2018-04-17

「周蔵手記」が暴く日本の極秘事情-2~日本に偽史を根付かせた背後に金貸し、その頂点に皇族がいた~

上原勇作家計図

戦後日本人を歴史歪曲によって精神的に抑圧してきたのは、上田正昭ら京大古代史グループ⇒米国・金貸し⇒三笠宮崇仁親王とのこと。

それに報道:朝日新聞、財務:野村証券・日興証券が宣教活動を支援していたとのこと。

この勢力が、佐伯絵画の真贋判定を口実に著者に接近したのは、「南北朝強制合一の真相」を隠蔽する偽史工作をやらせるつもりだったとのこと。

 

吉薗周蔵に関しては、若干19歳のとき、時の陸軍大臣上原勇作付の陸軍特務に抜擢され、陸軍用のケシ栽培→アヘン製造を担っていたとのこと。この陸軍特務とは諜報活動を行うスパイ(或いは忍者)のこと。

日本は古くから天皇や皇室を取り巻く連中の活動が本当の歴史を作ってきたようだ。今後の展開が楽しみ。

以下、「吉薗周蔵手記」が暴く日本の極秘事項」 落合莞爾著 からの紹介:掲載していきます。

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■佐伯裕三の調査は「周蔵手記」を解読させるのが目的

 

平成18年から「中篇」を書き進めているうちに、「周蔵手記」がわたしに渡された理由と背景が大体分かってきた。

背景とは大徳寺とその裏に潜む偽史勢力で、彼らがわたしに「周蔵手記」を読ませるように仕向けたのである。それも、単純に解読させるだけではなく、歴史に対するわたしの興味を煽り、歴史研究に誘い込むのが目的であったと断じてよい。

 

周蔵の死後、立花大亀和尚に大事にされてきた吉薗明子は、大亀和尚の依頼を受け、佐伯絵画の真贋判定を口実にわたしに接近したのである。そのための資料として「周蔵手記」を届けさせた大亀和尚の目的は歴史研究に誘うためであるが、亡き父の遺品の佐伯絵画を世に出したかった吉薗明子はそれを知らされずに利用されたと思える。

※立花大亀和尚:(1899-2005)臨済宗の僧。大徳寺塔頭徳禅寺長老。大阪生。南宗寺で得度し、妙心寺専門道場で修行。大徳寺執事長・大徳寺派管長代務者等を歴任。昭和57年花園大学学長に就任。

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大亀和尚配下の勢力の主たるものは、歴史関係が京都大学名誉教授上田正昭、報道関係が朝日新聞、財務関係が野村証券と日興証券であった。大亀和尚の談合相手は駐留米軍横田基地で、もちろん日本の政界首脳も関わっている。

 

要するに戦後日本人を歴史歪曲によって精神的に抑圧してきたのは、上田正昭ら古代史グループと、日本の貿易黒字をドル建て連邦債券の給付でごまかすことで、わが国の経済的成果を搾取してきた米国首脳と国際金融グループの連合であった。その頂点に三笠宮崇仁親王がいた背景はワンワールドの歴史を知らなければ到底理解しえないが、その詳しい説明は本稿の範疇ではない。

 

(中略)

 

聞くところでは、立花大亀がわたしを歴史研究に誘ったのは「南北朝強制合一の真相」を隠蔽する偽史工作をやらせるつもりだった、という。

南北朝の強制合一説を唱えるのは、現状は世界中でわたし一人で、進んで賛成する歴史家はいない。だから、何もせずに従来の偽史のまま放置しておけば良いものを、と思うが、「南北朝の合一」は、日本史はおろか世界史の最大の変曲点で、欧州王室の淵源と國體勢力が所有する黄金ファンドに関係するので、従来の偽史を補強させるためにわたしを起用しようとしたようである。

 

「南北朝の強制合一」とは大塔宮護良親王の王子が北朝光厳上皇の第一皇子を偽装して崇光天皇になることにより、実質的に南北皇統が合一したことであるが、詳しくは拙著『南北朝こそが日本の機密』をご参照頂きたい。また護良天皇の子孫が渡欧して欧州王室に入ったことも、拙著『欧州王家となった南朝皇統』に詳述したのでご一覧願いたい。

 

立花大亀和尚が計画していた偽史工作の核心は、護良親王が益仁親王(のちの崇光天皇)を儲けた場所を、実際の紀州調月村と異なる大和国信貴山とすることで、これによって崇光天皇の実母を何者かとすり替え、以後の日本皇統の系図を歪めるのが目的であったと聞く。

その偽装工作を負わせる予定のわたしが、たまたまそれ以前に、護良親王が紀州那賀郡吉仲荘調月村で井口左近の娘に王子を産ませた秘史を知ってしまったので、大亀和尚はやむを得ず偽史工作を諦めたと聞くが、わたしが井口左近の名を初めて知ったのは、たしか平成9年頃である。当時は崇光天皇の秘事など思いも寄らなかったのに、大亀和尚にしては諦めが早すぎるのではないかと思う。

 

 

■「草を命ずる」

(前略)

みずからも波動幾何学系シャーマンである上原勇作が、ギンヅル(祖母)から聞いて波動幾何学系シャーマンと見当をつけていた周蔵の、素質と性格を直接確かめる目的で行ったこの問答で、合格点を付けた周蔵に切り出したのは、「草になれ」という命令であった。

 

※上原勇作:(1856-1933)日向国都城(現宮崎県都城市)出身。山縣有朋、桂太郎ら長州閥の元老凋落の後に陸軍に君臨し、強力な軍閥(上原閥)を築き上げた。陸軍大臣、教育総監、参謀総長の「陸軍三長官」を歴任。

 

 

「草」とは忍者の一種のことである。当時の社会常識としてこの語を知るものが多かったが、実態が謎に包まれていたのは当然である。

 

聞くところによると、忍者には大別して三種あり、①「草」とは定住して周囲の信用を得ながら諜報活動に携わるもの、②「犬」とは行動を主として諜報活動に携わり、③「歩」とは特定の作業をコツコツと行う者の謂いである。

 

(中略)

 

■上原勇作付陸軍特務の誕生

周蔵が「草」を引き受けたのは熟慮というより、かなりふけて(40過ぎ)見える(実際は19歳)という自覚が潜在的に作用したとも思われる。それは人間の決断は、往々にして他人の窺い知れぬ心境からはするからだ。

 

(中略)

 

 

「草」とは、具体的なことは知らないが忍者の末端と聞いていた周蔵は、それが名誉名声には恵まれない仕事であることは想像がつく。「草」を引き受けることを決心した周蔵は、ギンヅルが喜ぶとは思えないので、あえて報告しなかった。

 

上原から軍部所属と個人付のいずれの立場を選ぶか問われた周蔵が、個人付を希望すると、「ただいまより上原勇作付陸軍特務とする」と言った上原が即座に命じたのが、熊本医療の薬事部で「ケシ栽培」を実地研究することであった。

 

これ以後、熊本医療薬事部の無給研究員となった周蔵が、自ら栽培したケシから取ったケシ粉すなわち「アヘン末」を上原に納めると、莫大な報酬があったうえ、生産量をなるたけ増やすため全国各地で生産農家を確保するように命じられた。

「周蔵手記」が記す周蔵と上原の問答を見ると、上原は陸軍大臣になるまでケシとアヘンのことを全く知らなかったことはたしかである。それが地区軍大臣になった途端にアヘンの重要性を認識して、個人としても「手ノ者」が必要になり、周蔵の登用を計ったのである。

したがって、前田治兵衛が周蔵を誘い出したのはギンヅルの請託を受けたもので、上原勇作の「手ノ者」にするためにギンヅルが工作したとみるべきであろう。

この流れから、堀川御所のダミーのギンヅルと薩摩ワンワールドの表看板の日高尚剛(鹿児島の実業家)が、陸軍用アヘンの生産を目的にした事業に乗り出したことは、火を見るより明らかである。

 

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