2011-06-13

ブログ『(新)日本の黒い霧』の紹介−(6)救助開始前に現場に現れた謎の部隊

ブログ『(新)日本の黒い霧』を紹介する第6回
◆過去の記事
第1回 (1)戦争の実像
第2回 (2)圧力隔壁説も自衛隊撃墜説も真実ではない
第3回 (3)墜落を知りながら意図的に発表を遅らせた米軍・自衛隊
第4回 (4)「事故直後に墜落機を発見」アントヌッチ証言の真偽は?
第5回 (5)墜落現場周辺で発見された驚愕の物的証拠とは?
123便の推定墜落時刻は8月12日18時56分、「公式発表上」の話では、「測定に誤差はつきもの」「現場を確認しても地図に落とすのは難しい」などの理由から、現場特定に10時間もの時間を要した結果、実際に救助隊が現地入りした時刻は墜落から約14時間後の13日午前8時半前後になりました。

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画像はこちらからお借りしました

ブログ管理人は、墜落後10時間もたって現場が特定された裏側には、米軍と自衛隊の深い関与の存在を指摘していましたが、前回紹介したエントリーで取り上げられた数々の物証から、現場では複数の軍用機が入り乱れた空中ミサイル戦が行われた可能性が極めて濃厚になりました。
(米軍・自衛隊はミサイル戦の事実を隠蔽するために、意図的に事故現場発表を遅らせたと言える)
ブログ管理人は、ミサイル説を推測するにあたって、墜落事故直後、一早く現場に入った民間人(M氏)の証言を引き出しています。
M氏は事故の速報を知るやいなや、仲間と共にバイクに跨って自宅を飛び出し、途中から徒歩に切り替えて13日午前4時ごろに現地へ到着しています。
(救助隊が到着する4時間半前の状況を掴んでいます。)
その時の様子は?
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JAL123便墜落事故−真相を追う− 闇夜に蠢くもの(4)より。
(赤字は引用者による)

■事故現場を訪れた最初の民間人、M氏の証言
それでは、お約束とおり、1985年の8月12日から翌日の8月13日にかけて、JAL123便の事故現場となった御巣鷹の尾根に向かった、M氏の証言をご紹介します。なお、この証言は、本年6月、当ブログ管理者が講師を務めた小グループのセミナーにM氏をお招きし、その席上で証言いただいたものを筆録・編集したものです。発言主旨に誤りはないと思いますが、予めお断りしておきます。
—————————–(ここから)——————————-
司会:それでは、Mさんよろしくお願いします。Mさんは事故当夜、現場に向かわれたそうですが、まず、そのいきさつを教えてください。
M氏[1]:私の実家は、事故現場から見て西側、長野県の方にあります。当時は大学を卒業して社会人になったばかりで、事故当日はお盆ということもあり、たまたま実家に帰省していました。
事故の速報を知ったのが、12日夕方の7時過ぎ頃だったと思います。その時は墜落現場は(長野県の)北相木村付近という報道でした。そこで、北相木村やもっと南に位置する川上村に住む知り合いに電話を掛けて様子を尋ねたところ、どちらも墜落は確認できてないとのことなので、残るは南相木村の山間部しかないと思い、そちらに向かいました。たまたま高校時代の友人2名と一緒だったので、事故現場に行ってみようということになりました。まだ、若かったですから、その時はただ、何としても現場に1番乗りしてやるぞ、インタビューされてテレビに映ってやるぞ、ぐらいの本当に軽い気持ちしかありませんでした。
オフロードバイクにまたがり、友人2人(それぞれオフロードとオンロードバイクを使用)と共に南相木村に向けて出発し、おそらく21時頃までには南相木村からの林道に入っていたと思います。ただし、オンロードバイクの友人は途中でこの行程から抜け、林道から先を進んだのは、オフロードにのったボクたち2人だけです。
司会:その時刻はまだ、墜落地点は判明してませんでしたよね(公式発表は翌朝5時以降)。そこからどこに進めばよいか、どう判断したのですか?
M氏[2]:そんなの訳ないですよ。上空で戦闘機が、それもおそらく2機がぐるぐる旋回している音がしてましたから、墜落現場はその(旋回)音の中心付近だなとすぐに分かりました。そこで、バイクで可能な限り近くの林道を進んで、そこから先は徒歩で山に入ることにしました。
司会:ええっ?じゃぁもうその時点で墜落地点はわかっていたと・・・
M氏[3]:はい。当然、警察も分かっていたはずですよ。だってボクたちが南相木村へ向かってるその後ろから、警察の白バイもついてきましたから。でも、普通のバイクなので切返しの多い山道に難渋していて、オフロードに乗ったボクたちは簡単に振り切っちゃいましたけど(笑)。
林道の終点から山に入ってからは、途中、山の頂きへ登る度に、ヘリの音がする方向を探して、墜落地点を確認しました。ヘリは同じところを一晩中飛んでいたので、墜落地点は当然分かっているものと思いました。
司会:すると、林道から先は、徒歩で夜の山に分け入ったのですか。危険だと思わなかったのですか?
M氏[4]:あの辺の山の持ち主(の息子)とか知ってますし、一緒に山に入って遊んでましたから、どんなところかは大体わかっていました。松の木と岩が多い所なんですよ。もちろん、急峻で険しい所だとも知ってますから、この先へ進むのは中々たいへんだなと思いましたよ。
とにかく、墜落現場に向かってまっすぐ進むことしか考えていませんから、きつい傾斜や時にはオーバーハングを超えて、山道なんか関係なく、強引にいくつも尾根を跨いで行きました。ですから、直線距離でわずか7,8キロの行程なのに、山に入ってから現場に着くまで6〜7時間くらいかかりました。着いたのは、午前4時前後だったはずです。
司会:午前4時という時刻はどうやって確認したのですか?
M氏[5]:当時は、時計を身に付ける習慣はなかったのですか、着いた時に山の尾根付近が白み始めていたので、おそらくそれぐらいの時間だと思いました。
(管理者註:夏の山頂付近は明るくなるのが早い)
司会:そこで何を見ましたか?
M氏[6]既に自衛隊員が7〜80人、いや100人位は来ていました。それを見て、自分たちは一番乗りできなかったと思いましたね。同時に、事故犠牲者の呻き声が谷にこだまし、響き渡っているのがはっきりと聴こえました。
司会:ええっ?その時に生きて声を出している人が居たのですか!!どれくらいの人が生きていたのでしょう?
M氏[7]:全部を数えた訳ではありませんが、声の響き方からすると少なくても4〜50人は居たと思います。実際に、苦しそうに声をあげている人を私も間近で何人か見ています。自衛隊の人たちがいる以上、自分たちができることは、負傷者のいる場所を教え、早く救助してもらうことだと思い、呻き声のするあたりを探しては、その場所を隊員さんに伝え、早い手当を頼んでいました。
ただ、隊員さんの対応には不信感を覚えましたね。「へたに動かすと危険なので、後から来る部隊が手当することになっている」と言うだけで、何もしようとしない。手にした4〜50cm 位の丸いバッグに、地面から拾った物を黙々と入れ続けている。
司会:自衛隊員は何を拾っていたのでしょう?
M氏[8]:まだ暗くてよく見えなかったので、それが何かまではわかりませんでした。ボイスレコーダーとか、何か貴重な物なんだろうと思っていました。私が覚えている隊員さんの装備は、バッグの他に、片手に抜き身の大型アーミーナイフ、目には暗視ゴーグル、また、靴はつま先の短い短靴を履いており、傾斜のきついこの山のことをよく調べて入っているなと思いました。
ちょっとひどいなと思ったのは、斜面を登り、尾根の反対側に出たら、向こうの谷ではヘリコプターがホバリングしているじゃないですか、ヘリが来ているならさっさと救助しろよと思いましたね。しかも、ヘリの下では、さっき隊員さんたちが何かを入れていたバックを10数個まとめ、ネットに入れて吊り上げていました。何度も吊り上げていたので、全部で70個くらいのバッグが回収されたと思います。
司会:現場にはどれくらい滞在したのですか?
M氏[9]到着してから1時間後くらいに、自衛隊の次の部隊が続々と到着してきました。また、暗視スコープを装着していた最初の部隊も引き上げる体制に移っていたので、もうこれで大丈夫と思い、この時に下山を始めました。なお、次の部隊は、山で歩きにくいブーツ姿だったので、これでちゃんと歩けるのかな?と思いました。
セミナー参加者からの質問
Q1:4〜50人居たという、呻き声の人たちはどうなってしまったのでしょう?
M氏[10]:それはボクもずっと不思議に思っていたのですが、下山を開始する朝の5時過ぎ頃には、谷の呻き声がピタリと止んでいました。
Q2:この事故の生存者は4人の女性でしたが、その他にも助かりそうな人はいませんでしたか?
M氏[11]:ボクが見た負傷者の中に、指先が1本ちぎれただけの男の人がいました。「この程度なら死ぬことはないな」と思い、救助活動(隊員への声かけ)を後回しにしたのをはっきりと覚えています。あの人がどうなったのか、ボクにも分かりません。
Q3:事故調査委員会が、当夜、墜落場所発見が困難だったと報告しています。しかし、Mさんは夜を徹して現場に到達している。この報告をどう思いますか。
M氏[12]:日頃から遭難者の多い現地周辺にはCB無線による救助網が敷かれています。無線機を持った人員を担当箇所に登らせて無線を交わせば、夜間に炎上しているような目立つものなら訳なく見つけ出せるはず。どうしてこんなに時間がかかったのか分かりません。
(管理者註:というか、本当はとっくに見つけ出していますが・・)
Q4:大型アーミーナイフは何に使われていたのでしょう?
M氏[13]:それは見ていないので分かりません。
Q5:現場で身の危険を感じたり、二人を排除するような動きはありませんでしたか?
M氏[14]:そういうことは特に感じませんでした。
Q6:機体が激しく衝突し炎上した墜落現場に木立が残っているのは不自然だとよく指摘されるのですが、実際に見てどうでしたか?
M氏[15]:言われてみたら、確かに変ですよね。林立している木の間に機体の破片や、遺体(の一部が)飛散していましたから。それに、あの辺りは針葉樹が多い山ですから、機体から火が出たらあっという間に周囲に燃え広がるはず。それにしちゃ、あまり燃えてなかったなぁ、変だなぁ。
Q7:事故調査委員会が、生存者4人の発見を奇跡的だと報告しています。しかし、Mさんは生きてきる何10人もの声を聞いている。この報告について改めて感想を聞かせてください。
M氏[16]:報告は嘘だと思います。明らかにもっと多くの方の命を救うことができたはずです。
Q8:その他、現場で見て、何か変だと思ったことを教えてください。
M氏[17]:山で遭難して遺体になると、狐や狸など、山の動物にひどく食い荒らされるのですが、現場で見た遺体には、奴らが手をつけた痕跡がまるでない、それは山を知る者としてはたいへん不思議な事です。
司会:ありがとうございました。
—————————–(ここまで)——————————-
以上、M氏の証言でした。この証言からわかることを、以下箇条書きにします。
・13日午前4時、公式発表ではまだ発見されていないはずの墜落現場に
 自衛隊員が既に100名程度来ていた
・自衛隊員は人命救助よりも何かの回収を優先していた
・4〜50名の生存者の声が聴こえた
・1時間後には生存者の声が全く聴こえなくなった
私は、この証言についてはなるべく想像を逞しくしないようにしてます。たいへん恐ろしい想像をしてしまうからです。しかし、M氏の証言を詳しく検証することにより、この事故の謎を解く新たな事実が浮かび上がります。それについては次回に説明を譲りましょう。

M氏が到着してすぐは、まだ40〜50名もの生存者がいたであろうにも関わらず、「自衛隊と見られる」部隊が人命救助より、問題になりそうな物品の回収を優先していた、という生々しい証言です。
そして現場からは、後に到着した救助隊によって4名の生存者が発見されることになりますが、M氏が現場に到着してから救助隊が来るまでの4時半の間、他の生存者達の身に一体何が起きてしまったのか?
引き続きブログ管理人は、123便墜落事故を巡る背後の勢力や、数々の物証群を元にして、事故の核心に迫っていきます。

List    投稿者 wabisawa | 2011-06-13 | Posted in 未分類 | 4 Comments » 

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コメント4件

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