2012-06-05

【戦国時代の権力需要と市場】〜既得権益層を打砕いた信長の経済政策〜

こんにちは 🙂
430年前の6月2日は本能寺の変が起きた日だったんだそうです。
明智光秀が主君である信長を討ったことから、最近では「裏切りの日」なんて呼ばれてたりしてるようですが…
ちょっと物騒 ですね。
 
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写真は楽市楽座制札 ※画像はコチラからお借りしました。
【戦国時代の権力需要と市場】シリーズ。
今回は信長の経済政策に着目してみます。
教科書で習ったところでは「楽市楽座令」が有名ですが、商工業を推奨したというだけでなく、既得権益層=寺社の力を削ぐ政策でもあったようです。
 
前回までの記事
 金貸しの起源は堺にヒントがある!
 鉄砲伝来の背後にいた勢力 
 巧妙な観念力で勢力拡大してきた寺社〜
もあわせてお読みください。

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前々回の記事(リンク)では信長が火薬交易により強大な経済力をつけていたことがあることを紹介しました。信長が天下統一をほぼ実現した背景に、強大な軍事力だけでなく、秀でた経済感覚を持ち合わせていたことが大きかったようです。
もう少し「海外貿易から読む戦国時代」(竹光誠著)より紹介します

『信長のもとで急速に広まる貨幣経済』 
 
 この時代に天下を狙った大名は、いずれも優れた人物であった(親の地盤を受け継いだ武田勝頼、北条氏政、毛利輝元らの能力を低く見る評価は誤り)。
しかし、誰もが、信長及び彼の政策を受け継いだ豊臣秀吉には勝てなかった。これは、主に信長が極めて進んだ経済感覚を持っていたことからくるものであった。
当時の大名たちは農業を重んじ、農村に基礎を置いた経済政策をとった。
ところが信長は、自給自足を基本とする農村の発展には限界があることを理解していた。そのため流通を盛んにして領内に貨幣経済を広め、商工業の振興をつうじて国を富ませる政策をとった。そのために、信長政権のもとで金銀は土地よりはるかに役に立つとする考えが広まった。
これは、信長が金銀、銅銭などの貨幣を用いて早くから鉄砲を買い集めてきた経験からくるものであった。
信長は、「金銀さえ持っていれば、武器でも兵糧でも思いのままに調達できる」という確信をもっていた。
例えば、天正十年(1582)の武田勝頼攻めにあたって信長が家臣の西尾義次に命じて、黄金五十枚で兵糧八千余俵を買い入れさせていたとする記事がある。
武器も食糧も自弁する農兵を集めた、戦国時代はじめの感覚で組織された軍勢では、兵糧が豊富で優れた武器を揃えた織田勢に太刀打ちできない。
このような政策をとったために、信長はあらゆる知恵を用いて金銀を得ようとした。
農村を押さえるだけでは金銀は得られない。
そこで彼は都市を支配して、商工業や貿易を振興した。さらに信長は、自分の持つ金銀を天皇、公家や大名、家臣たち、さらには能役者や力士にまで気前よく分け与えた。
金銭の持つ魅力を知る彼は、それによって人の心を引き付ける術を心得ていたのである。(後半略:P153〜P155) 

このように信長は市場の可能性に舵を切った武将であることが分かります。
戦国大名の中でもいち早く、制覇力が「武力」→「経済力」へ移行するという時流を敏感に嗅ぎとっていたんですね。
ところで、信長の経済政策で有名なのが「楽市・楽座」ですが、他にも「関所の撤廃」「桝の統一」など様々な市場拡大政策をうっています。
 
これだけ見ると単なる市場主義者のように思えますが、前回の記事で紹介した中世からの特権階級=寺社勢力の既得権益を削ぐ狙いもあったのではないかと思われます。
 
前回の記事(リンク)のおさらいも兼ねて、中世以降、寺社勢力がいかに資力を蓄えていたかを「織田信長のマネー革命」(武田知弘著)より紹介します

◆強大な『支配階級』としての寺社 
 
 信長と言えば「比叡山延暦寺の焼き討ち」「石山本願寺」との戦争」など、仏教を迫害した存在として見られる。 :::中略::: 「信長は神をも恐れぬ人間だった」、そういう解釈をされることも多い。しかし信長が仏教を目の敵にしたのは「宗教を否定していたから」ではない。当時の寺社というのは、現在とは相当違う。当時の仏教は国の政治経済の中枢を握っている「特権階級」だったのだ。中世の寺社は、極端に言えば社会の中心とも言える存在だった、だから仏教勢力は、信長の天下統一の大きな障害となっていたのだ。(P.102)

◆比叡山は全国に領地(荘園)をもっていた。 
 
 前項では延暦時が戦国時代最大の財閥のようなものだったということを述べたが、では延暦寺はどうやって大財閥になったのだろうか?
 まず挙げられるのは、その領地(荘園)の広さである。中世から、寺社は農地の寄進を受け、それが荘園となっていった。 :::中略::: 比叡山は古代から金貸し業をしており借金の担保で土地を得ることもあった。その荘園の広さが半端なかったのである。

◆悪徳金融業者の横顔を持った比叡山 
 
 当時は、貸し金業者として土倉というものがあったが、土倉の多くは比叡山が関係していたといわれている。比叡山の土倉は、「山門気風の土倉」と言われた。山門とは比叡山のことであり、つまり比叡山は土倉の代名詞となっていたのだ。
 :::中略:::
 比叡山が金融業を始めたのは平安時代にさかのぼる。比叡山にある日吉大社が、延暦時に納められた米「日吉上分米」を、出挙として高利で貸出していたのだ。出挙とは、古代、国家が貧しい農民に種籾を貸し出し、秋に利息をつけて返還させたことに端を発している。当時は貧民対策だったものが、次第に「利息収入」に重きが置かれるようになり、いつの間にか国家の重要な財源となった。
 また私的に出挙を行うものも出てきて、それは「私出挙」と呼ばれ、貸金業と同様の業態になっていった。この私出挙を精力的に行なっていたのが、日吉大社なのである。
 :::中略:::
中世に入り、貨幣経済の発展とともに私出挙は本格的な貸し金業である土倉へと進化していった。土倉というのは今でいう質屋とほぼ同様のものである。質草をとって金を貸す。質草を保管するのは土倉であることが多かったので、土倉と呼ばれるようになった。
 :::中略:::
そして、寺社には金融業として有利な要素があった。金を借りた者が返さない場合、 「罰が当たる」と言えば、債務者はおそれおののく。つまり、そう言えば、借金の取り立てがしやすいのである。

◆商業、物流も支配していた比叡山 
 
 当時の“市”というのは、寺社の縁日に立つことが多かった。“市”に出店するには、寺社の許可がいるし、当然、地子銭(地代)が発生する。“市”を支配していた寺社経ちは、やがて商品流通そのものを支配するようになる。朝廷や幕府に働きかけて独占販売権を入手したり、座を作って他業者を締め出したりするようになったのだ。

宗教人=聖人君子とのイメージはどこへやら、当時の寺社勢力は金貸しの権化みたいな存在だったのですね。
では、信長の経済政策のもつ意味はなんだったのでしょうか?

◆信長はなぜ楽市・楽座をおこなったのか? 
 信長の経済政策の最たるものに「楽市楽座」がある。
楽市楽座とは、座を廃し、商人が自由に物を販売でき、税を課さないという政策である。それまでの商人は、ほとんどの場合、座に属さないと商売ができなかった。鎌倉時代中期から、あらゆる職業に「座」が作られていた。布、酒、油などの販売業者だけでなく、建築業者、運輸業者からはては芸能関係にまで座はつくられた。
 座を作ることで、既存の商人たちは新規参入を妨げていた。つまり独占営業権を得られたのである。既存の商人たちは多額の参加料を払うことで座に参加し、その特権を手に入れていたのである。 :::中略::: また既存の市や座は、寺社や公家らが取り仕切っており、地子銭(固定資産税)や冥加金(売上税)などは、寺社や公家の収入となっていた。つまり、旧来の市や座は信長にとってほとんど収益をもたらさなかったのだ。
 だから信長は、既存の市とは別の市をつくり、寺社や公家の影響力を排除したのである。そして地子銭はとらないけれど、冥加金はとっていたようである。だから信長は冥加金の分だけ儲かるという寸法である。もちろん街が発展すれば、冥加金の収入も増える。

つまり、中世より経済支配を進めていた既得権益者=寺社勢力に真っ向から経済戦争を仕掛けていったのが信長だったんですね。
 
う〜ん。。。
教科書では教わらないことにこそ本質が隠れているように思います。
 
次回は信長が何としてでも手中に収めたかった「堺」にスポットを当ててみます。
お楽しみに! 😛

List    投稿者 Shimicho | 2012-06-05 | Posted in 02.日本の金貸したちNo Comments » 

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