2018-05-11

「周蔵手記」が暴く日本の極秘事情-5~明治期の金貸し・奥の院の日本侵食~

Yamagata_Aritomo 西郷隆盛

在英ワンワールドとは、当ブログでこれまで追求してきたヴェルフ・ヘッセン→ロスチャイルドのグローバル派。在米ワンワールドとは(ユダヤ系→)ロックフェラーのグローバル派と思われる。

大和ワンワールドとは、薩摩を実働部隊とする國體天皇(南朝系裏天皇):堀川殿の一派。

 

薩摩は元々陸軍系を牛耳っていた様子。しかし、山縣有朋の長州勢が勢力を伸ばしていくことに西郷隆盛は警戒感を抱いていた。(西郷隆盛は西南戦争の際に日本を脱出し、弟を通じて長州の監視を行いつつ、遠隔操作していたとのこと。)

大東亜戦争はその帝国陸軍を強制終了させる意図があったとのこと。

長州といえば田布施勢力の母体で、明治期以降は一気に海軍擁護の流れへ。

文面からは、山縣・陸軍の政治思想が田布施―南朝勢力の反感を買ったため、潰された可能性が高い。(山縣の暴走か?)

 

山縣と田布施の関係など、この辺りの微妙な力関係がまだ不明な点も多く、今後ここに注目し構造化していきたい。

以下、「吉薗周蔵手記」が暴く日本の極秘事項」 落合莞爾著 からの紹介:掲載していきます。

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■在英ワンワールドと大和ワンワールド

明治45(1912)年4月5日に陸軍大臣に就いた上原勇作は、薩摩ワンワールドの総長の座を高島(鞆之助)から譲られたが、その地位に必須なケシ・アヘンについてほとんど知識がなかったので、支援者ギンヅルは、上原にその知識を得させるために、わが孫でウバイド系の波動幾何学系シャーマンの典型と見込んだ吉薗周蔵を起用したのである。

 

(中略)

 

メソポタミヤを起点に東西に拡散しネットワークを形成したウバイド人は、ネットワークの両端でケルト系西王統と大和(縄文)系東王統に分かれたが、14世紀に渡欧した護良親王の王子の子孫すなわち「欧州大塔宮」が接着剤となり、数世紀かけて東西王統を実質的に統合したのである。ウバイド東王統は日本列島だけでなく、東アジアじゅうに広がるが、中核は日本の國體天皇であるから、「在日ワンワールド」と呼ぶことになるが、いかにも語感が悪いので「大和ワンワールド」の方がよいと思われる。

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薩藩下士連合は、集合無意識によって形成された否定型的な集団であるから、その上部機関を「在英ワンワールド」と見てよく、また國體天皇を戴く「大和ワンワールド」としてもおかしくないのは、東西のワンワールドがすでに統合して、「ウバイド系地球ワンワールド」を成しているからである。

 

光格天皇以来、「在英ワンワールド」と「在欧ワンワールド」を中心とした列強が日本に開国を迫ったのは、「大和ワンワールド」のシェルターを開放して在英在欧のワンワールドと統合する目的であった。そこへ、19世紀後半から形成されつつあった「在米ワンワールド」も、これに加わるべくペリー提督の来航となったのである。

 

■薩摩ワンワールドの三代目総長が上原勇作

秘密結社の会員において頻繁に見受けられる特徴は、①秘密を保持するために婚姻関係を狭い範囲で固めること、②秘密の行動を隠蔽するため外部の高い役職に就かないこと、この二つであるが、これが吉井と高島によく合致するのである。

 

となれば、その三代目総長に高島の共同事業者ギンヅルの甥で高島の義弟野津道貫の女婿の上原勇作を就けたと見るのは筋が通る。逆に言えば、上原を三代目総長にするためにギンヅルと高島が幼少から育て、野津が娘を与えたのであった。

 

それなら上原の陸軍内での順調すぎる出世の意味を説明せねばならないが、これは山県有朋・長谷川好道・寺内正毅など続々台頭してきた長州閥による陸軍支配を阻止するために、その職位がどうしても必要だったからである。要するに宇都宮太郎らが図った「起高作戦」が、形を変えて上原の陸軍大臣が実現したのである。

 

さて、山県有朋を棟梁とする陸軍長州閥を創らせたのが大西郷(西郷隆盛)であることを、拙著『ワンワールドと明治日本』で明らかにした。大村益次郎が暗殺されたあと、後継者の山田顕義を斥けて陸軍の棟梁に山縣を就けたのは大西郷で、弟の小西郷(西郷従道)と従弟の大山巌に山縣を見張らせていた。

 

大西郷が「西南の役」の混乱に乗じて日本を脱出したことも、同じく『ワンワールドト明治日本』で明らかにしたが、大西郷は欧州から小西郷(西郷従道)を通じて山縣に指示していたのである。指示の内容は主として薩人を地方官に配した地方行政に関するもので、陸軍の軍政は山縣に任せていたので寺内が台頭したのである。大西郷の密命を受けた山縣は、明治16(1883)年に内務卿を兼ね、明治18年からの内閣制でも引き続き内務大臣として明治21(1888)年まで在任する。内相の座を一旦松方正義に譲った山縣は、22年に自分の内閣を組織すると、再び内相を兼ねて23年まで在任した。

 

足かけ7年もの内相在任中に内務省内に山縣閥を創った山縣は、大西郷の指示が届かなくなると、しだいに本省を露呈し始めた。反山縣の旗幟を鮮明にした鳥尾小弥太・三好重臣ら騎兵隊の幹部を陸軍から追放した山縣はその側近の寺内正毅・長谷川好道らと陸軍長州閥を固めたのである。

 

大西郷が配した山縣見張り役は、西郷従道が明治17(1884)年から海軍に転じたので大山巌一人になる。明治13(1880)年から陸軍卿と陸相に在任した大山に代わって明治24(1891)年に高島鞆之助が陸相に就いたのは、松方正義を援けて日清戦争に備えるためであった。翌年には再び陸相に就いた大山に代わり、29(1896)年に高島が再び陸相に付いたのは、松方正義を援けて日露戦争に備えるためであった。

 

欧州の大西郷から山縣宛に指示が届かなくなるのは、大西郷が他界したからで、その時期はおそらく大西郷が70代に入ったころで、日清戦争後の明治30(1896)年ころと推察される。

 

山縣閥の失政が端的に現れたのが朝鮮半島の経営である。

山縣の腹心として陸軍内順調に昇進した寺内正毅は明治43(1910)年5月、陸相のまま第三代韓国統監を兼任する。同年8月23日の日韓併合により設置された朝鮮総督府で、引き続き陸相兼任のまま初代朝鮮総督に就任した寺内は、憲兵に警察を兼務させる憲兵警察制度を創始して朝鮮の治安維持を行ったが、そうした典型的な武断政治を引継いだのが長谷川好道である。

維新以来、山県有朋に目を付けて執拗に工作していたのは、国際金融連合とその憲兵たる外国の諸勢力で、王室ワンワールドの反主流派も加わっていた可能性がある。その工作が現れるのは大西郷が他界したからで、その時期は日清戦争後の明治30年頃であろう。ようやく堀川政略の存在に気づいた山県有朋が、僥倖で戊辰戦争の勝者となったことで得た長州卒族の特権を確保せんがために、堀川辰吉朗と久邇宮邦彦親王に対する警戒感を募らせたのである。

 

山縣長州閥の最大の特徴は、①植民地主義と②武断憲兵政治および③皇国史観を中心とする精神教育で、明治維新の主旨と正反対のこの思想が帝国陸軍を染め上げた結果、昭和初期の帝国陸軍は科学的客観性と道義性を失っていったが、あの良識人の桂太郎や児玉源太郎がその防波堤にならなかったのは残念なことである。

 

大東亜戦争の本質はもとより地球上の資源配分をめぐる生存競争であるが、その秘められた一面として長州山縣派に染まった帝国陸軍を強制終了させる計画があったことに何人が気づいたろうか。

大東亜戦争で山縣流陸軍は強制終了したが、これに代わってもっと「タチの悪い連中」が進駐してきたことに気がついた人もそう多くはない。「タチの悪い連中」とは、マッカーサーを担いながら、トルーマンの配下としてGHQを支配したニューディーラーすなわち在米国際共産党である。

■四代目は荒木貞夫と甘粕正彦が分掌

薩摩ワンワールド三代目総長の上原のあとを継いだのは陸軍大将荒木貞夫(1877~1966)である。

薩藩下士連合のメンバーではない荒木が就いたのは、その結社の中身が、もはや薩藩ワンワールドではなかったからである。つまり、維新志士の第一世代が華族になり、それを継いだ維新第二世代が大正天皇・孝明皇后の宮中に入って宮中ワンワールドを形成したことで薩藩ワンワールドは変質し、薩藩下士の子孫には、もはや適任者がいなかったからである。

 

一橋家臣出身の佐賀藩士荒木氏に入った荒木貞夫は、生家が紀州有田郡広川村の広八幡宮の神官佐々木氏とされるが、これにはすこぶる疑問が多い。荒木の事蹟で注目すべきは、

①中露武官として赴任した際、チャーチルの招きで欧人女性に伴われてロンドンに行ったこと。

②第一次大戦でロシア軍の連隊長として戦いロマノフの黄金を搬出したこと。

③ドイツ軍の捕虜から解放された後、ウラジオ派遣軍参謀となり、ブラゴヴェシチェンスク(シベリア南部)の砂金を黒龍江省に移したこと。

④帰朝後に孝明天皇の孫で堀川御所生まれの松下豊子の相棒となったこと。

⑤東京裁判(極東国際軍事裁判)で一票差で死刑を免れて終身禁固の判決を受けるが、チャーチルの指示で収監されず、自宅禁固となったこと。

である。

 

いずれも帝国軍人の範疇を超えていて、その出自の特殊性が窺える。つまり荒木氏は日本人ではなく、欧州大塔宮の一族と視た場合にすべて筋が通るのである。

 

上原の跡を継いだのは荒木だけではない。上原勇作と「在欧ワンワールド」のアルザス女の間に生まれた混血女性が来日して憲兵大尉甘粕正彦と秘密結婚したことを初めて明らかにしたのがわたしの『ニューリーダー』の連載であるが、この結婚は上原の地位の半分を甘粕が引継いだことを意味する。つまり、「大和ワンワールド」の日本支部としての地位を甘粕に譲ったのである。

 

角田房子『甘粕大尉』に、甘粕の年譜にフランス・フリーメイソンの「大東社」に入ったことを明記している、とある。大東社は「在欧ワンワールド」配下の秘密結社であるから、明治14(1881)年のフランス留学時に上原勇作が入った秘密結社も、大東社かそれと近縁のものであることは間違いない。

 

ウバイドの東西王統が結合した「地球ワンワールド」の中枢は、要するに「世界王室連合」である。ゆえに、その日本支部とは國體天皇堀川殿を仰ぐ國體勢力で、やがて薩藩以外にも入会者が出てきたのである。

 

その一例が鈴木商店で、神戸の砂糖・樟脳の問屋から起こり、第一次大戦を機に大財閥を形成しながら昭和恐慌で台湾銀行と抱き合い心中する。その鈴木商店が買収したアヘン煙草の元締め東亜煙草株式会社が大正9(1920)年に満州に進出するに際し、上原勇作の指示を受けて販売網の基礎を作ったのが吉薗周蔵であった。

鈴木商店の関連事業を統轄したのは藤田謙一で、これを支えてアヘン煙草部門を担当したのが上原勇作は以下の日高尚剛であった。つまり、國體勢力はアヘン事業に深く関わっていたのである。

 

陸軍大臣に就いた上原も國體勢力の参謀長としてアヘン部門を指揮する立場となったが、これまで軍務一筋のためアヘンの実務を知らなかったので、ギンヅルは上原の私的特務とするよう工作した周蔵にケシを栽培させることで、上原のアヘン知識を深めさせたのである。

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