2011-08-10

世界の闇の支配勢力から日本の支配史を読み解く 【歴史No.2 金貸し(カトリック)の狙い⇔時の為政者の思惑】

前回のエントリーで述べたように、キリスト布教の名の下、欧州勢の商圏=市場拡大という狙い通りに日本との貿易は実を結んでいった。
一方、彼らの上陸以降、戦況下にあった日本では徐々にポルトガル(カトリック)がもたらしたキリスト教の影響が顕在化してきた。
鎖国の完成以降、江戸幕府は踏絵で知られるようにキリスト教徒を弾圧してきたわけだが、南蛮貿易の時代から一転、なぜ弾圧するまでに至ったのだろうか?
これを考えるに当たって、時の為政者とキリスト教との関係に着目してみる。
歴史の教科書でも出てくるように、鉄砲の火薬=「硝石」を獲得しようとした信長は、南蛮貿易に積極的であり、カトリックの布教に対しても寛容であった。
信長の姿勢を受継いだ秀吉は当初の布教保護から一転、バテレン追放令で知られるように宣教師の追放へそして後の家康も寛容⇒布教の禁止と、キリスト教との距離の取り方は三者三様である。
一体この背景には何があったのだろうか?
今回のエントリーでは、激変の1600年前後における日本側の事情から、キリスト教、市場経済の発展、権力者の思惑という切り口で鎖国に至った背景に迫ってみたい。
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◆キリスト教との距離の取り方 信長〜秀吉〜家康
古の金貸し=カトリック教会にとって、布教活動と植民地化・通商貿易とは表裏一体のものであり、日本でも同様に、1500年代の彼らの上陸以降、南蛮貿易とキリスト教は同時に伝播していった。
いわば、現代でいうグローバリズムに飲み込まれた状態であったこの時代、時の為政者たちは何を思い、どのように対処していったのか?まずは信長〜秀吉の時代から見ていく。

左から、信長・秀吉・家康

愛の哲学 欧州文化の到来とキリスト教の流布
1549年仏教伝来以来実に1,000年の時を経て新たな革命的宗教思想が日本に上陸する。イスパニア・イエズス会宣教師フランシスコ・ザビエルが鹿児島にキリスト教布教のために上陸したのであった。この上陸は同時に欧州文化を日本に伝えることになった。と同時に欧州経済の影響(南蛮貿易)も受けることとなる。戦国大名にとって欧州の文化とはすなわち圧倒的な近代兵器のことであった。この近代兵器の輸入と引き換えに戦国大名はキリスト教の布教を許可することになる
当時の日本は応仁の乱の直後であり、世相は混乱し人々は救いを求めていたが鎌倉時代に隆盛を極めた仏教は世俗化が進んでいた。また一向宗などは宗教による革命を実施し、各地の戦国大名から弾圧を受けていた。日本での唯一の革命(階級闘争による政権交代)はこの一向一揆といえる。このような時代、愛と平和の宗教であるキリスト教は新たな救いとして入信者を驚異的に増やすことになった。
鹿児島への初めての布教から10年余りで戦国大名の中にキリスト教を保護または改宗するものが現れる。これがキリシタン大名である。無論、キリスト教に完全に改宗している大名もいたと思われるが基本的には南蛮貿易を有利に進めたいという思惑、及びその宗旨が封建制度に効果があるという思惑があったと思われる。キリシタン大名は南蛮交易の中心地でもあった長崎がある九州を中心に増え続けた。
政治的な背景とともに戦乱・飢饉に明け暮れていた戦国時代に、キリスト教は民衆の支持を得ることになる。ここまで驚異的な広がりを見せたのはなぜだろうか?ひとつは日本に神道・仏教による高度な宗教的素地があったことである。つまりアミニズムへの布教よりもより高度なレベルでの宗教的意思疎通が図れたこと。現に仏教用語によるキリスト教布教も行われた。もうひとつは更にキリシタン大名による領民への大量宣撫があったことが原因であろう。
豊臣軍事政権 キリスト教の取締りと南蛮文化の発展
一向宗を叛乱の徒として強烈な弾圧を加え、仏教勢力の政治的野心を実力を持って封じた織田信長が畿内首都圏を制圧すると、彼はキリスト教を仏教の対抗勢力として利用するために、大幅な布教拡大を認める。これが日本における初期キリスト教の全盛期となるが1587年、豊臣秀吉により伴天連追放令が出される。これには様々な理由があるが、ひとつは封建主義にとって領主(関白・太閤・天皇等)以上の絶対的存在を説くこと、もうひとつはこの頃から強化された身分制度の否定(神の御名において万民は平等である)につながる思想であったこと、そして一向宗に悩まされた経験からの宗教勢力の早期排除であるとされる。
しかしながら秀吉のこの政策は南蛮貿易は認めるという中途半端なものであったため、民衆の間にはますますキリスト教が流布されることになる。イエズス会はこれを逆手に取り、南蛮貿易の変わりに長崎に宣教師10名の派遣などを秀吉に認めさせるなど、この政策は空洞化されていく。イエズス会の独占状態であった日本にフランシスコ会がイスパニア総督使節として上陸したが、フランシスコ会はイエズス会の経験や、日本の政治的背景、宗教的背景を無視し、強引な布教を行った。そのなかで1596年サン・フェリペ号事件がおこる。イスパニアの戦略は南蛮貿易をちらつかせキリスト教を布教、キリスト教の影響下において軍事力により植民地化することにあるという一航海士の話が発端となり、秀吉の対応を硬化させることになる。
1597年有名な26聖人殉教が行われる。6人の外国人宣教師(フランシスコ会)、18人の日本人修道士・信者が耳と鼻をそぎ落とされた後、大阪から長崎まで徒歩で移動させられ磔刑により処刑された。(その護送途中に殉教を志願した2名の日本人が同様に磔刑)これが日本におけるキリシタン弾圧の始まりであった
(以上、「死刑廃止と死刑存置の考察」サイトより転載)

戦国時代、浅井、朝倉、上杉、武田といった戦国大名がひしめく中、信長の思惑は、「南蛮貿易」によって火薬の原材料である「硝石」の獲得と一向宗に対する抵抗勢力の必要性〜つまり「キリスト教」の利用にあった。両者の承認は、市場拡大+布教活動というカトリック国の狙い信長の野望・利害とが一致したものだった。

また、「キリスト教」は大衆にとっても意義があった(上記はキリスト教徒の推移)。戦国の混乱(=どうしようもない現実)の中、輸入されたキリスト教が彼らの救いになっていたのだ。
そして、その思想の中身=(現実には存在しえない)「平等」や「自由」といった旧観念が、戦国の身分序列社会(封建社会)の秩序を乱すものであったこと、それを秀吉が見抜いた(であろう)ことは注目に値する。
しかし、バテレン追放令の半端さが示すように、(宣教師を締め出しはしても)南蛮貿易を否定できなかった秀吉は、既に市場≒金貸しの思惑に飲み込まれていたといえる。
そして南蛮貿易の利に群がった九州の大名たちも同様で、貿易によって利益を拡大させた勢力がキリシタン大名となり、後年の農民一揆〜島原の乱の礎となっていった。
続いて江戸時代になると・・・

江戸連邦政権  過酷な宗教弾圧と潜伏する信者たち
1598年には秀吉が死去し、キリシタン弾圧は一時的に弱まる。これは徳川家を中心とする武断派と、豊臣家を中心とする文治派との軍事的緊張が高まる中、キリシタン大名を味方に付ける施策として行われたわけである。この結果キリシタンは益々増大し、関が原の合戦が行われた頃には40万人〜70万人を数えることになる。関が原の合戦では多くのキリシタン大名が味方した西軍(文治派)が破れ、キリシタン大名の発言力・政治力は激減することになる。
この頃、オランダが日本との通商に来航した。徳川家康にとって宗教と経済を分離したオランダの施策は、政権獲得後の政情安定には非常に魅力的であった。1912年江戸幕府は禁教令を発布、本格的な宗教弾圧に乗り出す。この禁教令の発布理由は様々であるが基本的には秀吉の伴天連追放令に沿った理由である。しかし大きな理由としては西国大名にキリシタン大名が多く、その多くが関が原では西軍(豊臣側)についたことが大きいとされる。
1614年慶長禁教令、1616年元和禁教令が相次いで発布され、キリシタンへの宗教弾圧は苛烈を極める。当初は流刑程度であったものが斬首刑・磔刑・火刑が次々と執行される。キリシタンの武士は切腹を行わなかったため、武士も死刑に処せられた。処刑人数は不明であるがおよそ10万人〜30万人にのぼるとされている。しかしキリシタンにとって教義に殉じて死を迎えるものは栄光ある死であり、高貴な死であるとされ殉教者として讃えられたため、死刑の執行に代わり改宗拷問が行われることになる。拷問には水牢責め、火炙りなどが用いられ酸鼻を極めるものであった。
苛烈なキリシタンの弾圧は特に宗徒の多かった九州地方で多く行われた。凄まじい重税が科せられ1634年〜36年の凶作が発生した天草地方では(妊婦に行われた水牢責めが原因といわれている)1637年初めてのキリシタンによる武装蜂起(実際は農民一揆だがキリシタンに責任転嫁したという説もある)が行われる。これが島原の乱(天草四郎の乱)である。キリシタンを中心にした武装勢力は緒戦に勝利するも、翌年幕府軍により鎮圧される。この結果幕府軍に1万人以上の戦死者がでたため、領主板倉勝家は武士、それも大名であるがその責を厳しく問われ斬首刑に処せられている。この事件はキリシタンによる武装革命事件として幕府により喧伝された。翌年1639年ポルトガル船来航禁止令が発布され、鎖国状態は完成する。
(同「死刑廃止と死刑存置の考察」サイトより転載)

1600年関が原の戦いの約半年前の3月、不思議なことが起こる。オランダ商船リ−フデ号が豊後の国に漂着した。乗員には、イギリス人ウィリアム・アダムス(後の日本名「三浦按針」)、オランダ人ヤン・ヨーステンがいた。

リーフデ号(Wikiより)
南蛮貿易の取引先であるポルトガルやスペインはカトリック国であったが、このリーフデ船の漂着により、プロテスタント国家で欧州の雄にのし上がりつつあったオランダとの接点を、日本は持ったのだ。
このリーフデ号が運んできた武器は全て家康によって没収されたという(この物資が関が原の戦いに貢献したのであろうか?)またこの紅毛人の両名は、後の家康政権において外交顧問としての地位や領地を与えられており、日蘭・日英貿易の開通の立役者となったことからも、秀吉側についていたカトリック勢力ではなく、新たなプロテスタント勢力と関係を結ぶことが、家康にとっていかに利になっていたかが推測される。
かくして、鎖国=オランダとの独占貿易に向けての基盤ができ上がっていった。
(3へ続く)
参考)世界史に見られるランドパワーとシーパワーの戦略

List    投稿者 pipi38 | 2011-08-10 | Posted in 02.日本の金貸したち8 Comments » 

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コメント8件

 バーバーリコピー | 2012.12.26 13:29

俺的にはいつも笑顔で悔しくてもそれを口にしないってアイドルに飽きてたから新鮮な人だった。

 匿名 | 2013.03.05 22:17

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はじめまして。突然のコメント。失礼しました。

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