状態にあるとしたら)、社会は全面閉塞に陥るしかない。
 
 現代社会の至る所で噴出する異常現象は、全てこの異常な現実否定→倒錯思考の観念パラダイムが生み出したものであると言っても過言ではない。しかも、その旧観念は、新しい可能性の出口を塞ぎ、人々の活力を奪い取ってゆく。従って、知識人が撒き散らす旧観念こそ、この社会を全面閉塞させた真犯人なのである。
 
 
※旧観念=古代宗教や近代思想(恋愛・自由・個人・人権etc.)のこと。旧観念の深層には、私権闘争が生み出す苦の現実(戦争や支配や貧困)への否定意識や変革不可能視が刻印されている。つまり、現実の中に可能性を求めるのではなく、現実(の自分や人々)を非充足のまま放置して頭の中だけで代償充足を与える倒錯観念・代償観念である。
 
 
■本源共認の再生可能性??
 
 本源共認とは、本源集団における心の奥底まで同化し合える地平、即ち極論すれば言葉を用いずとも共認しあえる状態を示す。明治以前(市場開放以前)までは、村落共同体を中心とした本源共認による共同体が数多く残されていた。そこでは、共認を軸とした規範(不文律)が存在し、言葉数少なくとも解り合える安心基盤の元で人々が暮らしていたのだろう。
  
 一方、市場社会では己の私権を誰もが優先する社会。廻りは全て敵という中で、私権獲得に向かってゆくわけですから、当然、本源共認充足欠乏は満たされないまま抑圧されている。私権が衰弱したと言っても社会的な枠組みは市場社会(私権社会)のままで脳回路自体も私権体質のままなので、直ぐには本源充足には向かっていかない。
 
 市場社会に移行したときに失った、本源共認を再生することによって、社会課題への取り組み、ひいてはその後の社会の統合へと「思考」が動き出すのではないでしょうか?

List    投稿者 pandaman | 2010-05-29 | Posted in 未分類 | 1 Comment » 

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