2008-12-22

日本金融史10〜ロスチャイルドの番頭、渋沢栄一〜


『日本金融史9〜イギリスがプロデュースした明治維新〜』とそれに続く、『暗躍する外交官と「金貸し」の支配戦略』でどうやら明治維新という日本における変革を成し遂げた背景に、『金貸し』の力が働いたと書きました
次はイギリスの金貸し(=ロスチャイルド家)が維新後の日本のマーケットをどのようにコントロールしていったのか、そして日本という国がどう変わっていったのか気になりますね 8)
そこで、イギリスに倣って新産業興隆、富国強兵政策を推し進めた日本に焦点を当ててみます
まず、明治時代の殖産興業を主導した人物として筆頭に挙げられるのが渋沢栄一です。
さて渋沢栄一とはどういう人物だったんでしょうか
三井総本家には三野村利左衛門という人物がいました。この人が明治はじめの三井の大番頭です。三野村は、優れた幕府重臣だった小栗忠順(上野介)の使用人だった人ですが、三井家をよく支えて幕末維新期を上手に切り盛りしました。
明治期に入り最初に日本との関係を深めた金貸しはロスチャイルド家でした。ロスチャイルド=三井を結びつける政界の窓口は長州藩出身の内務卿、井上馨。実務能力のない井上に代わって実務面の采配を振るった官僚のトップが渋沢栄一です。渋沢は生涯をかけて日本産業興隆に尽力した人物で、91歳まで生きて約500もの会社の設立に関わります。
日本の金貸し支配への変貌を探るにあたり、この『渋沢栄一』の生涯を追ってみました
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生い立ち
1840 天保11年 2月13日武蔵国血洗島村(現埼玉県深谷市)に生まれる。幼名は市三郎。のちに、栄一郎、篤太夫、篤太郎。渋沢成一郎は従兄。

渋沢家は大農家で原料の買い入れと販売を担うため、一般的な農家と異なり、常に算盤をはじく商業的な才覚が求められた。14歳の時からは単身で仕入れに出かけるようになり、この時の経験がヨーロッパ時代の経済システムを吸収しやすい素地を作り出し、後の現実的な合理主義思想につながったとされる。

徳川慶喜の家臣・幕臣として
1858 安政5年 18歳の時に惇忠の妹千代と結婚。
1861 文久元年 江戸に出て海保漁村の門下生となる。

また北辰一刀流の千葉栄次郎の道場に入門し、剣術修行の傍ら勤皇志士と交友を結ぶ。その影響から尊皇攘夷の思想に目覚め、高崎城を乗っ取り、横浜を焼き討ちにして、幕府を倒す計画をたてる。しかし、惇忠の弟長七郎の説得により中止する。

1864 元治1年 一橋慶喜に仕える。
1866 慶応2年 慶喜が将軍となったのに伴い、幕臣となる。
1867 慶応3年 パリで行われる万国博覧会に出席した慶喜の弟徳川昭武の随員として、フランスを訪れる。パリ万博を視察したほか、ヨーロッパ各国を訪問する。
大蔵省出仕〜実業家時代
1868 明治1年 帰国し、静岡藩に出仕することを命じられるが、フランスで学んだ株式会社制度を実践するため断る。
1869 明治2年 商法会所を設立するが、大隈重信に説得され、大蔵省に入省する。改革案の企画立案を行ったり、度量衡の制定や国立銀行条例制定に携わる。
1873 明治6年 予算編成を巡って、大久保利通や大隈重信と対立し、井上馨と共に退官
1875 明治8年 官僚時代に設立を指導していた第一国立銀行(現:みずほ銀行)の頭取に就任。七十七国立銀行など多くの地方銀行設立も指導。多種多様の企業の設立に関わる。
社会活動
1885 明治18年 養育院の院長を務める。

社会活動に熱心で、他にも東京慈恵会、日本赤十字社、癩予防協会の設立などに携わり財団法人聖路加国際病院初代理事長、財団法人滝乃川学園初代理事長、YMCA環太平洋連絡会議の日本側議長などもした。

1923年 大正12年 関東大震災後の復興のために、大震災善後会創立、副会長になる。

商業教育にも力を入れ商法講習所(現一橋大学)、大倉商業学校(現東京経済大学)、早稲田大学、二松学舎(現二松学舎大学)、学校法人国士舘、同志社大学の寄付金の取り纏めに関わった。また、女子の教育の必要性も考え、女子教育奨励会、日本女子大学校、東京女学館の設立に携わった。

1927 昭和2年 日本国際児童親善会を設立。他にも中国で起こった水害の水災同情会会長を務め、民間外交の先駆者としての側面もある。
1931 昭和6年 11月11日永眠。
 
 
 
渋沢栄一は「私が私利私欲に走れば、三井も三菱も相手ではない」という言葉を残しています。
そのとおりに受け止めていいと思いますが、それを言わせるバックボーン(=ロスチャイルドの後ろ盾)があったのだと思われます。
1867年のパリ万博の時にフランスに渡った渋沢は銀行家のフリュリ・エラールから銀行業、近代の金融業を学んでいます。このエラールのボスがアルフォンス・ド・ロスチャイルド伯爵で、フランス・ロスチャイルド家の総帥だったんです
渡仏中に日本では大政奉還があって幕府が倒れ、帰国した渋沢は、維新後の明治新政府に招かれます。実務能力のない政府要人に代わって采配をふるうのですが、沼津兵学校出身者など元幕臣の俊才たち(前島密、赤松則良、杉浦愛蔵、塩田三郎ら)を呼び寄せて実務を担当させました。
明治6年、大蔵省を退官した渋沢は三井組を筆頭株主とした日本最初の銀行「第一国立銀行」(のちのみずほ銀行)を設立してます。
明治15年、日本銀行が誕生し、第一国立銀行は第一銀行となりました。日本銀行が出来るまでは渋沢の第一国立銀行が紙幣を発行していたそうです
渋沢を三井の大番頭と書いている書物もありますが、三井の大番頭(三野村利左衛門、中上川彦次郎、益田孝ら)を意のままに動かしたロスチャイルドの番頭というほうが的を得ているのではないかと思います
渋沢は第一国立銀行を拠点に多くの会社を興しました。王子製紙、東京海上保険、東洋紡、日本郵船、東京ガス、サッポロビール、帝国ホテル、石川島播磨重工業、渋沢倉庫……等々、どれも始まりが国営(官営)企業だった大会社の多くを渋沢が創ったんですね!
これらのほとんどはロスチャイルド=三井系企業と考えれられ、現在に続いているわけです

こうして日本では渋沢栄一らの働きにより新産業が続々と登場してきましたが、経済の興隆と歩調を合わせて国家も変貌していきます
この日本金融史シリーズもそろそろ大詰めです
次項をお楽しみに〜

List    投稿者 manaty | 2008-12-22 | Posted in 02.日本の金貸したち3 Comments » 

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コメント3件

 らぃららぃ | 2009.06.04 19:52

日本の自給率アップ、農業支援を考えたとき、「価格支持融資制度(1930年代〜)」は、使えそうだなと思ったのですが、日本の農家と農協との間にはどういった支援策があるのでしょうか?

 aruih | 2009.06.05 22:50

らぃららぃさんへ
コメントありがとう。
コメの減反政策による毎年2,000億円、累積で約7兆円に及ぶ農家への補助金がその支援策の代表的なものと言えるのではないでしょうか。その結果が今日の農業の崩壊を招いたわけですが、農業への保護政策は国家の基盤であり、どの国でも当然おこなわれていることで、そのこと自体には問題はないと思います。
間違っていたのは減反の方で、生産して余ったものは輸出すればよいだけです。勿論、市場価格に左右されるため安定はしません。その為に生産者を保護する補助金制度があるとおもっています。
なお、このシリーズでは今後、日本の農業についても考えていく予定です。農家と農協間の支援の実態についてもその場で詳しく見ていく予定です。

 czech hermes bags | 2014.02.01 21:51

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