2013-10-01

【幕末維新の代理人】代理人認定#8 岩崎弥太郎 第2回〜三菱の礎 いろは丸沈没事件の謎〜

西郷隆盛の弟である西郷従道が農商務卿に就いていた時、「三菱の暴富は国賊なり」と非難すると、弥太郎は「三菱が国賊だと言うならば三菱の船を全て焼き払ってもよいが、それでも政府は大丈夫なのか」と反論したという。
このエピソードが示すように、変動期の幕末〜維新において、国家の発展と一体で事業拡大してきた三菱とその創立者の弥太郎。“政商”とも揶揄される弥太郎は、どのように財をなし、三菱の礎を築きあげてきたのか?
数回に亘って、岩崎弥太郎の歩みと共に史実を取り上げて分析していく。

画像はこちらよりお借りしました

にほんブログ村 経済ブログへ


◆1.人脈と機運 〜後藤象二郎との出会い〜
<年表>
1835年 土佐国安芸郡井ノ口村の地下浪人、岩崎弥次郎と美和の長男として誕生。
1853年 嘉永6年(1853年)にアメリカ合衆国海軍の東インド艦隊艦船、日本の江戸湾浦賀に来航
1854年 嘉永7年3月3日、江戸幕府とアメリカ合衆国が締結。日本側全権は林復斎(大学頭)、
アメリカ側全権は東インド艦隊司令長官のマシュー・ペリー。
この条約により下田と箱館(現在の函館)を開港、鎖国体制は終焉を迎えた。
1857年 井ノ口村追放の判決が下り、神田村に転居し漢学塾を開く
1858年 吉田東洋の少林塾に入塾
1858年 日米修好通商条約
1859年 海外事情調査のため、長崎派遣を命じられる。
1860年 辞職願を提出し、金策のため無断で長崎から帰国し、免職・譴責処分を受ける。
1862年 郷士の高芝玄馬の次女、喜勢と結婚
1866年 後藤象二郎は土佐藩の「参政」(最高権力者)となる。
1866年 薩長同盟 慶応2年1月21日、京都二本松薩摩藩邸で幕末の薩摩藩と
長州藩の間で締結された政治的、軍事的同盟。
土佐藩に開成館が開設
1867年 開成館長崎出張所が開設 ここで弥太郎は働き始める
同年龍馬とも長崎で会談
5月 いろは丸事件
海援隊乗船のいろは丸が紀州藩船明光丸と衝突し沈没。弥太郎は紀州藩と
粘り強く交渉を続けて多大な賠償を取りつける。
後藤象二郎から、土佐商会の業務を一任される。
イギリス公使パークスと談判
大政奉還/明治元年
1869年 開成館大阪出張所へ転勤
1870年 九十九商会誕生 大坂商会が九十九商会に改称。海運業に従事するようになる。
1874年 三菱商会が、本店を東京に移し、三菱蒸汽船会社と改称。
1876年 社員に賞与を支給 ピー・アンド・オー社との上海・日本航路を
めぐる戦いに勝利し、社員の努力に報いるために賞与を支給。
日本で初めてのボーナスとされる。
1877年(明治10年)  西南戦争が勃発し、政府の軍事輸送を請け負う
1882年 共同運輸会社が営業を開始:三井財閥などの反三菱財閥勢力が
投資して共同運輸会社を設立。海運業を独占していた三菱に対抗した。
1885年 下谷茅町の岩崎邸で死去
参考)Histy
岩崎弥太郎は、土佐藩の地下浪人、岩崎彌次郎とその妻、美和の長男として井ノ口村で誕生した。岩崎家は、曽祖父・岩崎弥次右衛門の代に郷士の株(武士の身分)を売ってしまっていたため極貧だった。そんな環境下で弥太郎は育つが、幼少の頃から頭脳明瞭だったと言われる。
若かりし頃は投獄されたり、村を追放されるなど苦渋を飲んだ弥太郎だが、23歳のとき、吉田東洋の少林塾に入門してから転機が訪れる。その後の弥太郎の人生に大きく関わる後藤象二郎との出会いがあった。
(後に、三菱2代目となる弥太郎の弟「弥之助」と後藤象二郎の娘「早苗」は結婚したことからも、象二郎と弥太郎の結びつきは強かった)

後藤象二郎
1866年、高知城下の近くに土佐藩が開成館を開設する。「藩が金を稼ぐ」それは江戸時代から変わらない構造だ。開成館とは土佐藩の貿易会社であり、その館長が後藤象二郎だった。開成館は、武器の購入、藩の物産品の統制と販売、藩札発行の権限といった業務を担っていた。そして象二郎は、同年、土佐の参政となり、藩行政の最高権力者となる。
翌年の1867年、その開成館の長崎出張所(後の土佐商会)の主任として岩崎弥太郎が抜擢される。最初から彼に商才が備わっていたわけではなく、そこには坂本龍馬や金貸しグラバーらとの出会いがあった。坂本龍馬は亀山社中を解散し、海援隊を組織し、その隊で商船隊をつくり、土佐藩に帰属させることを約束している。そして、弥太郎は藩の借金と共に託された3隻の汽船で海運業に乗り出す。

遠洋航海の経験も海運業の知識もなかった弥太郎は、グラバーの紹介で英国商船隊の中でも名船長の誉れが高かったキャプテン(ウイリアム)・ウォーカーに会って事情を説明し、自分の秘密相談役となってこの事業への協力を依頼した。ウォーカーは快く協力を約した。弥太郎が、後に海運業を発展させたノウハウの基礎はこのとき確立されたといってよい
参考:リンク

開成館長崎出張所(長崎商会)の主任として岩崎彌太郎は、金策に奔走し、蒸気船や武器を買いまくり、樟脳など土佐の物産を売った。

が、時代とともに舞台は変わる。神奈川(現在の横浜港)や兵庫(現在の神戸港)が開港したことにより長崎は独占的な対外窓口ではなくなった。外商たちは横浜や神戸・大坂に移っていく。しかし、彌太郎は長崎商会や海援隊の残務整理の毎日。かつての志士たちは、東京や大坂で仕官の道を得て行く。自分は蚊帳の外。焦る彌太郎は自分を長崎商会主任にした後藤象二郎が頼み。大坂に訪ねて転勤を訴え、長崎に戻ってからも再三書状を送った。

後藤は忘れていなかった。明治2 (1869)年、彌太郎は開成館大阪出張所(大阪商会)に異動、責任者に抜擢された。長崎での経験を活かし、商船隊を率い、外国商館との取引や大阪商人との売買に実力を発揮し、藩の財政に貢献するのだ。

ところが、明治政府は藩営事業を禁止しようとしていた。足を中央に抑えられては、これから飛躍しようとしている土佐人の立場は脆弱なものになる。藩の事業が禁止される前に私商社を立ち上げ海運事業を引き継がせてしまおう。そうすれば、少なくとも高知・神戸航路は引き続き確保出来る。林有造(はやしゆうぞう)ら土佐藩首脳はそう考えた。

翌年閏(うるう)10 月、土佐藩士たちにより、九十九(つくも)商会が設立された。九十九は土佐湾の別名に因(ちな)む。海援隊で操船経験のある土居市太郎と、長崎商会で貿易実務を経験している中川亀之助の二人が代表になった。藩の立場から事業を監督するのが彌太郎だった。藩船3 隻も九十九商会に払い下げられた。
三菱人物伝より )

後藤象二郎の手引きにより、1869年に大阪に渡った弥太郎だが、長崎では目立った功績を挙げていない。一体どこで三菱拡大の原資(資金)を得たのだろうか?

実は、重要な転機となる事件が2年前の1867年にあった。

◆2.いろは丸沈没事件 〜積荷がないのに支払われた賠償金とその行方〜

それは、1867年に起きた「いろは丸沈没事」である。

慶応三年四月二十三日午後十一時頃、瀬戸内海の備中・六島沖で、坂本龍馬が率いる海援隊の雇船・いろは丸と、紀州和歌山藩船・明光丸とが衝突し、いろは丸が沈没した事件である。そして、是は我が国最初の「蒸気船どうしの衝突事故」であった。
いろは丸は伊予大洲藩所有の蒸気船で、長さ三十間、幅三間、深さ二間、45馬力、160トン、三本マストを備えた鉄製内車(スクリュー推進)型蒸気船である。文久二年(1862)にイギリスのグリーノックで建造され、原名をサラー号と云う。文久三年(1863)に薩摩藩が購入し一旦は安行丸と命名されて、白地に黒の轡の紋の旗(丸に十の字の薩摩の旗)を掲げて運航していた。
ところが薩摩藩はその後、艦船の大型化政策を推進し、別の大型船に買い換えるために、慶応元年(1865)五代才助がオランダ商人・ボードウィンに売却した。そして翌慶応二年、鉄砲等武器購入の目的で長崎に来ていた伊予大洲藩の国島六左衛門が、坂本龍馬や五代才助の周旋で、ボードウィンから購入し、坂本龍馬が「いろは丸」と命名したのである。
だが、国島は此の「いろは丸」購入について藩の許可を得ていなかった為に、実際の航海に就く直前の十二月二十四日、其の責を負って自刃して果てた。
「いろは丸」は海援隊が借用するまでの間は、赤地に白の蛇の目の紋旗を掲げて、数回に亘り海運業としての航海を行ったが、其の運用には菅野覚兵衛や、渡辺剛八、橋本久太夫、腰越次郎と云った亀山社中の同志があたっていた。こうして、「いろは丸」と亀山社中、そして海援隊は深い係わりを持つことになったのである。
明光丸は、紀州和歌山藩船で長さ四十二間、幅六間、深さ三間半、150馬力、887トン、鉄製内車(スクリュー推進)型蒸気船である。文久元年(1861)にイギリスで建造され、原名をバハマ号と云う。元治元年(1864)十月に和歌山藩がイギリス人トーマス・グラバーから15万5千ドルで購入し、明光丸と命名されていた。積載量160トンの、いろは丸から見れば実に6倍近い巨船であった。

衝突事故の経過は、前述の伊予大洲藩所有の蒸気船・いろは丸を、海運業の目的で一航海十五日につき五百両で、亀山社中改め海援隊が借り受け、慶応三年(1867)四月十九日に長崎を出港した。是は海援隊の初仕事で、坂本龍馬以下主な海援隊士が乗り組み、諸藩に売り捌く武器(鉄砲・弾薬)・商品を満載し、紅白紅の海援隊旗を掲げて意気揚々と大坂方面を目指した。

長崎を出港したいろは丸は、馬関海峡を通り瀬戸内海に入り、二十三日の午後十一時頃、讃岐国箱ノ岬と六島との間を東の方向に航行中、同じく瀬戸内海を長崎方面に向けて航行中の明光丸と衝突した。積載量百六十トンのいろは丸に、八百八十七トンもの巨船が、いろは丸の右舷目がけて衝突したのだから、堪らない。その上に、明光丸は衝突後、あわてて一旦後退し、またも前進して二度に亘り衝突した。
右舷側が大破したいろは丸は、自力航行は不可能となり、乗組員全員が明光丸に乗り移った後、備後・鞆ノ津に向けて曳航を試みたが、二十四日の早朝風雨が激しく曳航に堪えられなくなって、備中・宇治島沖で積み荷もろとも沈没した。因みに此の時の状況を、諸書では、濃霧あるいは海霧と書かれているが、その後の談判の中で提出した両藩の文書からして、其の様な事実はなかったものと思われる。

いろは丸想像図 より

これは単なる船舶事故ではない。以下の史実から検証していく。
【1】土佐藩は、紀州藩に交渉し、 賠償金8万3000両(実額支払い7万両:現在の価値で約25億円から約42億円、 日銀高知支店によれば164億円とも・・・)を獲得している。
当時、紀州藩の石高は、55万石。一方の土佐藩は、24万石だったと言われる。先述したように弥太郎が土佐藩の財務を引き受けたときには負債もあった。伊予大須藩がポルトガルから元のいろは丸を購入したときには、3万3600両と言われており、積み荷を加算しても明らかに法外な賠償金額である。また、伊予大洲藩から借用した船だったのだから、本来土佐藩は伊予大洲藩に賠償金を支払う必要があるはずだが、その史実も発見されていない。
     
紀州       VS       土佐
【2】長崎奉行所で海援隊・土佐商会および土佐藩(参政:後藤象二郎)は紀伊藩(勘定奉行:茂田一次郎)と争った。土佐側はミニエー銃400丁など銃火器3万5630両や金塊など4万7896両198文を積んでいたと主張(Wikiより) したが、2006年に行われたいろは丸の調査では、龍馬が主張した銃火器などは発見されなかった。

これについては以下のサイトが詳しい。

財団法人京都市埋蔵文化財研究所と京都の水中考古学研究所と云うところが、昭和63年から沈没した「いろは丸」の水中調査を行い、平成17年の第4次調査で海中の遺物をほぼ全て収集した。しかし、ミニエー銃はおろか銃の部品さえ見つからなかったと云うんだ。米や砂糖は140年も経てば、なくなって不思議はないけど、鉄製の銃が完全に消えてしまうってことはないだろう。つまり、ミニエー銃なんか始めから積んでいなかった・・・。
参考)リンク

【3】龍馬は万国公法を持ち出し紀州藩側の過失を追及している
江戸時代、徳川幕府は各種法度や身分・年貢制度によって、一定の法治国家の体裁を実現しつつあった(という見方もできる)ものの、大衆に法を遵守させていたのは、その背後にある権力=武力だった。
幕末に起こったこの「いろは丸事件」では、万国公法が、賠償金算出の基準に使われたことが記録にあるが、万国公法≒国際法を持ち込み、賠償金の決定に適用すること自体、前例がなかった。

ウィリアム・マーティンによって著された漢語訳「万国公法」がわが国にもたらされたのは清国での刊行の直後で、当時識者の間では争ってこの書が読まれたということですが、坂本龍馬が師事することとなった幕臣・勝安房守麟太郎が越前福井藩主松平春嶽慶永公にこの書物を貸し出し、大政奉還〜王政復古の後、天皇が君主として外国公使に謁見することの是非が論じられた際にはその慶永公が「万国公法」を根拠に謁見を許可するよう上奏して実現した、という経緯からも、この動乱期にあって坂本龍馬-勝海舟-松平春嶽といったラインにつながる一派がとくに「万国公法」を重視していたようすがうかがわれます。

そもそも、「万国公法」=国際法 “International Law” なるものはヨーロッパで16世紀から17世紀にかけての凄惨な宗教戦争の歴史に鑑みて提唱され発展した、成文化された条約と慣習法、法の一般原則から成り立つ文明諸国家間の法体系。
(中略)
もとより、文明国=キリスト教国にのみ適用する前提で発展してきた近代国際法は、砲艦外交でその範囲を広げておきながら、未開国は植民地として搾取し半文明国に対して不平等条約を押し付けて恥じないダブルスタンダードであり、近代日本の戦いはそんな不条理との闘争でもありました。

万国公法
坂本龍馬と万国公法 ◆◇◆ 薬箱手帖 ◆ 稲村光男抒情画工房 ◆◇◆-ウェブリブログ

ちなみに、万国公法には、以下のような内容もあるらしい。これを元に、龍馬はいろは丸の航路の正当性を主張したのかもしれない。

日本古来の慣習では、大きい船と小さい船が出会った場合、小さな船が航路を譲ることになっていた。しかし、これは帆船の場合であって、蒸気船には適用されない。それが国際航法では、右側航行船に通行優先権があり、正面に向かい合った場合も、互いに右に避けて右側通行をするというものだった。
参考:リンク 

【4】民衆を煽り紀州藩を批判する流行歌を流行らせた。

紀州藩は長崎奉行所の裁定を仰ごうとしたのに対して、龍馬は日本では未だ海難事故での先例がないので長崎に行き、「万国公法」に従って外国の支持を得ようとしていたようである。
何度も交渉は重ねられ、龍馬はこの間、今で言う、マスコミの支持を得、利用した。料亭「花月」の宴会の度、芸者にはやり唄を唄わせた。
「船を沈めたその償いに、金を取らずに国をとる。」といった、謡曲をはやらせた。
有利に事が運んでいき、最後は紀州藩が薩摩の五代才助に調停を依頼して土佐海援隊に賠償金を支払う事で決着した。
参考:リンク

【3】の万国公法を盾にした自己正当化の交渉、【4】の唄によって大衆を共認支配するやり方は、(それまで鎖国をしていたため)当時の日本人が独自に考え出したとは考えにくい。この手の近代観念やメディアコントロールの手法は、まさに金貸しの王道ゆえ、英国のグラバーを始めとする、西欧諸国との接触によって輸入→入れ知恵されたものだと推測される。
【5】賠償金は11月7日に長崎で支払われたが、その8日後の11月15日、龍馬は京都川原町の近江屋で暗殺されている。つまり交渉の立役者である龍馬は賠償金を手にしていない
以上を総合的に判断すると、次のような仮説が立てられる。
土佐藩(24万石)は坂本龍馬の海援隊を利用して、財政豊かな紀州藩(55万石)から金を取るために、汽船の衝突を演出した。(近年の調査から判明しているように)いろは丸には当然積み荷など最初から積んでなかった(積み荷がないのだから、完全沈没しないと都合が悪い)。そしてその賠償交渉には、龍馬が全面に立ち、幕末の日本には全く馴染みのない「万国公法」を用いて権利を正当化し、賠償金をせしめた。元々「いろは丸」は借りた船なのだから、伊予大洲藩に賠償金を支払うべきだが、その史実もないことから、土佐藩がそのまま横領した。土佐藩は参政が後藤象二郎で、財政の一切を岩崎弥太郎が仕切っていたことから、必然的に2人がその金をせしめた=計画的を企てた主犯格だったのではないか?
つまり、この金が土佐藩=岩崎弥太郎→三菱の原資となったと思われる。
そして、龍馬は何者かによって殺された。(用済みだったということか?)


次回も三菱・弥太郎に迫る。乞ご期待!

List    投稿者 pipi38 | 2013-10-01 | Posted in 02.日本の金貸したちNo Comments » 

トラックバック

このエントリーのトラックバックURL:
http://www.kanekashi.com/blog/2013/10/2059.html/trackback


Comment



Comment


*