2013-01-07

【幕末維新の代理人】 <エントリーNO5>明治維新とはなんだったのか?〜「攘夷を旗印に暴れた下級武士」と「倒幕に突き進んだ西国雄藩の本音」

江戸時代を俯瞰すると、戦争のない泰平時代の下で、階級毎にさまざまな下半身を膨らませていた時代。
大勢的には、幕府の統合力衰退、商人階級の台頭、武士の存在基盤失墜と思想への傾倒、時代。
思想は江戸初期に、儒教、朱子学の追求であったものが、やがてその否定に転換し、最終的には尊皇攘夷に代表される改革機運へと進む。中にはユートピア思想なども出てくるが、おそらくこれは、有閑層の妄想に過ぎない。
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明治維新は篤姫から始まった?

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幕末における各階級の下半身(=本能レベルの思い)を少し整理してみたい。
●豪商(=抜け駆け搾取者)
幕府、諸藩への金貸し暴利が頭打ちとなり、都市部の市場化を突き進め、搾取の手を町人階級へと伸ばし始めてた。資本力を背景にした、幕府(=政治)や薩長などの雄藩への影響力を拡大していった。
市場の拡大を意図して、西欧体制への親近度を高めていった。(しかし、歴史上のその痕跡は極めて少ない?)
国内交易や金貸し、両替での搾取は限界点に来ており、その触手を、海外交易、戦争(内戦)へと向けて伸ばさんとしていた段階であろう。故に倒幕側に加担していく。
●幕府(=統合階級)
お飾り将軍の下で、完全な官僚政治(金とコネ)が確立し、政治を機能を失っていた。その証拠に官僚が繰り出す改革はどれも失政に終わっている。
政治機能の失墜は、政治方針を諸藩に問うた阿部筆頭老中の行動で表出した。
鎖国により貿易差益は独占しているものの、豪商にしゃぶり尽くされ、米本位制故の構造的な不況の財政は火の車で、飢饉対処さえもままならない状態。
現体制を何とか維持していく事にのみ収束していたと考えられる。
外国圧力に対しても、基本路線は保守的な鎖国死守、しかし、圧力が高くなると開国へと急転換。外国船打ち払い令も同様に、即座に薪水給与令に転換。
為政者としての幕府の地位は地に落ち、既得権益にしがみ付くしかない状態。
●譜代諸藩(=有閑階級)
官僚制度の中心的な存在。有閑階級ゆえに観念収束していく。水戸藩の水戸学はその代表。
光圀公の興した「大日本史」編纂事業は200年以上も継続されて、「尊王+攘夷」思想の根幹となっていく。
(光圀公「徳川家存続」との想いとは裏腹に・・・・)
全国的に広まり、影響して行ったが、その実、歴史的には何も実現していない。(水戸藩で、史実に残ったものと言えば天狗党の乱しかない?)
幕末ピークには、水戸斉昭を中心とした幕府への圧力団体と化していった。
御三家、御三卿、をはじめ、譜代大名は幕府の官僚への道を目指すか、権力闘争には背を向けて、学問と称して観念収束していたかであろう。
●外様諸藩(=下半身を最も肥大させた階級)
薩摩藩、長州藩が代表的で、幕府の目の届かない遠国で、密貿易などで長年力を蓄えてきた。
しかし、鎖国体制の中、思うようにその権益拡大が図れず、ペリー来航以前から、諸外国の貿易を遮断する鎖国体制=幕府統合への否定視を募らせていく。
思想的には、「関が原以来の幕府への反発⇒尊王思想への執着」を膨らませてきた。
幕府の失墜する様を横目に、倒幕の機会をひたすら伺っていた筈である。
名君と賞賛される島津斉彬は、幕府に影響し始めた当初から開国派であったことは、これら西国雄藩の下半身を示唆している。
そして、欧米列強の金貸し達が目を付けたのもこの西国雄藩であった。
●脱藩志士(=下半身発動階級)
充たされない、可能性の無い日常のなかで、私権獲得の道を希求していた。可能性が閉ざされた中で、最も悶々としていた。
政治は官僚体制に転換しており、(武士として)とても収束できる先ではないし、自分には可能性もない。
やれるとすれば、学問と剣術修行で、それも「いつかは、何がしかのチャンスがあるかも知れない」程度のもの。
そんな中で、「攘夷」思想は輝きを放った。「脱藩」の根拠(=言い訳)としてはこれほど都合の良いものは無い。
水戸学から派生した「国体」思想は、それまでの「藩=国」を「日本=国」に代え、「黒船⇒攘夷」と加速されて彼らの正当化観念として成立した。
加えて「日本=国」は、尊王思想への収束を加速させ、倒幕への入り口ともなっていく。
下半身は私利私欲を求め、頭の先っぽには「尊皇攘夷」を置いて正当化したのである。
明治維新とは、彼らの知的権益拡大の欠乏が織り成した下克上革命だったのではないでしょうか?
美化された歴史では、下級武士が維新志士として立ち上がり、文明開化への道を開いたとされていますが、その本質はもっと違うところにあったのです。
幕府転覆を図った、西国の雄藩(薩長)が、下級武士を抱き込み、利用しながら、天皇を御旗に据えて下克上を成し遂げた。
その過程では、金も武器も必要で、これを与え、導いたのが欧米列強の金貸し達。
金を与えて、武器を売りつけ、傀儡政権を樹立。日本侵略を成功させたわけです。
その間、国内の英傑たちは、使い捨てのように殺されていきます。
日本侵略エージェントとしての役割を終えたり、日本侵略の意図に感づいたり、その理由は様々ですがその殆どが若くして死んでいる事が何よりの証拠でしょう。
ジャーディンマセソン商会のアーネスト・サトウの日記が、きわめて内情に肉薄した内容で残っている事も、明治維新英傑たちの皆殺しの後に、生き残った伊藤博文が初代総理大臣となったことなども示唆している。
もう少し歴史を具体的に追っていくとリアルに伝わるかもしれません。
西国雄藩代表の島津斉彬は、幕府内での影響力を高める為に中央へ繰り出します。篤姫の一件もこの戦略の一つ。
薩摩藩は、始め長州藩との権力闘争を繰り広げますが、海外金貸しの援助の下やがて協力体制を敷き、倒幕を明らかにします。
ここまでの経緯で、元下級武士の維新志士達が暗躍します。例えば、高杉晋作は保守的な長州藩を革命して海外金貸しの支配下に置く役割を担ったのではないでしょうか?
龍馬も、薩長をまとめて倒幕へ向かわせる役割を担わされたと云う気がしてなりません。
戊辰戦争は、西郷の参謀振りなど称えられていますが、実際は西洋からの最新火力兵器による勝利。
加えて、戊辰戦争で薩長がとった戦略は、官軍VS賊軍の二者択一に置き換え、(義に殉じようとした)賊軍諸藩に対して、徳川を裏切るか滅びるかの倫理的な選択を迫り、薩長に隷属する際には法外な金銭的な要求を突きつけている。まさに私闘。
その後の、明治初期までの政争を追うと、大久保利通を中心とした権力闘争であり、万世一系の天皇を機軸とする気概など微塵も感じられない。
少し脱線するが、征韓論政争では、西郷を中心とした士族は征韓論で負けるやいなや一斉に中央政府から離脱している。「中央政府=天皇のお国を動かす」なんてちっとも考えていなかったことを証明している。
最後には、この西郷を西南戦争で始末した後、大久保利通も暗殺され、誰も残らなくなってしまう。
最後に残った伊藤博文が総理大臣に納まった。
これが明治維新(こんなに簡単に語っては、もったいないような気がしてならないが、紙面上止む無し)
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岩倉使節団
最後の将軍徳川慶喜や勝海舟などのように、ひたすらに一線から退く(=エージェントとしての役割を放棄)か、岩崎弥太郎の様に、最後まで欧米列強金貸しのエージェントとして走り抜くしか、生き残る術が無かった時代なのでしょう。
歴史教科書に記載の無い歴史事実やエピソードは、無数にあり、残っている史料も紹介したいものがたくさんあるのですが、次項以降にその幾つかを紹介していきます。
因みに、部分的ではありますが、書籍も最近では、多数発表されています。
暗殺や、戦乱、各種の政令、岩倉使節団、「ええじゃないか」のタイミングなど、多くの出来事に「欧米列強金貸し」の影が見え隠れしますが、この後詳らかにしていきたいと考えています。
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フルベッキ写真
最後に、暗殺を中心とした幕末の歴史を整理しておきます。
(注:暗殺の疑いがあるものも、暗殺として整理してみました)
1853 ペリー来航
   徳川家斉13代将軍
1854 ペリー再来航(各国と不平等条約を締結=開国)
1858 井伊直弼大老→(更なる不平等条約を各国と締結=日本搾取の始まり)
   安政の大獄(=井伊直弼の独裁)   徳川家茂14代将軍
1860 桜田門外の変(=井伊直弼暗殺
1861 公武合体
1862 坂下門外の変(=安藤信正負傷により失脚)
   寺田屋事件(=薩摩藩内尊皇攘夷派粛清
   生麦事件
   松平容保京都守護職
   高杉晋作(長州)イギリス公使館焼き討ち
1863 長州藩攘夷決行(下関外国船砲撃)
   高杉晋作騎兵隊編成←豪商による援助
   薩英戦争
   818政変(=薩摩+会津藩が京都から長州勢を追放)←それまでは朝廷を長州が仕切っていた
1864 池田屋事件(=新撰組による尊皇攘夷志士襲撃
   蛤御門の変(=長州藩京都より撤退)
   第一次長州征伐
   下関戦争(=欧四国艦隊に長州敗れる)
1865 高杉晋作による長州藩革命
1866 薩長同盟成立
   第二次長州征伐
   徳川家茂14代将軍暗殺
   徳川慶喜15代将軍
   孝明天皇暗殺
1867 ええじゃないか
   山内容堂(土佐)大政奉還建白書
   薩長へ倒幕密勅
   大政奉還
   坂本龍馬・中岡慎太郎暗殺
   王政復古の大号令
   徳川家の辞官納地
1868 鳥羽伏見の戦い(=戊辰戦争開始)
   江戸無血開城
   江戸を東京と改称
   長岡、会津、盛岡藩降伏
1869 明治天皇東京に入る
   函館五稜郭の戦い(=戊辰戦争終結)
   版籍奉還
1871 廃藩置県
   岩倉使節団、欧米へ出立
1872 学制公布
   太陰暦から太陽暦へ
1873 徴兵制公布
   征韓論→西郷敗れ多数の参議、軍人が辞職(大政変)
   地租改正
1874 台湾出兵
   佐賀の乱
1876 帯刀禁止令   
   内乱連発(神風連の乱、秋月の乱、萩の乱)
1877 西南戦争(=西郷隆盛自刃
1878 大久保利通暗殺
   →伊藤博文、山県有朋による政府へ
では、また次回!!

List    投稿者 gokuu | 2013-01-07 | Posted in 02.日本の金貸したちNo Comments » 

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