2010-02-16

自主管理への招待(4)「頭の中だけの自己」から「実現対象」への追求ベクトルの転換

我々現代人は、「自由」な時代に生まれ、何不自由なく生きているつもりだったが、それで一体何を得たのだろうか。
どんどんと労働時間を短縮させて余暇の時間を作り出すことが、生き甲斐に繋がったのだろうか。何でも簡単に手に入る豊かな社会になったが、充足度は増したのだろうか。
豊かさを追い求めた結果が環境破壊であり、自由な利益追求の結果が金融崩危機だとしたら、何のための「自由」だったのか。
今回は、近・現代人を支配してきた「近代思想」の正体に迫ります。
続きを読む前にポチっと宜しくおねがいします

にほんブログ村 経済ブログへ


るいネット【自主管理への招待(4)】より転載します。
———————————————————————-

自らの存在を現実に実現してゆこうとすれば、常に現実の対象世界が立ち現れる。そこでは、まず対象世界の構造を把握し、自己を実現し得るような対象的基盤を獲得してゆかなければ、何も実現することはできない。だが近代思想は、このような対象世界の実現の構造を何ひとつ見極めようとせず、むしろ常に対象から目を背け、現実から逃避して、頭の中でだけ「現実」を否定し「自己」を美化し続けてきた。いま求められているのは、<自己から対象へ>の認識ベクトルの転換である。

———————————————————————-
%E7%AC%91%E9%A1%94%E3%81%AE~1.JPG
(充足系お母さん:生産と労働こそが充足の素)
———————————————————————-

人間と社会の存在の本質を成しているのは、生産と労働である。だから、現実の生産を捨象した「社会」は、本当の社会ではない。現実の労働を捨象した「個人」は、もはや個人ではない。しかし、近代の運動は、このような本質的な生産活動とその現実的な社会対象を、ほぼ一貫して欠落させ、代わりに無内容な自意識だけを際限なく肥大させてきた。要するに近代人は、現実の中に可能性を求めるのではなく、現実とは逆転した、自己の観念空間に自足の場を求めてきたのである。

———————————————————————-
%E3%83%A2%E3%83%80%E3%83%B3%E3%82%BF%E3%82%A4%E3%83%A0%E3%82%B9.jpg
(モダンタイムズ:いくら自由を唱えたとこどで、現実の労働の場は何も変わらなかった)
———————————————————————-

かつて奴隷は武力によって支配され、自己の社会的な実現の可能性を全面的に剥奪されていた。対象を失った彼らの人間的な欠乏(欲望または願望)は、現実に閉塞されて内面へと転倒し、全ての現実(俗世)に背を向けてひたすら自己内部の非存在の世界に、その対象を結晶させていった。こうして生み出された神を典型とする非存在の主体は、奴隷にとって唯一の人間の証しであった。だが、近代の労働者は奴隷ではない。近代人は閉塞されているどころか、この社会の競争関係を構成する競争の主体として、現実に開き出されて存在している。状況が開かれたからこそ近代の思想は人間の解放を唱え、社会変革を叫ぶことができたのである。にも拘らずそれは、自己の現実の存在から断絶した、観念空間での解放と変革にすぎなかった。これは、宗教と同じである。近代思想は、その根底を成す認識構造において、二千年におよぶ奴隷の習性から一歩も脱却できずに、宗教の目(神=非存在の主体の認識構造)をそっくり踏襲してきたのである。

———————————————————————-
近代思想は宗教をそっくり踏襲している、とはどういうことなのか、るいネットより参考となる投稿を紹介します。
 「近代思想は宗教と同根」
 「宗教の認識論と近代思想」 
「近代思想=現実捨象の認識論」 
「観念パラダイムの逆転2 現実否定の倒錯思考」
———————————————————————-

近代思想の正体は、すでに明らかであろう。つまり近代思想は、労働者の属性である〈誰かに雇われるのでなければ、自分では生きてゆけない〉奴隷的な現実を、不動の前提として組み立てられており、それ故その認識は、常に自己の現実から目を背けて非存在の世界へと収束されてゆく仕組みになっている。この宗教的仕組みによって、近代思想はもっぱら奴隷(雇われ人)であることを美化し正当化する事に腐心してきた。そして、現実には一度も奴隷であることをやめようとはしなかったのである。だから、近代思想とは、奴隷の思想に他ならない。近代思想には、そもそも奴隷である事をやめる意思など、はじめから無かったのである。だからこそ近代思想は、実現の意思の下にはじめて必要となる対象世界の認識を欠落させたまま、平然としていられたのである。だが、まさにこの実現の意思の欠如と対象の認識の欠如の故に、個人主義の思想はただのエゴの塊と化し、個人主義の運動は、ただ社会にブラ下がるだけの運動と化して終ったのである。

———————————————————————-
「人間と社会の存在の本質を成しているのは、生産と労働である」というのは、近代思想に慣れ親しんだ現代人にとっては、目から鱗の名言です。
私たちが求めているものは、次から次へと必要もない物を買い続ける「豊かな消費生活」でもなければ、現実から逃避し幻想世界で遊ぶことでもありません。
【働く=傍(はた)を楽にする】 ことこそが人間の生き甲斐であり、日常的な現実の中にこそ充足があるのです。
そのためにも、現実否定の近代思想から脱却し、現実に立脚した新しい認識へと転換していくことが求められます。
次稿は『自主管理への招待(5) 否定し要求するだけの「閉塞の哲学」から、実現対象を獲得した「解放の哲学」へ』です。ご期待ください

List    投稿者 shijimi | 2010-02-16 | Posted in 未分類 | 2 Comments » 

トラックバック

このエントリーのトラックバックURL:
http://www.kanekashi.com/blog/2010/02/1183.html/trackback


コメント2件

 ireland hermes handbags | 2014.02.01 15:38

hermes outlet in new york 金貸しは、国家を相手に金を貸す | BRICs徹底分析〜最終回、4カ国の今後はどうなる

 wholesale bags | 2014.02.10 6:17

金貸しは、国家を相手に金を貸す | BRICs徹底分析〜最終回、4カ国の今後はどうなる

Comment



Comment