2014-01-04

【幕末維新の代理人】代理人認定#12 岩崎弥太郎 第6回〜明治維新の激動に紛れた俄分限 三菱・弥太郎の軌跡〜

新年あけましておめでとうございます
 
昨年は、特定秘密保護法の公布(12月13日)や日銀の異次元緩和を始めとし、国民の十分な合意や理解を得ないまま、国家権力を増長させる方向に日本社会が動きました。2014年以降もこの傾向は変わらず、残念ながらあまり明るい未来にはならないと当ブログは見ています。
これら政府や日銀の動きは、とても国民や国家を守る行動とは思えません。なぜこうなってしまうのでしょうか?
それは、政治家や官僚は金貸しによって支配、操作されているためです。己の利権を守るためには、(国民よりも)まず金貸しの支持を得なければならない。この構造から脱却しない限り、金貸しによる国家支配は続きます。
昨年からお送りしている【幕末維新の代理人】シリーズでは、この金貸しの支配構造が生まれた、幕末〜明治に焦点を当てています。欧米列強の武力によって、幕末の開国=市場開放がなされ、明治政府の樹立=近代国家の成立も背後にいた金貸しの思惑によるものでした。
この激動の時代に名を馳せた著名な人物のうち、欧米列強の金貸しの力を利用、あるいは彼らと結託して、日本の内側から開国の鍵を開けた人物たちがいます。それらの人物にスポットを当て、現在も連綿と続く金貸しの支配構造を明らかにし、それを広く知らしめ、来る日本社会を明るいものにしたいと考えます。
本年もどうぞよろしくお願い致します。
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今回は、昨年4回に渡ってお送りした三菱・岩崎弥太郎シリーズの総集編をお送りします。

◆弥太郎と三菱の歩み
下の画像は、東京駅周辺で三菱グループが所有するビルを示したものです。

(写真は こちら よりお借りしました)
 

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驚くべきことに、東京駅と皇居を結ぶ丸の内エリアの土地とビルのほとんどを、三菱は所有している。
三菱以外にも、三井や住友など同様の財閥は他にもあるが、これほど東京駅前の一等地を所有しているものは、いないだろう。
 
しかも、三菱はその中でも一番若い。三井や住友が三百年以上の歴史をもつ旧家であるのに対して、三菱は幕末の動乱期から明治にかけて政商として巨万の富を得て急成長した財閥である。
 
この時期、なぜ三菱のような若輩が急成長を成し遂げることが出来たのか?
そして「政商として巨万の富を得た」とは、一体どういうことだったのだろうか?
 
岩崎=三菱は、坂本龍馬の海援隊を引き継ぎ土佐商会として海運事業をスタートさせる。そして後藤象二郎の経営する鉱山を自らのものとし、船と燃料の両方を手中に収めることで、さらに海運事業を拡大へ導く。
 
そして明治天皇の庇護の下、政商として活躍、後に勲四等を授与される。そして、やがては海運事業を独占。西南戦争では海運輸送をも独占した。また、廃藩置県の時、藩札を安値で買占め、それを政府が回収することで大儲けをした。また、一説によるとこの時代、天皇家と共に人身売買に手を染めていたという話も聞く。

 
ここで、弥太郎の歩んだ歴史を年表で振り返ってみます。

<年表>
1835年 土佐国安芸郡井ノ口村の地下浪人、岩崎弥次郎と美和の長男として誕生。
1853年 嘉永6年(1853年)にアメリカ合衆国海軍の東インド艦隊艦船、日本の江戸湾浦賀に来航
1854年 嘉永7年3月3日、江戸幕府とアメリカ合衆国が締結。日本側全権は林復斎(大学頭)、
     アメリカ側全権は東インド艦隊司令長官のマシュー・ペリー。
     この条約により下田と箱館(現在の函館)を開港、鎖国体制は終焉を迎えた。
1857年 井ノ口村追放の判決が下り、神田村に転居し漢学塾を開く
1858年 吉田東洋の少林塾に入塾
1858年 日米修好通商条約
1859年 海外事情調査のため、長崎派遣を命じられる。
1860年 辞職願を提出し、金策のため無断で長崎から帰国し、免職・譴責処分を受ける。
1862年 郷士の高芝玄馬の次女、喜勢と結婚
1866年 後藤象二郎は土佐藩の「参政」(最高権力者)となる。
1866年 薩長同盟 慶応2年1月21日、京都二本松薩摩藩邸で幕末の薩摩藩と
     長州藩の間で締結された政治的、軍事的同盟。
     土佐藩に開成館が開設
1867年 開成館長崎出張所が開設 ここで弥太郎は働き始める
     同年龍馬とも長崎で会談
     5月 いろは丸事件 
     海援隊乗船のいろは丸が紀州藩船明光丸と衝突し沈没。弥太郎は紀州藩と
     粘り強く交渉を続けて多大な賠償を取りつける。
     後藤象二郎から、土佐商会の業務を一任される。
     イギリス公使パークスと談判
     大政奉還/明治元年
1869年 開成館大阪出張所へ転勤
1870年 九十九商会誕生 大坂商会が九十九商会に改称。海運業に従事するようになる。
1874年 三菱商会が、本店を東京に移し、三菱蒸汽船会社と改称。
1876年 社員に賞与を支給 ピー・アンド・オー社との上海・日本航路を
     めぐる戦いに勝利し、社員の努力に報いるために賞与を支給。
     日本で初めてのボーナスとされる。
1877年(明治10年)  西南戦争が勃発し、政府の軍事輸送を請け負う
1882年 共同運輸会社が営業を開始:三井財閥などの反三菱財閥勢力が
      投資して共同運輸会社を設立。海運業を独占していた三菱に対抗した。
1885年 下谷茅町の岩崎邸で死去
参考)Histy
参考)岩崎家 家系図 
 

◆国賊と非難された三菱・弥太郎の暴富ぶり
 
1.金貸しの手先グラバーとの共謀
長崎のグラバー邸で有名なトーマス・グラバーと弥太郎。二人の関係は三菱を発足させる以前から始まっており、後年渉外係顧問として三菱・弥太郎に雇われているほどです。

弥太郎(左)とグラバー(右)

遠洋航海の経験も海運業の知識もなかった弥太郎は、グラバーの紹介で英国商船隊の中でも名船長の誉れが高かったキャプテン(ウイリアム)・ウォーカーに会って事情を説明し、自分の秘密相談役となってこの事業への協力を依頼した。ウォーカーは快く協力を約した。弥太郎が、後に海運業を発展させたノウハウの基礎はこのとき確立されたといってよい。 参考:リンク 
グラバーは弥太郎の友情を多として、生涯を三菱のために尽くした。事業意欲旺盛な弥太郎は、日本に本格的なビール醸造事業を起ちあげたいと考えていた。日本で初めてのビール醸造所は、アメリカ人ウイリアム・コープがつくったスプリング・バーレー・ブルワリーだった。明治17年末のことである。このブルワリーが経営不振に陥っていることを聞きおよんだ弥太郎は、その買収をグラバーに相談した。
 しかし、弥太郎の持ち時間はもうなくなりかけていた。翌年の1月、胃がんの診断を受けた弥太郎は、早くも2月7日、帰らぬ人となった。享年50歳。あまりにも若すぎる死だった。

(参考)〜来日後のグラバーの歩み〜
来日2年後独立。ジャーディン・マセソン商会の長崎代理店としてトーマス・グラバー商会を設立。
デント商会、サッスーン商会などの大手商会ともエージェント契約を結び、1862年にはアーノルド商会、ブレイン・テート商会ともパートナー契約を結ぶ。
この頃、グラバー商会と名称を改め、茶の再生工場を手掛け、茶の輸出を主要な業務としていった。
1863年から1865年頃、グラバー商会は長崎からの茶の輸出量の20〜30%を占めるまでになる。
やがて幕末志士と絡み、あるいは反幕府的な雄藩への武器弾薬、艦船の販売へと手を広げていく。
重ねて、対峙する旧幕府側のも武器を販売し、武器商人としての手腕を振るい始める。
(フリーメーソンの思想である)自由・平等・博愛(友愛)を勤王の志士達に培養していく。
五代友厚、寺島宗則、伊藤博文、井上馨、坂本龍馬・・・・・・何れも、グラバー邸に匿われた志士達である。
 
2.三菱の財源となった「いろは丸事件」の真相(仮説)

土佐藩(24万石)は坂本龍馬の海援隊を利用して、財政豊かな紀州藩(55万石)から金を取るために、汽船の衝突を演出した。(近年の調査から判明しているように)いろは丸には当然積み荷など最初から積んでなかった(積み荷がないのだから、完全沈没しないと都合が悪い)。そしてその賠償交渉には、龍馬が全面に立ち、幕末の日本には全く馴染みのない「万国公法」を用いて権利を正当化し、賠償金をせしめた。元々「いろは丸」は借りた船なのだから、伊予大洲藩に賠償金を支払うべきだが、その史実もないことから、土佐藩がそのまま横領した。土佐藩は参政が後藤象二郎で、財政の一切を岩崎弥太郎が仕切っていたことから、必然的に2人がその金をせしめた=計画的を企てた主犯格だったのではないか?
つまり、この金が土佐藩=岩崎弥太郎→三菱の原資となったと思われる。
そして、龍馬は何者かによって殺された。

3.官との癒着 払い下げとなった軍艦で大儲け

明治新政府は藩営事業を禁止しようとしていた。足を中央に抑えられては、これから飛躍しようとしている土佐人の立場は脆弱なものになる。藩の事業が禁止される前に私商社を立ち上げ海運事業を引き継がせてしまおう。そうすれば、少なくとも高知・神戸航路は引き続き確保出来る。林有造ら土佐藩首脳はそう考えた。翌年10月、土佐藩士たちにより、九十九商会が設立された。藩の立場から事業を監督するのが弥太郎だった。藩船3隻も九十九商会に払い下げられた。

4.インサイダーの走り藩札買い占め

最初に弥太郎が巨利を得るのは、維新政府が樹立され全国統一貨幣制度に乗り出した時のことで、各藩が発行していた藩札を新政府が買い上げることを事前にキャッチした弥太郎は、十万両の資金を都合して藩札を大量に買占め、それを新政府に買い取らせて莫大な利益を得る。この情報を流したのは新政府の高官となっていた後藤象二郎であるが、いわば弥太郎は最初から、政商として暗躍した。今でいうインサイダー取引である。

要するに上級藩士と協力して、藩(公)から民(私)へと資産を移動させ、国(幕府)や地方(藩)の資産を、自分達で使えるように手を打ったということ。その巨額資産が三菱の礎となった。弥太郎ばかりが取り上げられるが、彼のような地下浪人を使い、民営化(実質は国力の私有化)を進めた、林有造や後藤象二郎のような上級藩士もたくさんいた。

5.海運業を制す

 【三菱が東京進出1年にして海運界のトップに伸し上がった裏事情】
「日本人が知らない恐るべき真実」から紹介します。
 三菱の汽船事業は当初赤字続き。そこで料金を半額に下げて、夏は団扇と氷水をサ−ビスした。すると三井は料金を3分の1に下げてきた。三菱と三井の苛烈なダンピング競争が始まった。ダンピングに堪えられなくなった中小の船会社はバタバタ倒れていって、残るは三菱のみとなった。  しかしこの時、不思議なことが起こった。政府の公金を扱っていた三井と小野、島田に対して、政府は、預り金と同額の担保を入れよと命じたため、小野と島田が倒産してしまったのだ。そこで政府はこれまでに放漫に出していた政府資金の回収に取りかかった。そのため日本郵便蒸気船会社は借入金40万円の返済を命じられてよろめきだしたのだ。いったい何が起こったというのだろうか。陰謀に通じている諸君は、もうお分かりだろう。この三井と三菱のダンピング競争は、出来レースだったのである。つまり三菱と政府・三井の間で予め合意が出来ていたということだ。その目的は、中小の船会社を倒産させて、三井と三菱で航路を独占することにあった。ついでに小野や島田などの富商も倒産させてしまう。政府は三菱を潰すことなど、鼻から考えていなかったのである。  その後、弥太郎は台湾出兵の時に政府に船を13隻買わせて、漁夫の利を得た。おまけに台湾航路も開設した。三菱汽船の攻勢に劣勢となった日本郵便蒸気船会社は解散させられた。所有船として使えるものと倉庫などは三菱が引き取った。こうして三菱は所属船舶40余隻という日本最大の船会社となった。

【西南戦争で三菱商会はこの戦争で政府側の軍隊・軍需品の輸送を一手に引き受けたばかりか、戦争終結の残った軍需品の処分までまかされ、一挙に莫大な利益を得た】
ウイキペディア「三菱財閥」から一部引用
三菱は定期航路の運航を休止し、社船38隻を軍事輸送に注ぎ込みます。
 三菱商会はこの戦争で政府側の軍隊・軍需品の輸送を一手に引き受けたばかりか、戦争終結の残った軍需品の処分までまかされ、一挙に莫大な利益を得ることになりました。政府が西南戦争で支払った戦費は4,150万円といわれていますが、そのうち1,500万円が三菱の儲けになったそうです。しかし、その裏には後藤象二郎を通じてときの最大の権力者大久保利通、大隈重信といった政府要人の後ろ盾があったことは有名です。ちなみに三井財閥は、長州閥の伊藤博文、井上馨、品川弥二郎らに肩入れして三菱に対抗していました。

日本人は知ってはいけない「天皇家の秘密」より。
 1885年、天皇一族と三菱財閥で日本初の船舶会社、日本郵船が創立されました。明治維新により富国強兵の道を歩み始めた日本は、欧米からあらゆる兵器を購入し続けていましたが、欧米への支払いに当てる資金が日本にはありませんでした。そこで福沢諭吉は、「賤業婦人の海外に出稼ぎするを公然許可すべき」という指示を天皇に与えました。賤業婦人つまり売春婦として日本人女性を海外に「輸出、 売却」し、兵器購入資金を作るというプランであり、天皇一族はこのプランに飛び付き実行したそうです。(福沢諭吉全集 第15巻)
 このようにして三菱は戦争を利用して船事業を制覇しました。官と癒着し、上級藩士と協力して、藩(公)から民(私)へと資産を移動させ、国(幕府)や地方(藩)の資産を、自分達で使えるようにし、その巨額資産が三菱の礎というなったことです。

6.捏造された三菱の暴富の軌跡

●歴史を隠蔽&捏造した真犯人は?
坂本龍馬暗殺、三菱財閥急成長の裏事実は、歴史に登場しない。
田中光顕が幹部として深く関わっていた日本史籍協会が、1915年から1935年までの間、187冊に上る維新関係の史料類を刊行している。これが、田中光顕の創作した歴史の出所であり、多くの歴史家がこの捏造歴史に翻弄されてきた。
ここで書いた様な、三菱財閥急成長の源流は、とても大衆に受けられるものではない。
三菱グループのHPを見ると三菱財閥の歴史は美しく取繕われている。
現代は、この大衆受けする「綺麗な」歴史が共有されてしまった。
歴史小説やノンフィクション、マスコミ(NHK大河ドラマetc)、歴史教育も悉く、この捏造歴史に染められているのである。
岩崎弥太郎と田中光顕は龍馬暗殺頃から密着し、工作資金は三菱財閥(弥太郎)、政治家との関係は田中光顕といった(おぞましい)二人三脚で明治時代をのし上ってきた。
田中光顕は長寿(95)であった事も有り、この歴史捏造をやり遂げた。
財閥の中で唯一明治以降の新興勢力である三菱財閥は、日本において金貸しの手法を最先端で実践してきた。
武器商人、人身売買、政商として国家に寄生してきたのである。
そして仕上げは、歴史の捏造で、全てを美化しておく。
岩崎弥太郎と田中光顕は日本における最強の金貸しタッグだったのかもしれない。

◆まとめ
ペリー来航を皮切りに欧米列強の武力の脅しに屈し、日本が開国したわけですが、以上、振り返ってきたように、三菱・弥太郎は、
  1.金貸しの手先グラバーとの共謀
  2.三菱の財源となった「いろは丸事件」の真相
  3.官との癒着 払い下げとなった軍艦で大儲け
  4.インサイダーの走り 藩札買い占め
  5.海運業を制す
  6.捏造された三菱の暴富の軌跡

と、幕末の混乱に紛れて(それを利用して)、あらゆる手を尽くして市場を制してきました。日本の市場拡大と三菱の暴富は完全に一致しており、三菱・弥太郎が国賊と揶揄される所以です。
そして、この史実が物語っているように、市場は単独では成立せず、あくまで国家に寄生することでしか拡大しえない。それが近代国家と市場の共犯関係(構造)であると言えます。

◆市場は国家の寄生虫
市場は国家の寄生虫として拡大してきた。市場が国家の寄生虫であるということは、市場は国力の枠内(or国家の統合の枠組みの中)でしか成長できないはずである。しかし、事実はそうではない。時として、国家は無謀なる争いを繰り返し、国力を衰弱させるが、それに乗じて市場は成長していく。(十字軍しかり、現在のアメリカしかり・・)
 
それは、商人たちが金貸しとして、国家に戦争をするようにそそのかし、国家相手に金を貸し、骨の髄まで国家から財を奪い取っていったからに他ならない。彼らは、戦争や革命をそそのかしては、武器を売り、金を貸し成長してきた。本物の金貸しは庶民相手に金を貸すなどというちっぽけな商売をする連中のことではない。『金貸しは国家を相手に金を貸す』この仕掛けこそが、金貸しの存在構造であり、市場拡大の秘密である。

三菱・弥太郎、紛れもなく「金貸しの代理人」認定です。

List    投稿者 pipi38 | 2014-01-04 | Posted in 02.日本の金貸したちNo Comments » 

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