2013-02-14

■日本史から探る脱市場の経済原理(10)〜日本で宋銭が流通したのはなぜか〜

7世紀後半から富本銭や和同開珎〜そして皇朝十二銭など国内で貨幣は鋳造されましたが、500年もの間なかなか浸透しませんでした。(4)〜日本で貨幣が浸透しなかったのは〜
それは、そもそも余剰生産物が乏しく、したがって流通も納税中心で市場が発達せず貨幣を必要としなかったからです。
しかし、平安後期に中国から宋銭が大量に流入し、急速に浸透していきました。
今回のテーマはなぜ、宋銭が日本で初めて本格的に流通した貨幣となったのかです。


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宋銭を大量に流入させたのは平忠盛・清盛親子です。
その目的、経緯は後ほどにして、まずは忠盛がどのように台頭してきたのかを見てみましょう。
894年に遣唐使が廃止されて以来、日中の正式貿易は途絶えていました。
その後、960年に成立した北宋が高麗との貿易や南海貿易を行い、日本とも貿易を始めました。博多や越前を主な貿易港として利用し、南宋になっても博多には多くの宋の商人が滞在していたと言われています。
平忠盛(たいらのただもり1096‐1153)は京都で検非違使を務めた後、越前守として在任中に日宋貿易の巨利に目を付けました


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彼はその後、瀬戸内海の海賊を征伐し(1129)、(実際は単なるなわばり争いで、降伏した在地領主を家人とし、忠盛の側に寝返らなかった反朝廷勢力を海賊扱いにした)。
交易に詳しい海賊(海運を担ってた)たちからの情報もあったのでしょう、その後、忠盛は日宋交易の拠点、博多の利権を手に入れようと画策しました。
それまで、太宰府の官人が宋の商人達と優先して取引を済ませ、その後に民間人が取引を行っていましたが、忠盛は公文書を偽造し院宣と称して太宰府の関与を退けたのです。鳥羽院を後ろ盾とする忠盛に対し太宰府の官人も引き下がらざるを得ず、京に居ながらにして一気に交易を独占、巨万の富を得ることができました。

しかし、彼は奢侈に溺れず、ひたすら一族の権力増大に務めたようです。
武士として初めて昇殿を許されたのも、舶来品を院への貢ぎ物や勢力拡大に用いたからに他なりません。

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宋からの輸入品は陶磁器、絹織物、書籍、文具、香料、薬品、絵画など


 

その息子、清盛は忠盛の築いた基盤の上についに武士政権を樹立。栄華を極めたのですが、背後の宋の商人や南宋の支援なしには果たせませんでした。そもそも平氏に交易の独占を認めたのも日本国内では院でしょうが、宋の商人達が応じなければ成り立ちません。

清盛は権力を手中にしたとはいえ貴族でもない新興勢力。彼らが権力を維持するためには宋の富や力を必要とし、それに乗じて宋の商人は清盛を利用し交易圏を拡大し、あわよくば日本を属国にしようと企図したのではないでしょうか。

清盛の政権になり宋銭が大量に出回りました。しかも、国内の金銀と交換する輸入品の中心として一度に数百万枚もの宋銭が流入してきました。
しかし、外国の貨幣を流通させる必然性もありません。そもそも貨幣の需要もさほどなかったのです。日本では宋銭を貨幣ではなく、溶かして銅として仏具の材料に使用されていたほどです。

それまでは納税や商取引では絹や米が中心となっており、貴族を中心とした荘園領主=旧勢力が握っており彼らは外国との取引にも慎重でした。そこで、宋の商人たちは忠盛時代から築いた平氏コネクションを利用し、清盛に宋銭を独占取引させ通貨発行権を確保させようとしたのでしょう。銅を集めて鋳造するよりも素早く実現でき、南宋との関係も深化するとそそのかしたのです。
かくして宋銭を国家通貨として強制的に使用した清盛は、宋の思惑と合致し、京までの貿易ルートの拠点とし大和田泊(現神戸港西)を、そして、瀬戸内の中継点には厳島神社を築き宋を招き入れようとしました。


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厳島神社:清盛は宋との交易船の航海安全を祈り、
瀬戸内海航路の要衝であった厳島を篤く信仰した


商人だけでなく仏教を利用して南宋との国交を深めようとしていました。清盛は南宋を味方につけようと必死でした。

重源と栄西の帰国から2年後。遂に、中国から日本へ、待望の使者がやってきます。それまで博多でとまっていた中国との貿易ルートを、京の都にほど近い福原、現在の神戸まで引き込んだのです。
貴族の日記「玉葉(ぎょくよう)」には、この時の様子が綴られています。清盛のもとに宋の使者がやってきたこと。そしてこの時、後白河法皇自らが接見したこと。平安時代、皇族が異国の人間と接見することはありえないことでした。しかし、清盛は後白河法皇と宋の使者を直接、対面させたのです。
貴族の日記には、しきたりを破る清盛に対し、強い批判が書き残されています。「未曾有の事なり」。「天魔の仕業か」。こうした声に臆することなく、清盛は、後白河法皇を取り込むことで、開国に反対する貴族を押さえ込み、日宋貿易の基盤を築き上げたのです。
NHK広島放送局 


 
一方、この頃、寒冷化の影響でたびたび飢饉が起こり、1100年から100年間で日本の人口が700万人から600万人に減少したとも言われています。清盛は財政難から宋銭に頼らざるを得なかったのかもしれません。

しかし、飢饉による米不足がインフレを招き宋銭の価値が暴落。宋銭の価値が乱高下し通貨としての信認を失っていきます。宋銭を大量に流通させたことが裏目に出てしまい清盛に対する反発が強まっていきます。

このような背景から1179年、朝廷は宋銭を贋金とみなし、巷では「銭の病」なる言葉も出てました。それでも清盛は抵抗し、後白河法皇を幽閉し、高倉天皇らとともに宋銭を使い続けました。

しかし「驕る平家は久しからず」
1180年には神戸の福原京に遷都したものの半年で撤退、
1181年、高倉上皇、清盛と相次いで死去し、翌年には養和の飢饉も起こり平家は滅んでいくのです。
その後の平家に対する徹底した弾圧は、平家を利用し属国化を企てようとした南宋の策略を察した日本人の危機意識からではないでしょうか。


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壇ノ浦合戦図


 

平氏の行動は忠盛の海賊征伐に始まり、貿易商人たちとのギルド、そして政権を握り通貨発行権を独占するという一連の行動は、ヨーロッパでバイキング達が商人となり、そして議会を牛耳りイングランド銀行を成立させたような金貸し支配の構造を彷彿させます。

平家の私権性を見抜き、南宋支配あるいは商人支配の危機から脱した日本は、その後、本源性の高い鎌倉幕府の成立へと相成ったのでした。

その後、南宋も元に滅ぼされましたが、政治的緊張とは無関係に宋〜元の商人たちとの民間貿易は続き、一度浸透した宋銭は鎌倉時代になっても流通していきました。市場は国家の隙を縫って着実に拡大していったのでした。

今回は、日本経済史上最大の謎と言われる宋銭の流通に挑みました。

次回は鎌倉以降、中心勢力となる武士とはどのような人々なのか、暮らしぶりや地方や集団での位置づけなどから解明する予定です。

※参考「現代ビジネス・経営者・平清盛の失敗〜平家滅亡の経済学」

List    投稿者 tsuji1 | 2013-02-14 | Posted in 02.日本の金貸したちNo Comments » 

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