2022-06-17

日本の銀行の起源は、【お寺】だった?!

古くから銀行のような金融業者は存在しており、江戸時代の両替商がルーツだと言われています。両替商として大きな成長を遂げた三井や住友などは、現在の大手銀行グループの源流となっています。

江戸時代よりも昔、鎌倉時代にもお金の貸し借りを担う業者がありました。「土倉(どそう)」です。

 

平安時代(794年~1185年頃)の末期に日本でも大量の宋銭が輸入され、都市を中心に貨幣経済が浸透すると、無担保で高利の貸金業をはじめ、借上(かしあげ)と呼ばれるようになりました。

これらの業者が担保として物品を預かるようになり、担保品を保管するために土蔵を建てたことから「土倉」と呼ばれるようになります。

 

https://chitonitose.com/jh/jh_lessons55.htmlより画像を引用

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南北朝期の京都では土倉は335軒存在し、うち280軒が「山門気風の土倉」といわれる比叡山延暦寺の支配下のものでした。土倉には山門をはじめとする寺院の僧侶や日吉社、春日社などの神人が多くいました。

当時、寺社は特権階級にあたり、お金を貸し出せるだけの多額のお金が蓄えられていたのでした。信心深い当時の人々は、神さまや仏さまの天罰を恐れて、借りたお金を一生懸命返そうとしたようです。

 

室町幕府は土倉に対し、土倉役と呼ばれる税を課し、主要財源の一つとしました。1393年に幕府は土倉を支配下に入れる。この時旧来の権門勢家の既得権(関銭など)をすべて否定し,年額6000貫の酒屋土倉役と引換えに,その他の臨時課役いっさいを免除した。

以後、寺社と幕府の間で激しい駆け引きが行われるが、当時は室町幕府の全盛期であったため、これに抗うことは出来ませんでした。

寺社から自立した土倉は幕府と結びつきながら、土倉による座(土倉方一衆)が形成されるようになります。

また、幕府の規制によって自由な開業や廃業、火災などを理由とした倉役免除などは原則的には認められていませんでした。南北朝の動乱以降、荘園制が崩れてくると、荘園領主である貴族や寺社の資金繰りが苦しくなり、土倉に借金を重ねました。

スポンサーである寺社の没落と対照的に土倉は栄え、独立していきました。

 

また、1430年ころから土倉はお金を元手に貸付を行なう「合銭(ごうせん)」にも従事するようになり、預金や融資、さらに為替業務といった銀行に近い業務を営むようになっていきます。

多くの人から恨みを買いやすい土倉はたびたび、徳政一揆で襲撃の対象にされました。それに対抗し、金で用心棒を雇い自衛するようになります。

後の僧兵の前進となったのではないでしょうか。

 

金貸しのシステムは西欧十字軍遠征1290年よりも前に、日本に古くからあったことが気づきでした!

どんどん追求を深めて更なる気づきへ発展させていきます!

List    投稿者 y-kana | 2022-06-17 | Posted in 02.日本の金貸したちNo Comments » 

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