2012-07-17

【戦国時代の権力需要と市場】シリーズ第6回 〜信長と他の武将との違いは「寺」「港」「城」

「信長は多量の金銀を持っていたほか、日本にきたインドの高価な品や中国の珍しいもの、朝鮮やそのほかの遠方の立派なものは皆、彼が手中にした」・・・(イエズス会宣教師フロイス)
「安土城には黄金一万枚が保管されていた」・・・(津田宗久)
当時の信長は上記のように相当の経済力を持っていたようです。
信長はどうやってこの経済力を持つことができたのか?時は戦国時代。他の武将と同じことをやっていれば、同じ程度の経済力しか持ち得なかったはず。よって他の武将と信長では何が違っていたのか?今回はここに着目してみたいと思います。
前回までの記事
 金貸しの起源は堺にヒントがある!  
 鉄砲伝来の背後にいた勢力  
 巧妙な観念力で勢力拡大してきた寺社〜  
 既得権益層を打砕いた信長の経済政策〜  
 信長の天下取りに貢献した「堺」の歴史 
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改めて、信長はどうやってこの経済力を持つことができたのか?
今回はその辺りの視点で捉えている『織田信長のマネー革命(著:武田知弘)』から引用していきたいと思います。
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そこで信長と他の武将の違いを考えたとき、三つのキーワードが浮かび上がってくる。
それは「寺」「港」「城」である。
・仏教寺院を迫害したこと。
・領地よりも港を欲したこと。
・居城を何度も替え、新しく巨大な城を造り続けたこと。

この三点は、信長が他の戦国武将と大きく違う部分である。そして信長が他の戦国大名よりも大きな経済力を持てたのも、この三つのキーワードが関係しているようである。まさにこれらは信長の経済力の源とも言うべきものなのだ。

まずはキーワードの二つ、
「寺」:仏教寺院を迫害したこと。
「港」:領地よりも港を欲したこと。
実はこの二つは既に今回のシリーズで扱っています。
まずは「寺」。
 巧妙な観念力で勢力拡大してきた寺社〜  
 既得権益層を打砕いた信長の経済政策〜
 
 ◆強大な「支配階級」としての寺社
 ◆比叡山は全国に領地(荘園)をもっていた
 ◆悪徳金融業者の横顔を持った比叡山
 ◆商業、物流を支配していた比叡山
信長が仏教寺院を迫害した理由は、自らが利権を得る為には強大な力を持った寺社勢力の既得権益を削ぐことが必要だったからです。
そして「港」。
 信長の天下取りに貢献した「堺」の歴史
 
 ◆信長が目をつけた国際港「堺」
 ◆堺は日本最大の軍需都市だった
 
信長が領地よりも港を欲した理由は、日本最大の物流拠点であったこと、また日本最大の軍需都市であったこと、そして最大の目的は関税を掛けられることによる利潤を得られるからです。
では三つめ。
「城」:居城を何度も替え、新しく巨大な城を造り続けたのは何故だったのでしょうか?
以下『織田信長のマネー革命(著:武田知弘)』から引用します。

◆築城するたびに冨が集まるという謎
信長が他の戦国武将と大きく違っている部分に、「居城」がある。信長は、生涯の中で四回も居城を替えている。那古野(なごや)城に始まり、清洲城、小牧山城、岐阜城、安土城である。しかも、本能寺の変のときには大阪にも築城中であり、これが完成すれば大阪を居城にした可能性もある。
〜中略〜
信長の造った、“豪勢な城”は安土城だけではないのである。岐阜城も当時としては破格の四階建ての天守を造っており、庭園や茶室、舞台を備えた広場まであったという。また京都に造った将軍の御座所や皇太子のための二条城など、信長はまるで趣味のように“豪勢な城”を矢継ぎ早に造っている。
信長は自分だけではなく、配下の武将にも非常によく城を造らせている。明智光秀の坂本城、羽柴秀吉の長浜城、柴田勝家の北の庄城などである。「築城」の多さは、織田政権の特徴ともいえる。
そして信長は、築城とともに大掛かりな城下町建設も行っている。安土や岐阜などは、信長の整備によって巨大都市となった。もし戦略的な理由だけならば、城を移らずとも、戦略上の要衝に砦か支城を造っておけば事は済むはずだ。実際、他の戦国武将はそうしていたのである。なのに、なぜ信長は新しい城を造り続けたのか?
そこには、経済戦略があるのではないか、と筆者は考えている。普通に考えれば、多額の費用がかかるので城を移るごとに貧しくなっていくはずだ。しかし信長は、城を移るごとに経済力を増したように見受けられる。
実際の信長の財務諸表などが残っているわけではないので、明確なことは言えないが、『信長公記』などを見れば、居城を移すたびに貧乏になるどころかかえって富貴になっているようである。だから実は、信長は居城を移すことによって、さらに財を増していた。つまり「築城自体が錬金術になっていたのではないか」ということである。

◆信長の城は巨大な税務署だった
信長はなぜ城を造るごとに富貴になっていったのか?まず考えられることは新しい城が“無言の税務署”となっていたのではないか、ということである。
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戦国時代というのは、実は税の取り立てが非常に難しい時代だった。戦国大名が治めていた領地というのは、ほとんどが公的に認められたものではなく、武力で勝ち取ったものである。そこに正式な「統治権」などはない。
その地域の大名が倒れれば、「統治権」が自動的に倒した方の大名に引き継がれるわけではなく、統治の空白は生じるだけなのである。だから「尾張一国を平らげた」「美濃を攻略した」といっても、すぐさま新しい領地の租税が信長に入ってくるわけではなかった。
戦国時代は、領地などの権利関係が非常にあいまいだった。もともと荘園だったものが、武家に取られたり寺社に取られたりすることは日常茶飯事だった。領主同士の境界付近にいる農民は、両方の領主に二重に年貢を納めている場合もあった。所有者が明確になっている領地でも、代官の力が強い場合は、代官が年貢のほとんどを持っていくこともあった。
また戦国時代の農民というのは、我々が漠然と想像しがちな虐げられてばかりのヤワな存在ではなかった。権威が分散しているので、農民としては、だれに年貢を納めていいかわからない。だから農民は、もっとも頼りになり、しかも待遇のいい領主に不満はあれば、年貢の支払いを停止したり、村ごと領主を替えるということも行われた(『百姓から見た戦国大名』)。
戦国大名は、敵の大名を武力で倒すだけはでなく、占領地の領地を鎮撫し徴税をしなければならない。そうしなければせっかく苦労して敵将を倒しても、新しい収入は入ってこないのだ。
信長は尾張を平定とすると加速度敵に版図を拡大してきた。それは、新領地からの徴税が非常にスムーズだったということを意味している。新しい領地を獲得しても、徴税に手間取っていれば、経済力の強化にはつながらない。当然、次の展開に踏み出すことはできない。信長が矢継ぎ早に領地拡張戦争を起こせたということは、新領地の統治を素早く軌道に乗せたということである。
信長は、新しく獲得した領地にすぐさま城を建設してきた。尾張を平定した直後に清洲城に居城を移し、美濃を攻略した直後に岐阜城を建てているし、近江を平定した直後に安土城を建てている。信長は、常に「旧適地」に新しい居城を築いてきたのだ。
これは、信長がその地域の新しい支配者がだれであるか認識させ、徴税をスムーズにするためのものだったのではないか。新しく、巨大な城ができれば、領民は嫌でも「支配者が替わった」ということを思い知る。
またその城は「その地域の治安を守る」という意思表示でもあっただろう。城が立派であれば立派であるほど、領民は安心するのだ。そして領民にとってはだれに年貢を納めればいいかが、明確になるというわけである。
つまり信長の城は、敵に対しての牽制でもあり、領民に対しての威圧と安心を与えるものでもあったのある、それは当然、租税収入に反映される。言ってみれば安土城は“巨大な税務署”だったのである

◆日本最初の不動産デベロッパー
信長の「城造り錬金術」にはもう一つの大きな仕掛けがあった。それは「城下町建設」である。信長は城を造るたび、大掛かりな区画整理を行い城下町を造成してきた。つまり信長の「城造り」はすなわち「街作り」でもあったのだ。
信長の城下町というと安土が有名だが、信長は安土以前にも精力的に城下町の造成を行っている。尾張時代の小牧山城の築城のときすでに周囲の土地を大規模造成し、城下町を作っている。それ以前の居城であった清州城にも市が二つあったことがわかっており、これもおそらく信長によって設置もしくは拡張されたものだろう。
このように信長は、かなり早い段階から“城下町建設”を行ってきたわけである。そして城下町を作ると、そこで後に詳しく述べる楽市楽座を施行し、商業地として発展させてきた。
これが信長の錬金術だったのである。他の戦国武将も、自分の城下の街を栄えさせることには心を砕いてきた。しかし、「次々に新しい街を作り続ける」という発想はまったくなかったのだ。
つまり信長にとっては、城造りは“不動産投資”であり、いわば不動産デベロッパーの役割を果たしたわけである。信長が「城を造るたびに豊かになっていた」のは、ここに最大の要因があったのだ。
現代の我々は、新しい街を作りそこに人が集まってくれば、大きな収益につながることを知っている。しかしこのことが昔から知られていたわけではない。「次々の新しい街(商業地)を作って、そこから収益を上げる」という不動産デベロッパーのような発想を、信長はすでに持っていたのである。

城、街を造ることで仕事を作り、人が集まり、税金が集まる・・・。信長が、城を造り続けた理由。それは一言で言えば権力需要を作り出すことで、金を集めていたんですね。
信長が押さえた3つのキーワード「寺」「港」「城」。これは全て利権、金が目的だったことがわかります。言い換えれば、この戦国時代を勝ち抜くには利権と金が必要だったと言うこでしょう。戦国時代は武力支配ではなく資力支配であったことが明確になりました。
最後に、信長はここまで錬金術師であったのか・・・と言う面白いエピソードを1つ紹介しましよう。

◆安土城は日本で最初のテーマパークだった
天正10(1582)年元旦に、安土城は竣工し、年賀のあいさつを受けるという形で一般公開された。
これは非常に珍しいことである。もしかすると日本で初めてのことではないだろうか?今でこそ、大きな建築物ができた場合は、たくさんの人を招いてのお披露目が行われる。しかし時は戦国時代である。城の内部というのは、軍事機密であり、本来外部にもらすものではない。しかし信長は、そこをあえて全部公開してしまったのである。
〜中略〜
この一般公開に先立ち、信長は「大名小名に限らずお祝い銭を100文ずつ用意するように」という触れをだしていた。つまり入場料を取ったというわけだ。あまりに人出が多いので、人出を制限しようとしたのだろうか?それとも、これだけ人出が多ければ金をとればいい儲けになる、と考えたのだろうか?
いずれにしろ、戦国武将が「自分が造った城を金をとって庶民に見せる」というのは前代未聞のことである。ある意味ではテーマパークの走りだと言えるだろう。
〜後略〜

List    投稿者 kouga | 2012-07-17 | Posted in 02.日本の金貸したちNo Comments » 

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