2018-04-27

「周蔵手記」が暴く日本の極秘事情-3~薩摩ワンワールドとはなにか?~

吉井友実 高島 上原

まずは、古くはメソポタミヤが起源のウバイド人系のネットワークが今日も世界の歴史を作ってきたことは、当ブログでも紹介してきた。その主流の一派がイギリス王室であることからすると、ヴェルフやヘッセンがその正体ということになろう。

驚くのが、この筋:本文では「在英ワンワールド」が、薩摩藩との繋がりを深めていたこと。さらに、その背後には堀川皇統があり、この時から南北朝天皇の統合を成し遂げていたこと。そして、表とウラの両天皇の存在が確立していたこと。

 

また、金貸しの本拠のベルギー貴族との婚姻関係も陸軍との繋がりなども徐々に見えてきて、今後、日本を動かしてきた勢力の相関関連が明らかになっていくであろうことに、心が躍る。

 

以下、「吉薗周蔵手記」が暴く日本の極秘事項」 落合莞爾著 からの紹介:掲載していきます。

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■■薩摩ワンワールドの三人の総長

■上原勇作の主筋はだれか?

初めて「周蔵手記」に触れた平成8年から二年ほどはその分離的な解読に無我夢中で、→の軒時の裏側と言うか、奥底にあるモノが中々つかめなかったわたしは、上原勇作の経歴及び上原と密接な関係を有する陸軍薩摩閥の軍人を調べていくうちに、吉井友実(1828~91)→高島鞆之助(1844~1916)→上原勇作(1856~1933)のラインがしだいに見えてきた。

 

地政学的海洋勢力の中核たる「在英ワンワールド」の日本支部となった薩藩下士連合(薩摩ワンワールド)の歴代総長が→の三人であったことを確信したのである。

当時のわたしが用いた「在英ワンワールド」という用語は、19世紀から20世紀にかけて地政学的海洋勢力のイギリスと、同じく大陸勢力のロシアの間で、中央アジアを中心に展開された国家抗争のいわゆる「ザ・グレート・ゲーム」を前提にした漠然たる観念である。具体的な組織と形態は分からないが、当然そのような勢力が存在するはずとの直観を表現したものである。

 

この直観があたっていたことがあきらかになるのはウバイド・ワンワールドの存在を知ったからである。

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メソポタミヤ文明の端緒をつくったウバイド人は、砂金の採取を目的にして海陸両勢力に分かれて東西に拡散したが、西に向かった勢力は、①海洋勢力が到達したスコットランドと、②海陸の両勢力が再開したアレモリカ(ブルターニュ半島)を西極とした。一方、東に進んだ勢力は海洋勢力が到達した日本列島と、海陸の勢力が再開した満鮮国境の羅津を東の極とした。 

この東西両極を起点として、各地のウバイド勢力が形成したネットワークがウバイド・ワンワールドである。グレートブリテン島を本拠とする西半球のウバイド海洋勢力が「在英ワンワールド」であり、東半球でこれに対応する「大和(在日)ワンワールド」も当然存在するが、世界史の侵攻が跛行的なためにズレが生じ、当時は「在英ワンワールド」が圧倒的に優勢であった。その後、二十世紀の日本で帝国海軍が強大化し、海運業と造船業が発展したのは「大和(在日)ワンワールド」のポテンシャルが発現した世界史的自然現象なのである。

 

(中略)

 

その初代総長が吉井友実で、二代目を高島鞆之助が継ぎ、そのあとが上原勇作と推定したわたしは、彼ら薩藩下士連合が仕えていた主君が本当は誰なのか、一体誰のために働いていたのか、という疑問を抑えきれなくなってきた。

 

その契機は「周蔵手記」の解読を通じて上原勇作が玄洋社を私兵として使っていたことを知り、上原と玄洋社の杉山茂丸が共通の主筋に仕えていることを直観したからである。

その両神共通の方公咲を当初は「在英ワンワールド」と考えて板荷、これでは獏漸過ぎてグ泰三が見えてこないのでもどかしかったが、そのうちに杉山が堀川辰吉郎なる謎の貴公子に仕えていたことが、しだいに読み取れてきた。

 

結局、これらを総合して理解するには、日本史を見渡す視野をもっと広げねばならぬ、と考えた時、「さる筋」から仄聞したのが、京都皇統代の舎人がつぶやいた謎の数言であった。

 

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玄洋社とは、広く云えば、薩摩の一部と土佐・会津・紀州を含めたものです。

堀川辰吉郎の護衛は、玄洋社と大本教でした。

周蔵さんは、上原の草というより、辰吉郎の草だったのです。

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私が「堀川攻略」の存在を知ったのは、実に右の数言を起点としたものであるが、これにより「堀川攻略」のほぼ全貌を覚ったわたしは、杉山茂丸の玄洋社も薩摩ワンワールドも共に京都皇統の主頭堀川辰吉郎の配下であったことを知った。

 

(中略)

 

■「南北朝合一」の最終目的は東西王統の結合

ところが『明治維新の極秘計画』の公刊直後に、実弟の国文学者で奈良女子大副学長の井口洋から徳田武著の『朝彦親王伝』を紹介された。その内容に一驚したのは、幕末弘化年間に奈良興福寺で一乗院の門主であった尊應入道親王(のちの久邇宮朝彦親王)が、奈良奉行川路聖謨に向かって、「わが実家伏見宮も現皇室もみな南朝」と明言していることである。

朝彦親王のこの言が事実としたら日本史の根幹を揺るがす真の大事ではないか。

しかし、なんでそうなのか検討もつかず、思い煩ったわたしが、舎人(「さる筋」)を通じて当時の京都皇統代(「その筋」)に当たってもらったところ、南北朝の極秘統合が「七百年にわたり皇室が極秘にしてきた史実」であることを教えてくださった。

 

おかげで、それまで夢にも知らなかった「大塔政略」の存在を知ることとなり、この極秘史実を公開するために、急遽『南北朝こそ日本の機密』を著したのは平成25年4月11日のことであった。

 

「大塔政略」の解説は本稿の範囲ではないので、その詳細は前掲拙著をお読みいただくしかないが、要言すれば、建武元(1334)年に南北両朝首脳の秘密合意により、大塔宮護良親王の王子益仁(のちに興仁)親王が光厳上皇の第一皇子に入り北朝崇光天皇となったことで南北両統一が一本化したことで、これこそ今日までわが皇室第一の極秘事であった。

 

南北両統一が一本化した永世親王伏見殿家が天皇の実家として扱われ、当主の伏見殿がウラ天皇となって國體を担い、内外の情報蒐集と海外活動に当たったのである。その際、伏見殿の直臣となった「國體奉公衆」の淵源はウバイド末裔の測量・設計集団で、地動説に立脚した数理科学を伝えてきた家系であった。

折から欧州では、ウバイド系ケルト王統のアサル朝が廃絶の危機にあり、これを救うために、護良親王が欧州に送り込んだ直系の王子の子孫が「欧州大塔宮」の一族となり、同じく後南朝皇族と護衛武士たちの子孫が「欧州後南朝」の淵源となるのである。

 

ベルギーを拠点として毛織物業で勢力を蓄えた欧州大塔宮一族は、ペスト(黒死病)で人口が激減した欧州の各地で貴族となり、やがてウバイド西王統のケルト系王室と混淆して「欧州王家」となる。かくしてウバイド西王統を護良親王の子孫が継ぎ、ここに東西王統の結合が成ったのである。

 

ウバイド系測量集団の代表的人材が伊能忠敬で、伊能が第七次測量隊の基地とした備前国箱田村の郷土細川家から出たのが榎本武揚であった。江戸時代末期まで各地の郷土であった測量集団は幕末に江戸に集められて幕臣になり、大和ワンワールド海洋勢力の再興の基礎となったのである。

 

ともかく、薩摩下士連合の総長となった上原勇作の主筋は堀川御所の京都皇統で、具体的には堀川辰吉郎であることが分かった。上原がギンヅルの指示で陸士工兵科に入れられてフランスに留学させられ、アルザスを本拠とする欧州大塔宮系ポンピドー家の女性と秘密結婚したのも、欧州大塔宮系秘密結社に入会するのが目的であった

 

陸軍大臣になった上原に、ケシ栽培とアヘン製造について陸軍として研究するようにとの沙汰が堀川御所から下ったのは、この関係からである。その沙汰は、堤哲長からギンヅルを通じ手もたらされたと見るしかない。

 

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