2013-03-27

【幕末維新の代理人】代理人認定#2 井上馨 〜攘夷→開国→倒幕→欧化政策 結局守ったのは己の利権?〜

「日本において、体制の変化が起きているとすれば、それは日本人だけから端を発しているように見えなければならない」
「事実、その変化はわれわれの考え方と異なる仕方でおきるかもしれないがそれが真に恒久的なものであり、且つ有益なものであるためには、徹頭徹尾、日本的性格という特徴を帯びていなければならない。」

 
(1866年4月26日、ハモンド外務次官からパークス在日公使館宛文書・・・遠い崖−アーネスト・サトウ日記抄3『英国策論』 より転記)

このシリーズは「幕末維新の代理人」をテーマに、近代以降における金貸しの日本支配の構築過程に着目、実際に金貸しの代理人=エージェントとして動いていたであろう人物達に焦点を当て、これまで語られなかった幕末維新の背景を明らかにしていくものです。
これまでのシリーズは、
【第1回】プロローグ
【第2回】黒船前夜〜アヘン戦争と英国による間接統治〜
【第3回】黒船来航〜ロスチャイルドのエージェントだったペリー〜
【第4回】幕末の下級武士たちを突き動かした役割不全と私権不全
【第5回】「攘夷を旗印に暴れた下級武士」と「倒幕に突き進んだ西国雄藩の本音」
【第6回】【幕末維新の代理人】代理人認定#1 伊藤博文〜日本最初の総理大臣は、金貸しによって作られた
をお送りしてきました。
前回記事でお伝えしたように、

(伊藤博文が)公家(北朝)出身の三条を抑えて、田布施町(南朝の末裔)出身の貧農が初代総理大臣の座を勝ち取ったのは、特筆すべきところです。金貸しの支援によってそのエージェントが国政のトップとなったのですから。

この金貸し支援政府の伊藤第一次内閣において、初代外務大臣(外務卿)となったのが井上馨です。今回はこの伊藤博文と同じく長州の雄であり、また英国に密航留学した長州ファイブの1人でもあった井上馨に迫ってみます。

【井上 馨(いのうえ かおる)】

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◆1.井上 馨 人生の概要
1836年 長州藩士・井上五郎三郎光亨の次男として、周防国湯田村に生まれる。
      16歳から藩校・明倫館で学び、20歳の時、二五〇石取りの志道家の養子となる
1862年 高杉晋作・久坂玄瑞とともに品川御殿山のイギリス公使館の焼討ちに参加(攘夷運動)
1863年 佐久間象山の武備論を伝聞、洋行を決意。伊藤博文らとイギリスに密航、半年後に帰国
1865年 坂本龍馬の仲介で小松帯刀と会い、薩摩藩の名義でグラバー商会から武器購入
      幕府の第二次長州征伐に備える
      長州戦争の休戦に当っては幕府の使者、勝海舟と談判
1868年(明治元年)32歳で参与兼外国事務掛として新政府に出仕
1876年 全権副大臣として日朝修好条規を締結
      欧州出張後、参議兼工部卿をへて参議兼外務卿(外務大臣)に就任
1887年 外人法官任用問題などの紛糾で辞任
      第二次伊藤内閣で内相、第三次伊藤内閣で蔵相を務め、政友会結成にも関与
井上馨(1836年11月28日〜1915年9月1日)は長州出身であり、伊藤博文らと共に英国に密航した長州ファイブの1人でもあります。藩から支給された渡航資金を彼らが豪遊して失ったときも、この5人の渡航費・滞在費用を工面したのがこの井上馨と言われており、金銭勘定や経済に長けた人物だったと評されています。
滞在半年ほどで英国留学から伊藤博文と共に帰国し、(幕府と対立する立場で)長州征伐の礎となった薩長同盟にも関与しています。その後、藩内の攘夷派の刺客に襲われ、瀕死の重傷を負いますが、なんとか一命を取り留めます。
明治維新後は、長州閥と言われた明治政府の参与となり、1885年(明治18年)には、初代総理大臣となった伊藤博文の第一次内閣で初代外務大臣を務めています。就任時には、欧米が非文明国とみなしていた日本を文明化すべく、欧化政策を取ることで、当時欧米諸国と結んでいた不平等条約を改正しようと奔走します。「鹿鳴館外交」と呼ばれるこの時代の外交政策の口火を切ったわけです。
また金銭感覚に優れていたと言われる井上馨は、政界だけでなく財界でも活躍し、三井物産の最高顧問も勤めます。彼の右腕と言われた渋沢栄一と共に、歴史に名を残した財界の雄とされています。
しかし一方で、汚職事件で有名な「尾去沢銅山(おさりさわどうざん)事件」を引起こすなど、己の権力を乱用する事件も史実に残しています。
以上が一般的に紹介される井上馨の概略史です。その中身を検証していきましょう。
◆2.攘夷論⇒武装論⇒英国密航⇒開国論へ 次々と変わっていく理念

1853年のペリーの来日以降、欧米からの開国圧力が高まる時代の中、当時攘夷論だった長州藩に倣い、井上も攘夷論を支持していました。高杉晋作や久坂玄吸瑞らと共にイギリス公使館の焼き討ち事件に参加するなど、筋金入りの攘夷派だった井上は、攘夷には兵力が必要と佐久間象山に師事。ただし彼の開国論には共感できず、武装論のみに収束。黒船の兵器の威力が長州にも伝わっていたのでしょう、この武装論が西欧留学のインセンティブとなります。
英国公使館を焼き討ちにするほど、過激な攘夷派であったにも関わらず、その襲撃からわずか5ヶ月後に井上は英国留学を決意注:当時は鎖国中のため海外渡航は禁じられています)。伊藤博文を留学に誘い、さらにその資金を工面したのも井上馨の方でした。

この四名に遠藤勤助を加えた五名のイギリス密航留学が決まったのだが、問題は資金である。最低でも一人一年間に千両は必要な滞在費。藩から支給されるのは一人三百両。これでは全く足りないのだが、これを調達したのが井上だった。藩の鉄砲買入金の一万両から五千両を用立ててもらえるよう頼んだ。もちろん聞き入れられないが一考を案じ、最終的には藩の御用掛金を担保に豪商・大黒屋から五千両を借り入れることに成功した。井上に纏わるこの手の金関係のエピソードは幾つもあり、後に財政・財界に力を発揮する理財の才が若き日からあったことが分かる。ちなみに洋行によって志道家に迷惑が掛るのを恐れ、この時井上姓に戻している。
Japanupdateより 
※長州ファイブ
伊藤博文、井上馨、井上勝(野村弥吉)、山尾庸三、遠藤勤助

およそ5日後に上海に到着すると、5人は甲板に立って停泊所の周辺を見渡しました。軍艦、汽船、風帆船などが幾百隻も投錨し、ひっきりなしにジャンクが行き交い、四層、五層の壮麗な建物群が林立する景観を見て、彼らは驚いてしまいます。東アジアにおける国際貿易の拠点として、上海には外国の商社、金融会社、新聞社などが続々と進出してきており、想像以上の繁栄ぶりを目の当たりにして、井上は眼が覚めるような思いに捉われます。
外国の強大な海軍力を考えますと、攘夷など到底不可能です、と井上はさっそく周布に手紙を書きました。開国の方針をとらなければ、将来国を維持することはできないでしょう、という彼の手紙を読んで、周布は「わずかに上海に行っただけなのに、早くも従来の所信を一変したか」といって一笑しました。井上の進取の気象は西洋を見る前に敏感に反応したようです。 
リンク 
※周布(☆麻田公輔)

元々攘夷派だった井上は、渡航途中の上海で早くも開国論支持に転じます。日本との圧倒的な技術(武力)の差を上海で感じたのが、この価値転換の理由と言われています。激動の時代、そして冒険的で野心的な若者ゆえに目の前の出来事を素直に受容し、考えも自在に変化するもの、と思われますが、本当にそうなのでしょうか?

英国では後に長州藩から密航した5人の若者を「長州ファイブ」
と呼び、彼らもまた明治維新の原動力となった。
 この長州留学生はジャーディン・マセソン商会(横浜、英一番館)
のウィリアム・ケズウィックや英国領事ジェイムス・ガワーの協力
を得て、ジャーディン商会所有のチェルスウィック号で上海に渡り、
ロンドン行きの貨物船ペガサス号とホワイト・アッダー号に分乗し
ながらロンドンに到着している。
 そして、英国留学中の世話役になったのは、ジャーディン・マセ
ソン商会の創業者の一人であるジェームス・マセソンの甥にあたり、
マセソン商会(ロンドン)の社長を長く務めたヒュー・マセソンで
あった。
 薩長連合の成立は1866年1月、それより先の1865年7月
に遙か彼方英国の地で後の日本を背負う薩長の若き密航留学生達が
出会い、留学生サークルも誕生し、親密な交流が始まっていたので
ある。
リンク 

英国留学を手引きしたのが金貸し・ジャーデンマセソン商会なら、滞在先の英国・ロンドンで面倒を見たのもマセソン商会だったのです。
この事実から、彼ら金貸しが、井上馨含む長州ファイブに、あたかも“自身で経験して考えが変わった”かのように仕向けたと思えませんか? 滞在先の面倒もみて、敢えてそのような経験を彼らにさせ、恩を売ったと。もちろん、英国の市場拡大のための代理人(エージェント)になってもらうために。
◆3.井上馨を始めとする薩長の留学組を英国が手厚く出迎えたのはなぜか?
当時世界一の近代国家だった英国から見れば、東アジアの端にある日本など取るに足らない途上国に過ぎません。戦国時代には世界的に鉄砲大国だった日本も、その後江戸時代の安泰さや鎖国の影響もあって、産業革命を経験した欧州に比べれば、船舶や兵器の技術進歩の差は歴然でした。
そんな英国の商人が、なぜ権力のある幕府ではなく、薩長の人間を手厚く面倒を見たのでしょうか
そこには、商人として日本市場に武器や船舶を販売するという明確な目的があったのです。事実、グラバーは薩長を始めとする各藩に船や武器を販売していました。具体的な取引内容を見てみると・・・

 密航留学生などを通じて薩摩・長州両藩との人脈を築いたトーマ
ス・ブレイク・グラバーは
、欧米列強に対抗すべく軍備強化に乗り
出していく幕末・維新期の日本にあって武器商人として華々しい活
躍を成し遂げる
。少し長くなるが、すでに両書とも入手困難になっ
ているため、杉山伸也の『明治維新とイギリス商人』(岩波新書)
石井寛治の『近代日本とイギリス資本』(東京大学出版会)のグ
ラバー商会とジャーディン・マセソン商会の艦船・武器の取引内容を紹介しておく。
幕府は1862年7月に外国艦船の購入を許可すると、幕府や各
藩は競って契約に乗り出し、日本は格好の外国艦船マーケットとな
った。こうした中でグラバーはジャーディン・マセソン商会から委
託されて、鉄製蒸気スクリュー船カーセッジ号(12万ドル)を幕
府経由で佐賀藩に売却した1864年10月を契機に本格的な艦船
取引に乗り出していく。
艦船取引は利潤も大きく、このカーセッジ号についても販売価格
12万ドルに対して簿価は4万ドルとなっており、この取引だけで
ジャーディン・マセソン商会は5万8000ドルの純益をあげている。
グラバーはこの艦船取引に際して下の三つの方法をとっている。
(1)グラバーが蒸気船や帆船を見込みで買いつけ、商会用にすで
に運航させている船舶を売却する。
(2)グラバーが、ジャーディン・マセソン商会やデント商会など
の販売希望者、あるいは幕府や諸藩など購入希望者からの委託をう
けて適当な購入先や船舶をさがし、仲介・斡旋の手数料をとって販
売する。
(3)幕府や諸藩からの依頼によって艦船の建造の仲介をする。
 この中で特に(2)の場合、利潤はジャーディン・マセソン商会
とグラバー商会の間で折半されることになっていたが、仲介者への
手数料などの経費は予定価格に上乗せして販売されていた。

留学生達が英国で学んでいた頃、すなわち1864年から68年
5年間にグラバーないしはグラバー商会の名前で販売された艦船
は24隻、価額にして168万ドルに及ぶ
。これは、同時期に長崎
で売却された艦船の約30%、価額にして36%にあたる
。そして、
この売却先は薩摩藩が最も多い6隻、ついで熊本藩の4隻、幕府、
佐賀藩、そして長州藩の各3隻となっている。しかし、薩摩藩6隻
の内のユニオン号(桜島丸、後に乙丑丸)は土佐藩士である上杉宗
次郎(近藤長次郎)が仲介して長州藩が薩摩藩名義で購入した船で
あり、実際には薩摩藩5隻、長州4隻となる。
グラバーはこうした艦船の売却以外に、各藩の依頼によって英国
での船舶建造も仲介していた。この建艦は、グラバーの長兄である
チャールズ、そして薩摩留学生達をロンドンで出迎えたジェイムズ
らがアバディーンで設立した船舶保険会社、グラバー・ブラザーズ
社を通じて行われている。
(中略)
グラバーはこの艦船取引の他に、小銃や大砲などの武器や弾薬類
のビジネスも手掛けており、1866年1月から7月と1867年
に長崎で売りわたされた小銃の合計3万3875挺の38%にあた
る1万2825挺
を扱っていた。
中でも有名なのが長州藩との取引である。幕末の長州藩は幕府の
敵で、長崎では武器の購入ができない。そこで、1865年、土佐
の坂本龍馬や中岡慎太郎らは薩長和解のために亀山社中を使って薩
摩藩の名義でグラバーから武器を購入して長州藩に譲り渡す仲介

し、7月には長州藩は薩摩藩士になりすました英国留学組の伊藤博
文と井上馨を長崎に派遣
した。この時の取引でミニェー銃4300
挺、ゲベール銃3000挺を9万2400両
で購入した。
この亀山社中が斡旋した艦船取引もある。土佐藩士である上杉宗
次郎(近藤長次郎)が仲介して薩摩藩名義で購入したユニオン号が
これにあたる。しかし、この仲介は表面化し、上杉宗次郎は盟約違
反を同志らに問われ切腹する。長州から得た謝礼金をもとに英国留
学に旅立つ目前であった。
リンク 

以上の記述からわかるように、グラバーは日本という新興市場で広範囲に商売をしていたのです。薩長だけではなく、幕府とも取引しています。敵対する2者に武器を売るのは戦争屋・金貸しの上等手段。グラバーは紛れもない武器商人だったのです。
さらに、1865年の7月、“長州藩は薩摩藩士になりすました英国留学組の伊藤博文と井上馨を長崎に派遣”とあるように、幕府と敵対する長州と薩摩の間を取り持ったのが、坂本龍馬の「亀山社中」だったのです。当然、龍馬にもグラバーの触手が伸びていたことになります。

 ※井上馨から話が逸れますが、そもそも、亀山社中の設立は1865年5月。何の経済的基盤も持たない龍馬が、そのたった2ヶ月後の7月に9万2400両で銃売買の仲介を行っているのは大変奇妙です。そもそも商社の原型と言われる亀山社中という組織さえ、何の知識も人脈もない下級武士であった龍馬が中心となって設立したのかは極めて怪しい。いずれもグラバーの支援があったからこそ・・・と考えられます。
(参考:リンク

◆4.突然の帰国、そして薩長同盟と倒幕への潮流
記述は前後しますが、1863年に薩英戦争の勃発の知らせを受けて、英国留学からわずか半年で伊藤博文と井上馨の2名は日本に帰国します。帰国後の井上の動きを追ってみると・・・

1863年 薩英戦争勃発
11月4日 井上ら5名はロンドンに到着
1864年(元治元年)(29歳)
3月 密航者5名は日本発の「砲撃を受けた連合国は幕府に抗議するも
  幕府返答は煮えきらず、連合国は長州藩に対し重大な決意をするに
  至った」との報道に驚き、井上と伊藤は直ちに帰国を決意。
4月中旬  井上と伊藤はロンドンを発つ
6月10日頃 2人は横浜に到着
やがて英国公使から連絡があって、他の3国も了解したから国に帰って
尽力して欲しいと、藩主あての公使からの書簡を手渡された。
書簡に対する返答は到着から12日後と決まった。
6月18日 英国艦に乗り豊後姫島まで送られる
6月24日 山口に着き、藩の事情を聞くと、「幾百艘の軍艦が来襲しても
      死力を尽くして防戦する」という藩の方針が決定している
      との事であった。
6月25日 伊藤と共に藩庁に出頭し、海外の情勢を説き攘夷が無謀なこと、
      開国の必要性を訴える。攘夷論者を警戒して春山花輔と変名。
6月26日 藩主の下問に応じて伊藤と共にそれぞれ海外の事情を進言。
      しかし、藩の趨勢から方針転換は困難という。
6月27日 井上と伊藤が希望していた御前会議が開かれる。藩の重役達の
      前で西洋事情を話しても理解されず、西洋文明を説明しても
      「ホラを吹くにも程がある」と嘲笑される。攘夷論者からは
      命を狙われる程の意識のギャップに、井上と伊藤は隔靴掻痒の
      思いであった。
6月29日 藩主の立場としては、藩士の攘夷熱は抑えがたい状況に到る旨を
      毛利登人から伝えられる。これに対し、「藩政府員が『防長2州が
      焦土と化しても天勅を奉じて攘夷を遂行する』とは、その言葉は
      美しいようであるが1敗の結果、一同討ち死にしても藩主一人残る
      理由はないからその最後の決心があるか?」を藩主に伝えるよう要請。
7月2日 藩主より英国軍艦に行き、止戦の為の交渉をするように命ぜられる。
7月5日 伊藤と共に姫島の英国艦に行き攻撃猶予を談判するも成らず。
7月21日 井上は、脱走の罪で萩の実家に幽閉中の高杉晋作を訪問。
8月4日 藩より外国艦との交渉をするように命ぜられ、8月5日井上と前田
     孫右衛門とで小船に乗り艦隊に向かう途中約束の時間が過ぎた為
     イギリス、フランス、アメリカ、オランダの四カ国の艦隊が下関
     を砲撃。8月7日には艦隊の兵士2千名が上陸。
8月8日 講和使節宍戸刑馬(高杉晋作の仮称)に従い伊藤と共に講和使節
     として英国艦に行くが失敗。藩では征長の軍に対しても応戦
     しなければならず、やむを得ず井上や高杉らに外艦の対応を
     指示したものである。
8月10日 井上は講和使節として毛利登人に従い外国艦に行くが談判ならず。
8月14日 講和使節宍戸刑馬に従い外国艦に行き、講和条約を締結。
     英国海軍クーパー提督は長州藩の発砲に対して賠償金を要求したが、
     「これは朝廷・幕府の命に従った事で我が藩の私意によったものでは
     ない。4カ国公使から幕府に請求するのが筋である」として責任転嫁
     する事が出来た。これは高杉の機転によるものであった。
     一方で和議に反対する攘夷論者は多く、山口に滞在する公卿(三条
     実美、四条隆謌、東久世通禧)らは毛利定広に対して抗議し、藩政
     府員は困って「あれは高杉、井上、伊藤らが藩主を篭絡してやった
     ことで、、」などと逃げ口上もあり、井上は帰国以来命を狙われる
     のは当然という時期であった。
9月25日 山口藩庁(政事堂)での君前会議が終って午後8時過ぎ、湯田の
     自宅まで(約2Km)の帰途、袖解(そでとき)橋で襲撃され、重傷を負う。
     聞多は兄に介錯を頼んだが、母親がそれを阻止。たまたま美濃の
     国の浪士・所郁太郎が聞きつけて駆けつけていたので、焼酎で傷を
     洗浄し、小さい畳針で縫合。傷6箇所で50針を縫合され一命を取留める。
1865年(慶応元年)(30歳)
    1月2日 高杉晋作、奇兵隊を率いて下関新地会所(藩の出先施設)
    を襲う。井上は奇兵隊の山口鴻城軍総督になる。
2月22日 長州藩の藩是は一本化し藩主父子による祖先の黄檗宗東光寺
      墓参をもって新たな時代が始まった。
      藩政府は幕府による征長軍に備えて、隊を配置。その統括をする
      人物は高杉晋作との衆議であったが、高杉はこの小康の時期に
      外遊したいと願い、井上らの働きかけもあって藩政府は高杉と伊藤
      の2名の洋行を認め、千両を下賜。表面上は「英学修業並びに事情
      探索の為、横浜に差し遣わす」との辞令。しかし、実現に到らず。
4月中旬 井上は楊井謙蔵と共に外国人応接掛を命ぜられる。下関開港に
      尽力していた井上、伊藤、高杉らを暗殺する謀議があり別府に逃げる。
4月22日 外国人応接掛を免ぜられる。
5月上旬 この時期、坂本龍馬、中岡慎太郎が薩摩と長州を
      結びつける為に、大宰府で5人の公卿等に面談。
      その折長州藩の小田村素太郎、時田少輔に会い、彼等が下関で
      桂小五郎、井上、伊藤らに伝えた。
7月16日 井上と伊藤は薩摩藩の名を借りて汽船と小銃購入の為長崎に行く。
      
1866年(慶応2年)(31歳)
正月4日 坂本龍馬ら一行が大阪に到着。薩摩藩邸に滞在し小松帯刀、
      大久保一蔵、西郷吉之助、村田新八らと懇談を重ねる。
4月18日 越荷御用掛となり、下関伊崎・竹崎農兵管轄を命ぜられる。
7月25日 井上は安芸明石に進軍。7月28日 折敷畑にて幕軍を破る。
9月2日 井上は広沢兵助(1834-1871暗殺)、太田市之進(1841-1871)、
      長松文輔らと共に嚴島の大願寺に着き、幕使勝安房と会見し、
      講和をさぐる。勝は「慶喜は列侯を京都に会し衆議公論の帰する
      所に拠って大政を更新し、海外諸国はわが国の隙を狙っている
      から争いを止めて・・・」と述べ結局、幕府軍の撤収にあたって
      追撃しないという事になった。
      薩摩藩の名のもとで入手した銃と艦艇により長州が善戦した事
      は井上と伊藤の尽力によるものだと後日山県有朋が
      「懐旧記事」で賛辞している
12月29日 英国公使ハリー・パークス(1828-1885)はキング提督に
      長州藩を訪問させる事とし、井上らは三田尻で迎え饗応し、
      翌日停泊する英国艦提督室で毛利敬親父子との会見が実現。
      この時井上と遠藤謹助が通訳をした。
1867年(慶応3年)(32歳)
1月3日 井上と遠藤はキング提督の艦艇で兵庫に到着。
1月14日 京都に入り、品川弥二郎、薩摩藩の西郷大久保らと密議し、
      23日大阪へ。
10月10日 井上は藩主からの密命を持って太宰府に行き、三条ら公卿に
      会い、時期を見て京都へ帰ることに成る旨を伝えた。
10月13日 薩摩藩に倒幕の密勅を下す。(在京の薩摩藩幹部は倒幕で
      結束していたが、国許では情況は不確定な為に密勅が出た
      ものである)
10月14日 萩藩に倒幕の密勅を下す。徳川慶喜が大政奉還を上奏。
      三藩連合軍は12月28日を期して京都に兵力を投入する事になり、
      11月下旬から薩摩軍の藩船が三田尻を経由して続々海路京を
      目指した。
※年齢は、当時の井上馨のものを示す
wikiより ※一部編集 

以上、英国からの帰国後の一連の流れを見ると、まだ攘夷論が残っていた薩長藩を開国論へと諭し、確実に藩の軍事力を補強していきます。これらの動きが、後の薩長同盟への下地となると同時に、敵対する幕府へのけん制と対峙ともなります。
この井上の行動の随所(実際に武器や船舶などの売買時)、英国やグラバー/マセソン商会の影があります。武器の提供と併せて、その背後で経済的支援していたのが金貸しだということです。
恣意的に国内での対立構造を生み、戦争ビジネスを促進させる金貸しの常套手段に、井上は結果的に加担した形になります。
そして、薩長閥と言われる明治政府の樹立後、井上馨は、そのコネクションによって伊藤博文内閣の元で初代外務大臣となります。日米修好通商条約に代表される、幕末に日本(幕府)が諸外国と結んだ条約は、日本にとって領事裁判権や関税自主権のない不平等条約だったため、井上にとってこの不平等条約の改正が、初代外務大臣の主な仕事となりました。
近代国家としてのスタートを切るために、日本のために動いたかのように思えますが・・・

「之(条約改正)に処するの道 惟(た)だわが我帝国及び人民を化して、恰(あたか)も欧州邦国の如く、恰も欧州人民の如く ならしむるに在るのみ。即ち之を切言すれば、欧州的一新帝国を東洋の表に造出するに在るのみと。」
条約改正を成功させるためには、「日本の国と人民をヨーロッパの国と人民のようにするしかない」すなわち「ヨーロッパのような国を東洋(アジア)に作り出すしかない」
と考えていたことが分かります。
鹿鳴館は、まさにそれをアピールする場だったというわけです。
リンクより

と、日本の欧米化に舵を切ります。
井上自身が事業計画し、お雇い英国人建築家ジョサイア・コンドルが設計した「鹿鳴館」で、海外の要人を招いてバザーや舞踏会などを開催したりしたのです。来客招待だけでなく、国内のイベントでも(着物を捨て)洋服で着飾った当時の日本人が慣れないダンスをしたりと、まさに“欧米か(化)!”(ふるッ)
井上馨の外交政策が、西洋の真似ごとに過ぎない「鹿鳴館外交」と揶揄される所以です。
具体的目標だった領事裁判権や関税自主権の復権も上手くいかず、その代わりに内地開放(外国人が自由に日本を訪問、滞在できること)といった外交カードを切るなど、やってきたことも“折衝”ではなく、まるで(市場的な) “取引” 外交です。
もちろん井上馨が日本の近代化に貢献したことは、現在でも多くの人が認めるところですが、結局のところ、「国を守る」というよりも、「欧米に追いつくためにそれまでの日本文化を捨て、西洋列強の真似をした」政策だったといえます。
◆判定
第1回の伊藤博文と比較すると、金貸しの手先となったという確証は出てきませんが、若き頃の藩や国家を守るという実直な姿勢から転じて、グラバーを窓口とする英国の金貸しの思惑に乗せられた形で倒幕への関与、そしてその後の政府中核としての利権追求、財界における権力拡大、欧化政策に代表される外国迎合型の外交政策等、いつの間にか金貸しに代わって近代日本市場を発展させた張本人となったとみなせます。よって、第2回の井上馨も、金貸しの代理人認定 で決まりです。

List    投稿者 pipi38 | 2013-03-27 | Posted in 02.日本の金貸したちNo Comments » 

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