2013-04-24

幕末維新の代理人】代理人認定#3 五代友厚 〜近代日本市場は西洋金貸しとその代理人によりつくられた〜

金貸し日本支配の構築過程に着目し、その代理人として動いたであろう人物に焦点をあて、幕末維新の背景を明らかにしていくシリーズ。本日は「大阪財界の父」と呼ばれた五代友厚を扱う。
 

         日本において、体制の変化が起きているとすれば、
    それは日本人だけから端を発しているように見えなければならない
                〜アーネスト・サトウ〜

にほんブログ村 経済ブログへ


前回までの記事はこちら
【第1回】プロローグ
【第2回】黒船前夜〜アヘン戦争と英国による間接統治〜
【第3回】黒船来航〜ロスチャイルドのエージェントだったペリー〜
【第4回】幕末の下級武士たちを突き動かした役割不全と私権不全
【第5回】攘夷を旗印に暴れた下級武士と倒幕に突き進んだ西国雄藩の本音
【第6回】代理人認定#1 伊藤博文〜日本最初の総理大臣は、金貸しによって作られた〜
【第7回】代理人認定#2 井上馨〜攘夷→開国→倒幕→欧化政策 結局守ったのは己の利権?〜
 
 
人生の概略

1835年 12月26日 薩摩藩士である五代秀尭の次男として生まれる。
1857年 長崎遊学を命ぜられる。
1859年 高杉晋作らと共に上海へ赴く。
1863年 薩英戦争において交渉の結果、自ら寺島宗則とともにイギリスの捕虜となる。
1864年 薩摩藩からの追究を逃れるため、トーマスグラバー邸に潜伏。
1865年 欧州各国を歴訪し、日本の遅れを痛感する。
1866年 長崎の小菅に日本初となる近代ドッグ(小菅修船場)建設着手する。
       その後、長崎製鉄所(現・三菱重工業長崎造船所)設立する。
1867年 幕府が崩壊する。御納戸奉公格という商事面を担う。
1868年 外国事務局判事として初めて大阪に来る。
       初代大阪税関長に就任。政府に大阪造幣局の設置を進言する。
1869年 新政府の参与を任ぜられていたが、官を辞し実業界へ。
       大阪へ再び戻り、金銀分析所を設立する。
1871年 大蔵省、造幣局(現・大阪造幣局)設立する。
1873年 弘成館(全国の鉱山の管理事務所)を設立し日本の鉱山王となる。
1874年 半田銀山(福島県)の経営を開始する。
1875年 朝陽館(染料の藍の製造工場)を設立する。
1876年 堂島米商会所を設立する。
1878年 大阪株式取引所(現・大阪証券取引所)、
       大阪商法会議所(現・大阪商工会議所)初代会頭に就任する。
1879年 大阪商業講習所(現・大阪市立大学)を創設する。
1880年 東京馬車鉄道、東京電気鉄道(現・東京都電車を)創設する。
1881年 大阪青銅会社(住友金属工業)、関西貿易社を設立する。
1882年 共同運輸、神戸桟橋(川崎汽船K-LINE)を設立し大阪湾を近代化させる。
1883年 汽船会社を合同で設立する。
1884年 大阪商船(旧・大阪商船三井船舶→現・商船三井)大阪堺鉄道(南海鉄道)
       を設立する。
1885年 糖尿病により50歳の若さで没する。

幼少の頃、琉球交易の係を兼ねた父が、藩主から世界地図の模写を引き受けてきた。それを五代は引き受け2枚分を筆写している。一通は藩主に献上。残る一通で地球儀をつくった。兄が保守派であったのと対照的に、五代は早くから異国文物に関心を持っていたようだ。
 
長崎遊学は命ぜられたとあるが、海運の隆盛を理由に、五代自らが藩主に建白書を出し実現したもの。当時、大隈重信、後藤象二郎、坂本龍馬、岩崎弥太郎、高杉晋作なども、長崎に集結しており、五代は果敢な青春を明治の傑物達と共に過ごす。
 
上海へは懇願するも藩から渡航を拒まれ、五代は水夫として幕府艦千歳丸に乗船する。渡航への並ならぬ熱意が伺える。
 
五代の人柄を表す、こんな話がある。彼が江戸に上京したときの発言だ。「江戸は将軍のおひざもとでごあすな。因循姑息で、おいは性には合いもさんど。」
 
五代の幼少時代は保守鎖国が一般的な潮流。一方で薩摩藩の財政は、琉球を経由する密貿易によって支えられていた。兄の保守因循な性格への反発と、表裏ある藩の影響から、実直、合理的な性格の五代は、西洋志向を強めていったのではないか。その後、一貫して開国派=特に市場開放派となっていく五代の動きを見ていく。
 
 
英国エージェントとしての五代
 
%E8%96%A9%E8%8B%B1%E6%88%A6%E4%BA%892.jpg
薩英戦争
 

既に英国は薩摩藩内に協力者を作っていました。五代友厚です。1861年の暮れ、五代は薩摩藩家老の小松帯刀の命で長崎にグラバーを訪ね、二隻の蒸気船を発注し、直後に薩摩藩御船奉行副役に任命されています。
 
薩英戦争では藩の三隻の船と共に英軍の捕虜になりますが、英国側と通じて船を引き渡したと推測されています。戦争後、薩摩藩の追求から逃れる為、英国によってかくまわれますが、その間五代には英国から記録に残るだけでも百両の金が渡されています。ほどなく五代はグラバー邸に潜伏していることを薩摩の密偵に突き止められますが、小松帯刀が間に入り、五代は許されます。薩摩は英国との友好関係に入り、倒幕に必要な軍艦や武器の供給をグラバーから受けるようになります。

薩英戦争は1863年。とすると、五代と英国との関係は、それ以前の1861年グラバーとの商談前後か、若しくは1859年の上海渡航の前後。上海では青鷹丸を購入したらしく、この時期ジャーディン・マセソン商会と接触していた可能性も高い。
 
幕府以前に、故郷である薩摩藩を裏切る五代。それは英国との密約に加え、上海渡航やグラバーとの交流で、西洋列強の巨大資本と軍事力を十分理解していたからだろう。五代はその合理的な性格から、力の原理に従い、立ち振る舞っていたと考えられる。
 
薩摩と英国が友好関係に入ると、五代は期を逃さず、薩摩藩へグラバーを紹介し、武器、艦船の取引を仲介していく。
 
 
金貸しエージェント養成期間 
 
%E3%82%B0%E3%83%A9%E3%83%90%E3%83%BC.jpg
トーマス・グラバー
 

1865年、五代友厚、寺島宗則を含む薩摩藩の19名が留学します。資金はジャーディン・マセソン商会、ロンドンで世話をしたのはグラバーの兄です。
 
クラレンド外相はパークス駐日公使に宛てた通信文の中で五代と寺島を「薩摩のエージェント」と呼んでいます。加治氏が指摘する通り、シークレット・エージェント、即ち英国のために働くスパイ工作員以外の意味ではなさそうです。

薩英戦争と、その後の武器売買による金貸しへの功績により、五代は本格的にエージェント養成を受けているのではないか。ここでもジャーディン・マセソン商会や、グラバーとの密接な関係を保っている。五代だけでなく一緒に留学した他メンバーも、金貸し代理人の疑い濃厚である。
 
ちなみにグラバーの妻ツルをグラバーに紹介したのも五代友厚。
 
 
維新戦争の一幕

1865年、幕府は、四国連合艦隊の下関砲撃、薩英戦争でアームストロング砲の威力を知り、、グラバーに21門注文してきた。グラバーは早速英国から輸入したが、幕府の支払いが滞り、引き渡さずにいるうちに維新戦争が始まり、幕府注文の大砲が官軍の手に渡るという皮肉な一幕となった。
グラバーは次第に西南雄藩の薩摩, 長州, 土佐, 佐賀、熊本藩との接触を深めていく。この時期、1865年にアメリカの南北戦争が終了し、不要となった艦船や銃が中国市場に大量に出回っていた。グラバーは、混沌とした政治状況の中で幕府、各藩が競って軍備の拡張に乗り出していることを見抜き、貿易商にとっては格好の市場であるとして「死の商人」へ舵を切る。

五代友厚が仲介した薩摩とグラバー、英国との関係は、武器取引を中心に深まっていく。幕府の支払いが滞り、大砲が官軍の手に渡るとあるが、薩長とグラバーとの関係、或いは開国派である新政府軍と鎖国派である幕府軍を考えれば、単なるこじつけに過ぎず、最初から仕組まれた筋書きだったと考えられる。
 
グラバーは死の商人として、五代をはじめとする維新の志士達を営業マンとして使いながら、巨額の利益を上げつつ、武器の供給量を操作し、幕府の力を弱め、日本を開国へと導いていった。
 
 
薩長同盟の舞台裏

市内丸山にある史跡料亭花月は1642年創業。ここでは、花月にある日本最古の洋間(春雨の間)で高杉晋作と薩摩藩の五代友厚が会談し、鉄砲をイギリスから購入する商談がまとまったことが誇りとして語り継がれている。これは、高杉が2月に長州藩内の藩論を統一させた直後であり、薩長同盟の前年である。
 
薩長同盟も偉い者がやったのではなく、もともと薩摩と長州の下部の藩士たちに素地があった。それは長州が追放されてから薩摩を名乗っていたことに表れている。下っ端の者が長崎を舞台にそういう動きをしていた。これらの上に薩長同盟というものになった」。

ただの下級武士である五代が薩長同盟の基礎を築けたのも、イギリスから武器を輸入できる商人であったから。人脈を上手く活用し、日本列島を戦乱の渦へと後押ししていく。
 
 
なぜ大阪なのか

薩摩藩出身の五代が初めて大阪に足を踏み入れたのは1862年です。2度目の上海渡航に向けて島津久光の許可を得るために長崎からやってきたのです。そのときの大阪の堂島川沿いの町並みは、こう描写されています。「蔵屋敷が多いわりに武士の姿が少ない。ほとんどの通行人が商人。」「みんな働いている。いそがしそうだ。五代はうれしくなった。だれも彼もが利ざやを求めて、張り詰めた顔で動き回っている。」
そして五代はその夜、曽根崎で同郷の大久保利通と飲むのですが、近くの座敷で町人が上座に下座に武士が座っているのを見て、五代は驚いてこういうのです。「大阪は万事分かりやすか。銭さえあれば天下人ごあすな。」
これに大久保がこう答えます。「交易じゃんど。こん街では富によってすべて動きもす。」

倒幕後、江戸が東京へ=日本の首都へと変わることで、大坂が衰退することを憂い、発展のために、五代友厚は尽力した。と語られることが多い。が、実際のところ、この商人気質が五代には合っていたようだ。
 
 
海外資本が流入できるシステム構築

明治2年、五代は大久保と協議のうえ実業の道を進むことを伝え大阪へと向かう。大富豪、山中善右衛門(鴻池)、殿村平右衛門、広岡久右衛門たちを集めて、まず銀行の前身ともいうべき為替会社と通商会社を大阪に設立することを要望した。ちょうどその頃、大蔵省をやめた渋沢栄一も銀行をつくって、実業界のリーダーとして出発している。その後、五代は鉱山業、紡績業などに乗り出したほか、天和銅山(奈良)、半田銅山(岩手)など4銅山を経営、たちまち鉱山王となった。
 
五代は堂島米商会所の組織化、大阪株式取引所の開設、大阪商法会議所の創設などに次々取り組み、商法会議所が生まれると彼は初代会頭に推された。現在の商工会議所の前身がこれだ。明治13年、彼は現大阪市立大学の前身の大阪商業講習所を設立し、商家の子弟に、近代的な経営学を教えることにした。続いて大阪製銅所、馬車鉄道、関西貿易社、共同運輸会社、阪堺鉄道、大阪商船などの事業化に参画して、さながら会社づくりの神様の如く、多くの経済組織と企業づくりを行った。
 
明治18年6月、糖尿病を患った五代は、9月25日、東京の自邸で永眠した。51歳だった。商業家というよりも商工業界のリーダーとして関西財界の基礎づくりに功績を残した五代は、いまも鹿児島と大阪商工会議所にその銅像が遺されている。

明治維新後、多くの志士達は、軍人や政治家へと転身し、国益と金貸しの思惑との狭間で揺れ動きながら、人生を歩む中、五代は一直線に市場・交易へ収束している。新政府高官達とのつながりを維持しながら政商、実業家となり、人脈を生かして多額の利権を狙う。やがて大阪財界の父と呼ばれるまで上り詰めるが、それは五代が志向した市場経済化と、大阪商人の向かう先が同じであったからに過ぎない。
 
時代の流れを利用して、多くの会社組織を設立。それらへ支配権が及ぶ=資本で操作できる、銀行や株式取引所を設立し、外資がより流入でき、日本市場で儲けることができるように市場の基盤を構築している。日本の近代市場は、西洋金貸しと、その代理人である日本人達によって創られた。五代を評する言葉に、士魂商才とあるが、士魂があったかは大いに疑問である。
 
%E4%BA%94%E4%BB%A3%E5%8F%8B%E5%8E%9A%E3%81%AF%E3%82%93%E3%81%93.jpg
 
五代友厚は、西洋金貸しに自ら進んで協力し、彼らの思惑に従い日本市場を売り渡した人物ではないか。文句なしで金貸し代理人の認定をしたい。

List    投稿者 tani | 2013-04-24 | Posted in 02.日本の金貸したちNo Comments » 

トラックバック

このエントリーのトラックバックURL:
http://www.kanekashi.com/blog/2013/04/2005.html/trackback


Comment



Comment